第9話 武士の髪
「まだどこかに行くつもりなの? 故郷にでも帰る心づもり? 鉄之助の生まれはどこだっけ? 徳川に与した者への風当たりはきついからね、親戚縁者にも迷惑がかかるでしょう。父さまも認めているし、しばらくうちで隠れて働きなさいよ。賄い飯に、寝床があれば充分でしょう。とりあえず、こき使ってあげる」
「どうでもいいだろ、そんなの。お前には関係ないや」
地図を力任せに奪った鉄之助は、たちまち拗ねた。
かわいくない態度だった。脱走さんの、お尋ね者なのに、やけに自信満々で凛としている。ならば、こちらも正直な感想を述べてしまえ。
「自慢の向こう傷もいいけれど、そうやって頭の後ろで、ひとつにまとめて総髪にしていると、額の傷がよけいに目立ち過ぎる。いっそのこと断髪して、前髪を少し垂らしてみたらどうかしら」
地図を筒状にくるくると丸めながら、鉄之助は柚の目を窺った。
「断髪だと。髪を、切るというのか」
「うん。おとなっぽくなるかも。雨降りの今日なら、手が空いているから、やってあげてもいいわよ」
「『いいわよ』って、お前が切るのか」
「失礼ね。ほかに誰が切るのよ。こう見えても私、妹弟たちの髪を全部切っているのだから、腕は確か」
手で鋏を持つ真似をしてみた柚は、鉄之助の総髪に触れてみる。鉄之助は抗った。
「武士が、旅籠屋の娘に、髪を? せめて、髪結いに」
「なによ。いやならいいわよ、無理しなくても。いやしい町人の娘には、触られるのもいやってことね。屈辱ってことね」
「そういうわけじゃないが」
「そういうことでしょ。鉄之助の顔が、人相書きの御触れにでもなったとき、真っ先に気がつかれるのは、目印の傷よ? せめて髪を下ろして、時間稼ぎをしなさい。徳川武士の誇りだけで生きてゆけるような、時流じゃないのよ。行き倒れるぐらい我慢した鉄之助なら、分かるでしょ」
思い当たるふしがいくつかあるのだろう、鉄之助は腕組みをして項垂れた。
「確かに……土方(ひじかた)さんも、断髪していた」
土方さん?
耳慣れない名前に、柚はまばたきをして次のことばを待ったが、鉄之助は突っ込んだ昔の話には口を閉ざした。
「分かった。よろしく頼む」
逡巡することしばし。ようやく鉄之助は、髪に鋏を入れることを承諾した。
万が一、手元が狂ったら大変なことになる。柚は、倹約のために消していた灯りにこっそり火を入れ、帳場を照らした。辺りはようやく、ぼんやりと明るくなった。
「では、切ります」
そっと元結を解くと、鉄之助の髪は肩先までふわりと広がった。少年とはいえ、れっきとした武士の髪。柚は緊張を新たにした。鉄之助の髪は黒々としており、とてもしなやかで伸びがいい。量も、たっぷりとある。鋏は、髪の上を滑った。
柚の手によって、鉄之助の中に凝り固まっていた過去までもが削がれるように、髪は落ちた。はらはらと。ひらひらと。
はじめてしまえば早い。ものの半刻(三十分)もかからずに仕上がった。
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