第8話 古傷と地図
雨で、出発を渋っている旅人が多い。旅籠の中には人がたくさんいて、落ち着かない。
「この雨の中じゃ、新しいお客さんは来そうにないわね」
蒲団も干せない、もちろん洗濯も無理。もちろん、掃除だって思うようにはかどらない。とはいえ、雨も、晴れと同じぐらいに大切。空を恨んでも仕方がない。
部屋に戻って繕い物でもすればいいのだけれど、気が乗らない。
暇を持て余した柚は、陰気な帳場の隅で鉄之助が紙に向かい、一心に目を凝らしているのを見つけた。
父に言われた通り、鉄之助には近づかないようにしよう、そう決心したのに、そんなときに限って、再び遭遇してしまうのが世の常。
姿を目の中にとらえるだけで、無性に腹立たしくなる。えい、からかってしまえ。
「なにを真剣に見ているの。もしかして、春画?」
「うわっ」
勢いよく顔を上げた鉄之助に、柚はぶつかりそうになった。雨のせいで帳場全体は薄暗いが、接近しすぎたお互いの顔はよく見えた。
鉄之助には、額に刀傷がある。だいぶ前についたものらしく、傷そのものは薄いが、髪の生え際から右の眉上まで、細く長く続いていた。特に、傷のせいで、髪が生えなくなっている部分があり、やや目立つ。
「ここ、髪が生えていないのね。若いのに」
からかい半分、意地悪半分で、柚は鉄之助の古傷に触ろうと何気なく手を伸ばした。
「触るなっ」
思いもよらない鉄之助の厳しい一喝に、柚の腕はびくっと震え、宙に止まった。ずっと無愛想ではあったが、人を拒否する素振りを見せたのは初めてだった。
「驚かせて、ご、ごめん。そんなに怒るつもりじゃなかったんだ」
「なら、どういうつもりよ。命の恩人に向かって」
鉄之助の動揺を知り、柚は悪態をついてみた。
「これ、大切な人に稽古をつけていただいたときについた、記念の向こう傷だから」
「つけていただいた、ですって。向こう傷が記念なんて」
実に奇妙な思い出だ。
「そう。貴重な」
柚が聞いてもいないのに、鉄之助は自分のことを初めて語った。
「もしかして、あなたが背負っていた刀の、持ち主さん?」
「うん」
いやに子どもっぽく、鉄之助は返事をした。
「上司で、師で、もっとも尊敬する人。強くて厳しかったけど、ほんとうはやさしくてあたたかい人。俺を、わざと突き放して、横浜行きの船に押し込めた。勝ち目のない戦で死なせないために。最期までお供するつもりだったのに、自分だけがこうして今、生きている」
それって、やっぱり、箱館の?
柚は聞いてみたかったが、鉄之助の顔を近くでもうしばらく見ていたかったから、聞けなかった。問えば、遠くに行ってしまいそうだった。
代わりに、柚は鉄之助が手にしていた紙を素早く取り上げた。感傷にひたっていた鉄之助少年は意外と無防備だった。
「地図ね」
「わっ」
紙は、横浜周辺の地図だった。
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