10 妖気の扉

 扉を開け、二人は城内を進んでいった。


 目的の相手の居場所も分からないままに進む。


 二人は背中を合わせつつ注意を怠らない。神経は研ぎ澄まされ、あらゆるものを感じる。


 風の流れ、温度、そしてなにより自分の頬を流れ落ちる汗の感覚。暑くはない。むしろ涼しいくらいだ。だけれど、その汗は彼らの緊張を何よりも雄弁に物語っていた。


「あの子の翼はなんだったんだろうな」


 静寂の廊下に響く靴音に紛れてヴォルグの声。


 フレデリカもそれは感じていた。


 あれは少なくとも元からついていたものではないはずだ。だとすればあれは鮫が取り付けたものだ。


 あの鮫にはそのようなことが出来る。


 人間を、人間から逸脱した肉体へと変貌させることが容易にできる。


「わかりません。私も……」


 フレデリカはそのことを認めたくなかった。


 あのような生命体がいるだけでも憎いというのに、それの持つ能力が自分の想像を軽く超えたものだなどということを認めたくはなかった。


 ヴォルグもそれを悟ったのか、それ以上この件に追求はしなかった。


「ああ。ただ、お前のいう通り、またああいう事態に陥るかもしれねぇ。俺も気をつけなくちゃな」


 顎髭を掻きつつヴォルグはぼやく。


 フレデリカもその通りだと頷いた。


 ヴォルグの持つ小型電灯の明かりは長い廊下の最奥の扉に突き当たった。


 それまでの道程に警備兵もいなかった為、なんだか拍子抜けな気もしていた。気を張るだけ損をしたというか、気が緩んでしまったと思う。


 だが、そんな彼らの意識は次の瞬間に吹っ飛んだ。


 鉄製の扉には、妙な紋章が描かれていた。


 それは、明らかに二人の言語や知識とは外れた異次元のものであるように感じられる。


 異文化が彼らの目前にあるのだ。


 自分達の理解の範疇外はんちゅうがいの何かが。


 フレデリカの心臓は叫んでいた。


 この先に鮫の気配があると。


 フレデリカの息が乱れる。


 この先にいると思うだけで目の前の景色がひん曲がってしまいそうだ。


 拳を握りしめて、足も速くこの向こうに向かいたいともつれ気味に動く。


「フリッカ」


 なに、と振り向こうとした彼女の背中を、ヴォルグはとんと叩いた。


 痛みはないが、びっくりする。


 それで彼女は自分が感情に引っ張られていたことに気が付いた。


はやる気持ちは分かるが、余裕をもっていこうぜ」


「ご、ごめんなさい」


 声の調子が落ちる。


「私は私。それでも、復讐の感情が心の中で激しく火花を散らしています。ですがおじさま」


 けれどすぐに声の調子はもどった。


「もう迷いはありません」


 覚悟を決めた蒼い瞳は、もう炎を宿してはいない。それは髪色と同じく海を連想させる蒼だ。


「俺も迷いはねぇ。全力でお前の手伝いをしてやるぜ」


 ヴォルグはそう白い歯を見せて笑い、鉄の扉を押し開けた。



 重苦しい風が扉の隙間からどっと流れ出す。


 負の感情を押し込めたような重苦しいそれに、二人はむせかえりそうになるが、構わず部屋の中に電灯の明かりを向けた。


 鮫の姿はなかった。


 そこには、病院の新生児室みたいにいくつもの寝台が並べられていた。寝台の上には、幼稚園児くらいの年の子からそこそこの年齢の子まで、幅広い年齢の女性がのっている。


 ところどころに男性の姿もあるが、その数は少ない。ほとんどが女性で、皆目を閉じて眠っていた。


「これが……」


 ヴォルグは辺りを見回す。


 過去に艦内で見た顔も混じっている。


 食堂ですれ違ったかもしれない。廊下で肩を当ててしまったかもしれない。食糧庫で盗むなと怒られたかもしれない。


「これが生贄か……ッ」


 実際に目の前に現れたそれは悍ましいものだった。


 一人の女性の顔に光を当てる。


 そのこめかみの肉はうじうじと蠢いていた。この皮一枚の下に、寄生虫が蠢いている。そのことがはっきりと伝わってくる。


「寄生虫です。間違いありません」


 真っ白い寝台のシーツに、フレデリカの指先が触れる。彼女は寝台の上の女性に視線を向けていた。彼女もまた鮫の犠牲者なのだ、と思う。自分と同じように。


 その時、彼女の鼻腔を甘いにおいがくすぐった気がした。


 なにか、と思考を裂こうとすると寝台の上の女性の瞳が勢い良く開かれた!


 息を飲み、ヴォルグに抱き着く。


 目を開いたのは一人だけではない。


 二人、三人……いや、その程度の人数ではない、その程度の人数であってたまるものか。


 百人? 


 知らん! 


 見渡す限りの女性がみな目を開き、ゆっくりとその体を起こして視線を二人に向けた。


 周りの女はみな、二人を敵対するかのように見つめているのだ。操られてでもいるかのように。


「行くぞフリッカ!」


 抱き着くフレデリカの手を引き、ヴォルグが駆けだした。


 向かう先はただ一つ。


 ただ奥へ。


 奥へ! 奥へ! 


 前へ! 前へ!


 のっそりと動き始める女性たち。彼女たちは、二人を捕まえようとゆっくりと手を伸ばす。


 生気はない。マリオネットみたいな意思のない腕がフレデリカ達を求めるのだ。


 誘うように。


 引きずり込むように。


 その手をはらいながら、二人は進んでいく。


 どこに行くとは決めていなかった。


 だが前以外に進む道はない。


 前以外に進む気もない。


 電灯はひたすらに奥をうつし続けた。


 やがて見えた闇の中にうっすらと浮かんだ鈍色の大扉。その扉から出る禍々しい妖気がフレデリカの心臓を刺す。


 間違いない、あれだ!


 本能は正直だ。教えてくれる。


 あの先に自分の仇はいるのだ!


「今までとケタ違いの気配がします! あの先に!」


「合点承知だッ」


 ヴォルグは答える。だが周りには人が多すぎた。女の手はもう彼らの体を捕えようとしていたのだから。


 フレデリカの額を汗が伝う。  


 どう切り抜けるべきか……!


 腕に麻酔を打とうと注射針に手を伸ばそうと考えた時。


 フレデリカの体がふと浮いた。


 違う。


 ヴォルグに担ぎ上げられていた。


 何をする、と訴えるフレデリカの視線にヴォルグはウィンクを返す。


「先に行って待ってな」


 フレデリカの体に力がかかる。ヴォルグは力いっぱいフレデリカを、大扉に向けて投げた。


 空中を行く!


 彼女の体は大扉目前にどさりと落ちた。


 はっとしてヴォルグを振り返る。


 彼は周りによる女性をその腕で払いながら催眠針を指し続けていた。


 汗を垂らしつつ、必死に足掻いていた。


 そして彼女の視線に気が付くと、ぐいっとサムズアップ。


 フレデリカは、涙を流しはしなかった。ありがとうとも、ごめんなさいともいわなかった。ただ。


「私に豚丼奢るまで死なないでください! 約束です!」


 その言葉にヴォルグは、呆気にとられつつも口角を上げる。


「ああ、約束だ。俺がたらふく、奢ってやらァ」


 フレデリカは、そうして大扉を開けた。

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