第6話 あと10分

 通路を抜けると、飲み物などをしまっておく踊り場のような場所があり、そこに二つのリュックサックのようなものが「非常扉」と書かれた扉の前に置かれていた。


実際にパラシュートというものを手に取ったのは、これが初めてだった。茶色いリュックサックのような形をしており、肩の部分から黄色い紐が垂れ下がっている。


装着すると、命を預けるに値する重さがずしりと肩にのしかかった。


妻の装着を手伝い、胸元の留め金を留めると、かちり、と音がした。二人の装着を確認して、男は非常口へ近づいた。


周りには誰もいない。


「何だ、これは。自分たちでこの扉を開けなければいけないのか。」


「うまく開けられるかしら。」


「なに、ここに説明書きがしてあるじゃないか。そもそも非常のときに開かなかったら非常扉の意味がない。」


男は説明書きにひとつひとつ従い、あとはレバーを引張りながら扉を押し出すだけというところまで作業した。


「さあ、もう一度、ハーネスの締りをしっかり確認するんだ。そう、それでいい。しっかり装着して。


いいかい、ジャンプして2分ほど立ったらその黄色い紐を引っ張るんだ。大丈夫、きっと助かるさ。パラシュートが開かないことなんてめったにないんだ。それにもう30人近くがやっていることじゃないか。僕らはただ彼らの真似をするだけなんだから。」


「ええ、でも私とても怖いの。お願い、あなたが先に行って。じゃないと私飛び降りられない。」


妻は泣きながら夫にしがみついた。


男はこの旅行中ひと時さえも感じることのできなかった妻との一体感を初めて感じた気がした。


「わかった。じゃあ、君が怖くないように私が先に行って、見本を見せるから。」


男は力をこめてレバーを押し上げ、人が通れるほどにまで扉を開けた。


外から冷たい風が吹き込んでくる。相当強い風かと思われたが、それほどでもなかった。


あと必要なのは勇気だけだ。


「じゃあ、いくよ。地上に着いたら携帯で連絡を取ろう。」


男は妻に口付けをした。


そして、とうとう飛行機から飛び降りてしまった。


夫の姿が機体の後ろへ流されるように消えた。まるで空に溶けていくように。


雲ひとつない目下には、ロッキー山脈の頂が広がる。言葉にできない美しさだった。


妻は夫の有志を見届けた。そして決心を固めた。


時計は16時丁度を指していた。

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