第5話 あと20分
まさか、今まさにこの瞬間も、ひとり、またひとりとこの墜落間際の飛行機から脱出しているのか。
男は回りに悟られないようにそっと機内を見渡して、半分くらいに減った乗客たちを観察した。あるものは読書にふけり、またあるものは、寝息を立てている。まるで何事もない、日常の一コマ。
男はふと隣の席に眼をやった。そういえば白髪のばあさんはどこへ行った?
よく見ると、ハンドバッグだけでなく、その老婆の持ち物全てがなくなっていた。
先ほどまで老婆のひざにかかっていた毛布だけが、くしゃりと乱暴に放置されていた。
まさか本当にこの飛行機は墜落するのではないだろうか。今まさにこの瞬間も、ひとり、またひとりとこの飛行機から脱出しているのではないだろうか。
もし既に機内から消えた半数近くの乗客が脱出しているとすれば、パラシュートがなくなるのは時間の問題だ。
話の真偽はともかくとして、まずは状況を確かめなければならないのではないか。この人数の消滅は明らかに不自然だ。
「わかった。君の言うことを信じよう。それでパラシュートはまだ残っているのか?残っているなら早く買わないといけない。他のやつらが買っちまう前に。」
「そうね。それがいいですわ。
あ、あのスチワーデスよ。パラシュートを売っているのは。」
妻が指差した先には、ブロンドの40歳前後の女が一応、乗務員の体をして、そわそわとこちらを見ていた。
「よし、じゃあ、他の乗客に気づかれないようにそっと移動しよう。くれぐれも不自然にしないように。」
「ええ。」
先ほどからふたりが囁くようにしゃべっていることに、エンジンの轟音が加わって、周りの客に悟られるようなことがないのは、ある程度確信を持っていたので、動作を慎重に自然に振舞いさえすれば、なにも焦る必要はなかった。
ふたりは、そっと通路を抜けて、正面の乗務員の女に近づく。妻がその女に話しかける。
「ああ、あなた、先ほどのお話だけど、私たち二人も買いたいの。きっとまだ余っているでしょうね。」
「ええ、余っていますとも。あなた方はラッキーですよ。お二人でちょうど売り切れました。」
肺にためていたタバコを吐き出したような安堵と同時に、妻の話が本当だったという恐怖を感じた。
そして先ほど見回した、何も知らずに席でくつろいでいる乗客たちの顔が頭をよぎり、窒息しそうな気持ちになった。
だが今はそんなことを考えている場合ではない。彼らには申し訳ないが、彼らとて、同じ立場に立たされたならば、きっとこうするに違いない。彼らは運がなかったということだ。けして見殺しにしたなどと思わないでほしい。
「で、いくらなんだ。」男が尋ねた。
「一人50ドルだから、100ドルいただくわ。」
おいおい、命の価格としてはなんという安さだ。だが余計なことを言って値段を吊り上げられたくなかったので、男は急いで100ドルを支払った。
「確かに。じゃあ、後は向こうの空いているやつをどうぞ。」
「おいおい、案内してくれないのか?」
「他の乗員に見つかったら私がやばいんだよ。勝手に売りさばいているんだからさ。さあ、早くお行き。お金の無駄になっちまうよ!」
捨てるような台詞を残して、その女は通路の奥へ消えてしまった。
「よし、行こう。」言って男は彼女の手を取った。
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