8-2


 白とも黒とも思える虚無の空間に、思念だけが存在している。ふわふわともゆらゆらとも、あるいはくねくねとも思える自身の状態に、それは居心地の悪さを覚えた。移動をしようにも動くための体がない。飛ぼうにも、浮いている自覚すらないので難しい。もどかしい違和感に見舞われながら、それはそこに存在するということだけを強いられていた。そして、それはその感覚を知っていた。

 この妙な空間で唯一実態を持つことが出来るのが、ペンの形をした神だけだ。モブ達からは大いなる意思と呼ばれることもある。彼は集合思念体という非常に高度な存在だった。人間やモブには理解が及ばないほど様々なことを考え、同時に処理している。彼の存在は世界の理と言っても差し支えないだろう。

 つーと軽やかに、遊ぶように宙を舞うペン。戯れに動いて見せたあと、彼は辛うじて思念を発することのできる存在へと語りかけた。


「ご苦労様。今回のモブはどうだった」

「……あなたにはどう見えたの? 神様」


 そこにあったのは百合子の思念だった。物怖じすることなく、百合子はペンの形をした神に質問を投げかける。この空間を初めて見る者は誰もが翻弄されるが、彼女ほどのモブになるとこんな奇妙な空間すら慣れっことなっていたのである。

 ここでモブ達はそれまで居た世界での振る舞いについての評価を受け、次に飛ばされる世界のタイトルを教えられるのである。

 輪廻希望書は百合子の手元には出現しなかった。段取りを一つ飛ばして輪廻が始まったことに、百合子だって少なからず動揺してはいる。それが何を意味するのか考えられなくなるほどには。百合子は、上手くこの場で神に伝えることができれば、きっと希望は通ると、そのことばかりを思案していたのである。

 あくまでいつも通り迎える、人生と人生の合間に存在する精算の時間として認識していた。が、これまでとは違うことが一つだけあった。


「百合子!? 居るのか!?」

「春華!?」


 なんと、同じ空間には春華の思念も存在したのだ。姿は確認できないため、思念を発せられて初めてそこに居たことを知る。そこでようやくはっとした。

 これが何を意味するのか、大体の事情を察せられるのは百合子だけであった。それでも神は細かく説明しようとしない。もったいぶるように「まぁそういうワケなんだよ」などと言い、二人の反応を待った。


「いつも、ここには一人で来ていたのに……」

「マジー……嬉しい……じゃあ、一緒にいるってことは、一緒にモブやれるってことでいいんだよね?」


 春華にとっては何もかもが初めてだった。思念の発し方すらようやく掴んだところである。今はただ、そばに百合子がいるらしい、ということだけを認識し、その事実に喜んでいた。ほころぶような春華の声を聞き、姿は見えずとも百合子には見えていた。満面の笑みを浮かべる春華が。


「え、えぇきっと……今までこんなことは一度もなかったわ」


 百合子の返答を聞いた春華は心の底からはしゃいでいた。輪廻希望書に記すことはついぞできなかったが、この際どうだっていいと笑っている。対照的に、百合子は随分と急な輪廻だと、厄介な世界に飛ばされることを警戒していた。


「あたしはやっぱバトルとかがいいなー。体動かすやつ。スパイとかでもいいかも」

「私は……傷付けたり傷付けられたりはイヤね。スパイはどちらかになる可能性があるからイヤ」

「じゃあスポーツは?」

「それくらいなら。ただ、そんなに都合よくいくかしら」


 これからどのような世界に飛ばされるか、春華は心の中で指折り候補を挙げていく。百合子はそんな春華に調子を合わせつつも、厳しい輪廻になる可能性も見据えていた。

 神はなんでも見ている。そして知っている。二人がした約束のことも、百合子の過去も。それを踏まえて同じ世界に招こうとしてくれているのであれば嬉しい限りだが、百合子はどうしても楽観視できなかった。


「希望は分かった。だが、その前に、きちんと話をしよう」


 重苦しい前置きに、百合子は思念だけになっているというのに息が詰まるような錯覚を覚える。そんなのどうでもいいから、早く話を進めてくれと内心で春華は思うが、それすらも神の知るところである。当然、大いなる意思はそのようなことで気を悪くする存在ではない。

 彼は二人の急く気持ちをなだめるように語り出した。


「二人はまず大きな勘違いをしている」

「え……?」

「一緒に転生できるわけじゃない、ということ?」


 百合子の発言に、春華が大きく「は!?」と吠える。神はそんな二人の様子を笑い飛ばしてこう言った。


「次回は同じ世界で、主役として生きてもらう。嫌とは言わせない」


 春華の息が止まる。体が無いので元より息なんてしていないはずなのに、彼女は自分の息が止まるのをはっきりと自覚した。ドッキリの種明かしにしても趣味が悪い。春華と百合子は押し黙った。二人の困惑は、神にすぐ伝わった。


「その様子だと、理由が全くわかってないみたいだね」


 春華は「え? 本当に? いいの?」と、徐々に彼の発言を受け入れ始めてる。良くも悪くも順応が早い女だった。しかし、百合子はというと、彼の問い掛けに「……そうね」と呟くのが精いっぱいだった。

 これまでずっとモブとして生き、モブのまま終わろうとしていた。その末にようやく一緒に生きたいと思える人が見つかって、だけど望まれているような働きは出来なかった。だからせめて、モブとして共に生きたいと願った。これが百合子の認識だ。もし、これが覆るのであれば、これ以上の喜びはないだろう。

 だが、まだ確証がない。百合子は、あまりにも大きな喜びを目の前に提示された時こそ、慎重になるタイプの女だった。


「まず、活躍をたくさんすれば主役になれるというモブ達の通説。これは間違いなんだ。それなら百合子は本人の意思に関係なく、とっくに主役をやらせてたよ」

「む……じゃあ何さ?」


 神を相手に、春華は友のように応じる。しかし、彼はそんなこと微塵も気にしていないという素振りで話を続けた。


「分からないかい? 個性だよ。個性と自我、モブからメインキャラになる時は記憶が消えるからね。魂レベルでそれを磨かなきゃいけない」

「そんな……」


 彼の言うことには筋が通っていた。平凡な人間の平凡な日常を描く作品は存在するが、いつだって主人公やメインキャラクターには、その人物がその人物でなければいけない説得力のようなものがあった。


「春華は逸材だったね。モブらしからぬ振る舞いと行動力、そして思いやり。どんな世界でも活躍できそうだと思った」

「……あたし、生まれたばっかの魂なのにこんなに褒められていいの?」

「まぁ、私も初めて見た時はモブだと思わないくらいだったし……」

「あぁ、そういえば……」


 春華は出会った時のことを思い出す。ランプが見えているかと単刀直入に問われた、あのときのことを。

 モブに見えなかったと言われ、どちらかと言えば嬉しいと思う春華は、やはり逸材なのだ。主役になる為に魂を磨くモブ達が求めるものを、生まれながらにして持っていると言っても過言ではない。


「だけど、それを上回ったのが君だよ、百合子」

「……はい?」


 当然だが、本人に心当たりはない。おそらくは犬塚との会話について言っているのだろうと当たりを付けることはできるが、神から見てあれが素晴らしい働きだったと評されることが、彼女にはまだ信じられないのだ。


「あれだけモブとして忠実に生きてきた君が、自分の本音を優先した。それこそ強烈な自我の目覚めだよ。シビれたね」


 百合子は何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。何も思わなかったのではない。気持ちが大きすぎて、言葉などで表現する術がなかったのだ。やっと主役として転生させると告げた自分の言葉を百合子に受け入れられたと感じた神は、喜びでペンの体をくるりと一回転してみせた。


「これまではその場面、物語を構成するために必要だった要素だけが与えられてたと思うけど……君達はこれから記憶を失って、新たな人生を、一生を生きることになる」


 ようやく今後の話に移った彼の言葉に、二人は耳を傾けた。噛みしめるように言葉を受け取り、期待に胸を膨らませていく。


「当然家族もいるし、彼らも多くの場合はモブなんかじゃない。つまり、全く別の存在になると言っても過言ではない。いいね?」


 神の問いは、春華にとっては愚問だった。


「もちろん。一周目のあたしには未練なんて無い」


 彼女は力強く、そう言った。迷いなどあるわけがないのだ。


「百合子」


 そして、百合子も。


「……えぇ。行くわ。当然でしょう」


 ここまで話が進んで、やっと春華と一緒に主役になれるという実感が湧いてきたらしい。百合子が発する思念には、活力がみなぎっていた。


「良かった。それじゃ、これからの話をしよう。二人は色々な世界を空想していたけど、実を言うと君達が出る作品は決まってるんだよ」

「なんだよー」


 野次を入れるような言葉だが、春華の声はそれでも笑っていた。どんな作品であるかは、あまり気にしていない様子だ。

 タイトルを聞くと輪廻が始まってしまう。それを長年の経験から知っていた百合子は、中身に触れることにした。


「で、内容は?」

「簡単に言うとラブコメだよ」


 どんな内容でも構わないと考えていたのは百合子も同じだが、あまりにも能天気なジャンルに肩透かしを食らった気分である。


「……私が春華と男子を取り合うだなんて、ちょっと想像つかないわね」

「あたしっぽくない……でも、ま。いっか」


 二人の会話を、神はくつくつと笑いながら聞いていた。まるでいたずらっ子のような声だ。それを百合子は不審に思ったが、彼が思念を飛ばす方が早かった。


「百合子には、僕たちも本当にお世話になったからね。これがせめてものはなむけだと思って欲しい。僕たちの最大のリスペクトと愛を込めて」


 実を言うと、彼も名残惜しいのだ。長年一緒にやってきた優秀な部下を失うような感覚と言えば伝わるだろうか。彼が百合子と会話をするのは、これが最後になる。しかし、だからこそしっかりと送り出してやらねばならない。部下のような、愛娘のような百合子を。

 これが彼女の幸せであることを願い、彼はたっぷりと間を置いてから告げた。


「タイトルは、高嶺の百合子さん」

「え、それって」

「ちょっ」


 タイトルから何かを察した二人だが、異論は認められない。二人の抗議は、神の笑い声によってかき消された。そして、次の瞬間には、二人の意識はコマの中に納まっていた。




 創立一二〇年、伝統ある精錬せいれん女学院の入学式が終わったところだった。教室から出てきた足で、校舎をぐるりと散歩しようとしているショートカットの女子がいた。彼女はため息をつきながら、首元のボタンを外し、リボンを少し緩めた。新入生にしてはいささか素行が悪い。長身であることも相まって、彼女の貫禄は高校一年生のものとは思えないものであった。

 校舎裏の水飲み場の横を通り過ぎたところで、涼し気な目元がピタリと止まる。リボンの色が違う上級生達の往来を捉えたのである。少女は大きく目を見開いた。居ても立ってもいられなくなり、歩み寄って肩を掴むと、ある先輩に声を掛けた。


「……どこかで会った気がするんだけど」


 振り向いた彼女は、見目麗しい美女だった。艶やかなセミロングの髪に、陶器のように透き通る肌。少女のあどけなさを残しつつも、整った眉からは既に洗練された印象を受ける。しかし、形のいい唇は真一文字に結ばれ、本来穏やかであったろうその目元は氷のように冷たかった。間近で見た彼女の美しさに新入生が呆気に取られていると、眠気覚ましとばかりに強烈な平手打ちがお見舞いされる。


「やっすいナンパはお断りよ」

「いったー……別にそういうワケじゃないっていうか……いくら女子高でもさすがにナンパはないでしょ……じゃなくて、ないですよね……」


 突然肩を掴んで悪かったという自覚はあるが、それにしても頬を打たれるほどのことではないだろう。新入生は口から出かかった不満をなんとか飲み込んだが、その隙に女生徒は踵を返してしまった。


「あっそう、じゃ」

「あっ、待って! 名前聞いていい!?」

「いた! 春華様よー!」

「キャー!」

「やっば……! またね!」


 春華と呼ばれた新入生は女生徒よりも早くその場を立ち去り、女生徒はその身勝手な振舞いに憤りの表情を隠さない。春華の居所を大声で知らせた三つ編みと眼鏡の少女は、これから始まる物語を占い、空に向かって微笑んだ。



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