5-5

 無為な夜の自由時間も、三人で居ればあっと言う間だ。消灯時間が迫っていることに気付くと、二人は名残惜しみつつも百合子の部屋を出た。

 しかし、春華はいつもと違う方へと足を向け、律子に手を振ろうとしている。


「どこ行くんですか?」

「ん? 自販機」

「ご一緒します」

「おっ、いいね」


 律子の思わぬ申し出に、春華は声を明るくした。酷い待遇を受けがちな春華だが、律子のことを嫌ったりはしていない。むしろ、百合子を慕う様子からは健気さすら感じている。先ほど、百合子から過去を明かされた後も、これまでと変わらずに彼女と接する場面を見守っていた春華は、律子が悪い人間ではないという認識を深めていた。

 二人は寮の長い廊下を歩き、階段を下りる。食堂は密やかだった。誰一人居ないそこは、これから訪れようとしている夏の肝試しのルートになっても違和感がないほどに暗く静まり返っていた。

 春華はこの時間に自販機を訪れることに慣れているのかもしれない。廊下からの光しか差さない広い空間を前にしても、一切物怖じする様子を見せない春華に、律子はそんなことを考えた。

 ポケットから小銭を出すと、春華は炭酸飲料を購入した。そしてお釣りのレバーを下げずに振り返る。向けられた視線を「奢ってやる」と解釈した律子は、コーヒーのボタンを押した。どちらからともなく、すぐ横にある食堂の端の席に腰掛けると、ほぼ同時にプルタブを引く。


「春華さん、輪廻希望書はどう書いたんですか?」

「なにそれ?」

「はぁ……物語が完結すると、レポートにそう書かれたページが出現するんですよ」


 そして律子は春華にも分かるよう簡潔に説明した。春華のことを馬鹿だと心から思っているわけではないが、人の話をちゃんと聞かない嫌いがあると思っているのだ。


「簡単に言うと、次はどんな世界に行きたいかを書く書類ですね」

「え、そんなのがあるんだ……百合子はなんて書いたんだろう」

「百合子さんの性格ですから、いつも白紙のままだったかもしれませんね」


 律子は少し悲しげな顔をしてみせた。その理由に気付けない春華ではない。贖罪の為に生きた彼女が、自ら輪廻先に注文を付けるなど、春華にも想像が付かなかった。

 輪廻希望書は、あくまで大いなる意思に希望を伝えるためのもので、書いても書かなくても問題はない。もしかしたら希望通りの世界にいけるかもしれないという代物だ。

 そんなものがあったこともたったいま知りながら、律子の向かいに座る春華は、苦々しい表情を浮かべていた。


「有り得るな……今回も、そんなの書いたなんて言ってなかったし、また白紙で出すつもりなのかも」

「主役を目指すことを視野に入れ始めたとはいえ、あの百合子さんが輪廻希望書に主役になりたいと書くとも思えませんしね」


 百合子の輪廻先について考えるよりも、今は春華への説明を優先すべきだ。律子はそう考え、声を発することで、この胸騒ぎにも似た感覚を落ち着けようとした。


「行き先についてですが、チェックボックスで大体のジャンルは網羅されています。ただし、備考欄に細かい条件指定をしなきゃ駄目ですよ」


 律子はスチール缶をぐっと握ると、難しい顔をしてみせた。その表情の意味が、春華には分からない。気軽に「しないとどうなるの?」と問うと、律子は淡々とした調子で述べた。


「私みたいに「学園もの」にチェックを入れてそのまま提出すると、デスゲームで真っ先に死ぬモブになったりしますよ」

「あ、それって一応律子の希望だったんだ」


 気の毒なような、ちょっと面白いような。吹き出したらひどい目に遭わされるかもしれないという思いから、春華は必死に表情筋が動かないよう努め、「法律スレスレの詐欺みたいじゃん」と過去の律子の詰めの甘さに同情してみせた。


「ま、必ずしも輪廻希望書の通りになるとは限らないですけどね。でも参考に見ておいた方がいいです」

「分かった、そうしてみる」


 百合子が書かないのであれば、自分が書いてやろう。百合子と一緒にモブを卒業したい、と。春華は密かにそんなことを心に決めていた。百合子を勝手に巻き込もうとしている後ろめたさから、彼女がそれを律子に伝えることはなかった。

 彼女達はそこに頓着が無いので意識していないが、二人きりでゆっくりと話をするのは初めてである。二人の間には、百合子がいることが当たり前だった。互いに意識して避けていたつもりは無いが、彼女達の学園生活は百合子と関わってからそのように変化していたのだ。

 律子は百合子を見習うだけあって、控えめで出しゃばらない性格である。そのためか、今になってようやく、春華は律子のことをあまり知らないと気付いたのだった。炭酸を豪快に喉に通して見せ、缶をテーブルに置くと同時に春華は言った。


「そういえば、律子」

「何ですか」

「律子はどんな世界で生まれたの? その名前だと日本が舞台なんでしょ?」


 モブの大ベテランであり、誰もが認めるエースである百合子の心に、主役を目指す気持ちが遂に芽生えた。嬉しいような寂しいような、複雑な気持ちに浸っていた律子は、唐突に投げ掛けられた質問に硬直した。

 その様子を見て、できれば触れられたくなかったようだと察しながらも、春華は引かなかった。多少強引でもいい、ウザいと思われたとしても、春華にとっては律子もまた、気の置けない友人なのだ。


「いいじゃんか、ここまで一緒に頑張った仲なんだから」

「それは……」


 屈託なく笑う春華を見つめ、律子の気持ちは揺れる。平時であれば絶対に告げなかったであろう自身の過去だが、今なら、春華になら伝えてもいいかもしれない、と考えている自分に戸惑いが隠せない。


「言ってもどうせ信じないですよ」

「そんなことないって」


 突き離すようなことを言ってみても、春華はそんな律子の不安を一笑に付した。心のどこかで、こうなることが分かっていたと観念した律子は、ようやく語り出すのであった。


「……私は、所謂不良マンガのモブですね。こんな見た目の生徒ですら飲酒・喫煙は当たり前、という描写の為に生まれたんだと思います」

「あー……納得した」

「はぁ!?」


 うっそだーと言われるとばかり思っていた律子は、心の底から納得している様子の春華に対して声を荒げた。持っている炭酸飲料が日本茶に見えてくるほど、春華はしみじみと頷いている。柄にも無く不服そうに大きな声を出す律子だったが、春華はその反応を改めることはなかった。どうやら、彼女は自身の眼光の鋭さをまるで理解していないようだ。


「……自覚無いの? 律子、めちゃくちゃ怖いよ?」

「適当なこと言わないでください」


 できれば二度とお目にかかりたくないと思っていた視線が春華を捕らえる。体を強張らせて反射的に視線を手で遮ると、彼女は小さく怒鳴った。


「だからやめてって言ってんじゃん! 律子の目、カミソリみたいで怖いんだよ!」

「言いたいことは分かります。こんな一歩間違えば個性的とも言える要素……モブとして、見ていてヒヤヒヤしますよね」

「そういう意味じゃないよ。視線だけで殺されそうでオドオドしちゃうんだよ」


 分厚い眼鏡に隠されている素顔の感じ方は、二人で大分異なるらしい。これ以上言及すると悪口になりかねないと思った春華は話題を変えようとしたが、気の利いた言葉が見つからなかった。彼女が言葉を探す間、独り言のような声で沈黙を切り開いたのは律子の方だった。


「……色々ありましたけど、結構楽しかったです」

「え?」


 耳を疑うような発言だった。百合子であればともかく、律子が掛ける言葉にしては、それは素直過ぎた。春華は、缶を手に持ったまま、目を丸くして正面に座る律子を見た。ぽかーんと口を開けたままの春華を確認すると、律子はくすりと口元だけで笑ってみせた。


「百合子さんとあなたを指導するの」

「こら」


 結局、律子と春華はこうなるのだった。いつもの距離感にどこか安心しながら、二人は会話を続ける。


「あなたがいないと、百合子さんと一緒に誰かにものを教える体験なんてできませんでした」

「丁度いい馬鹿みたいな言い方すんのやめて?」


 どう考えても好意的に解釈できない呟きを耳にした春華は、手にしていた黄色いアルミ缶を指で凹ませながら抗議する。しかし律子は春華の抗議など歯牙にもかけない。彼女はそのままの調子でこう続けた。


「共に過ごしたのがあなたじゃなかったら、百合子さんはきっと変わっていなかった」


 また上げて落とす作戦かと、春華は警戒して見せたが、律子は分厚い眼鏡越しに春華を見つめ続けるのみである。消灯寸前の食堂は静かで、互いの息遣いが聞こえるほど、昼間の喧騒を忘れていた。


「……なに? 急に」

「別に褒めてるわけじゃないので、照れなくてもいいです」

「っはー。本当に素直じゃないよね。ま、いいけどさ」


 唐突な言葉に驚く春華はもちろん、照れなくていいと言った律子の頬までもが赤かった。両者の百合子への関わり方は明らかに違うが、それでも二人は確かに友だったのだ。

 顔を背け、それぞれ窓の外と廊下を見つめる。律子が見やった窓の向こうには誰も居ないし、春華が目を向けた廊下からも人の気配はない。ゆっくりと正面を向くと目が合って、二人は同時に噴き出した。控えめな音量で、消灯を知らせるクラシックがスピーカーから流れる。毎日毎日同じ曲。ヴィヴァルディの春だった。これを聴くのもあと数日かもしれないと寂しさを覚えながらも二人は立ち上がり、今度こそ自室へと歩いていった。


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