5-4
百合子は、どこか気まずさを感じていた。律子が尊敬しているのは出しゃばらず、粛々と使命を全うする名モブの百合子である。彼女の尊敬の情を裏切るかもしれないことは、百合子にとって少なからず恐怖であった。
「そう、ね……春華が言ってることは事実よ。まぁ、まだ迷っているところもあるし、そもそも私が主役になれる可能性はすごく低いと思うけど……」
「なんで? だって百合子はやり遂げたじゃん。ちゃんと活躍した」
だだをこねる子供のように、春華は百合子の予想を否定した。心の底から百合子のことを想い、応援していたからこその反論だった。百合子は穏やかな調子のまま、春華に言って聞かせた。
「物語をエンディングに導いたのは偶然よ。あなたにだってそれは分かるでしょう」
「それは、そうかもしれないけど……」
「犬塚さんをあのまま放置しても、彼女は自分自身で気付き、行動に移したかもしれないわ」
「うっ……」
選ばなかった選択肢、迎えることのできなかった分岐について言及されると、春華は何も言えなくなった。顎に手を当て、悩ましい表情で一理ある、とだけ呟く。
百合子が心変わりした理由について、そして春華が妙にそこに執着する理由について何も聞かされていない律子は、不思議そうな顔で二人のやり取りを見守っていた。その視線に気付くと、百合子は穏やかな口調で告げた。
「……律子さんには私の昔話をしていなかったわね。そこから話しましょうか」
昔話、その単語は律子に居住まいを正させた。何か重要なことを告げられることを察したのだ。そしてその予感は間違っていない。
律子の緊張は他の二人にも伝わっていた。これから打ち明けられる言葉と真摯に向き合おうとする律子を見つめ、百合子は語り始めた。
律子の表情が保たれていたのは触りの部分だけである。春華とは違い、彼女は青ざめながら百合子の話に耳を傾けた。
時には手を翳して制止を求め、過去の百合子の愚行を反芻するよう呟いてから続きを促す。百合子のしたことは、律子にとって信じ難い蛮行だった。律子だけではない、モブとしてのセオリーを知る者であれば、彼女と似たような感想を抱いたはずである。それほどのタブーを犯していた。裸で地雷原を突っ走るだなんてありふれた言葉で表現できるものではない。なぜなら、限りなく死に近い状況であろうとも、そこには運さえ良ければ無事に生還できる可能性が眠っているからだ。百合がしたことは、地雷が埋まっていると分かっているところに飛び乗るような行為だった。そして、律子はその聞くのも恐ろしい出来事を懸命に受け止めたのだ。
全てを聞き終えると、律子は嘆息混じりに、素直な心情を吐露した。
「とんでもないことですよね、それ……」
「律子さんが呆れるのも無理はないわ」
「呆れるだなんて、そんな……ただ……百合子さんがしたこととは思えませんね……春華さんなら納得なんですが……」
「さすがのあたしもそこまでしないから!」
二人は普段の調子で小競り合いを始め、そのやりとりは百合子をどこか安心した気持ちにさせる。かつての自分と今の自分は違う、そんな気持ちが広がったのだ。それは、失態を犯す前の自分と改心した後の自分を比べているのではなく、この現場に来るまでの自分と、かけがえのない親友を手にいれた自分とを比べていた。
「あのとき、私は運命を恐れ、そして逃げたの。発言内容から見れば、前回も今回も、どちらも背中を押そうとしない後ろ向きなものだったわ」
百合子は数日前の自身をそう振り返った。しかし、表情は決して暗くない。むしろ、自信に満ちているようであった。過去と決別したという清々しさすら感じさせる表情である。
「だけど、そこにある気持ちが全然違うの。正直に気持ちを告げるその直前まで、私にとっての正しい行動は「彼女を応援して告白させること」だと思っていた。でもね、我を通してしまったのよ。柄にもなく、ね。嘘でも、あの主人公をいい人呼ばわりしたくなかった」
主人公を応援している者が聞けばかなりキツい発言ではあるが、二人の前で取り繕う必要などなかった。
「あぁ……彼、相当アレですよね。本編ではソフトな印象になるように工夫されてるんでしょうけど」
「自分から離れていった女は適当な理由付けてそのまま放置で、別の女だもんね。ふっつーに引いた」
二人は百合子の意見に賛同してみせた。物語の都合上、そのように振舞う彼だからこそ主人公で居られたことは当然理解している。だが、好感が持てるかというとまた別の話であった。
特に、春華の軽蔑の色は濃い。圭吾の話になった途端、見た事もないほど目付きを鋭くしたのである。その視線は、律子に怖いという印象を抱かせるほどのものだった。
「多分、他にも彼の言動に疑問を感じている人はいると思うわ。だけど、誰もそれを注意したりしない。それがモブだから」
「そうですね。少なくとも私はしません。というかできませんよ」
言葉にこそ出さなかったが、律子の発言に同意するように、春華は腕を組ながらうんうんと頷いてみせた。
「でも、私はあの時の発言を悔いてはいないの。むしろ誇りに思ってる」
「……それは、物語をエンディングに導いたからですか?」
「まさか」
百合子は小さく首を振る。先ほど春華に言い聞かせたように、自身の働きのおかげでエンディングを迎えることができた確証は無いのだ。彼女の心から湧き出る自信の原泉は、結果を出せたこととは全くと言っていいほど無関係だった。
「上手く言えないけど、私は誇らしいの。モブとして、決して褒められるようなやり方じゃなかったけどね」
「……そうですか。よく分からないけど、分かりました」
この問答を春華は静かに聞いていた。そして、百合子の言う意味も、春華には理解できている。モブとしての歴が浅い彼女は、律子よりもシンプルに考えることが得意だった。
律子がイマイチ理解できないのも無理はない。百合子の言う通り、あれは褒められたやり方ではなかったのだから。分かってあげられないことにもどかしさを覚えはしたが、律子には持ち前の賢さがある。理解できないことを言う相手を尊敬し続けることくらい、雑作もないことだ。
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