3-6
***
夕方、百合子の部屋にノックの音が響き渡った。スポットで体験した恐怖に、まだ体が思うように動かない彼女だったが、この世界の歴史の勉強として読んでいた文庫本を閉じて、ドアへと向かう。扉を開けると、そこにはわくわくした表情の春華が立っていた。
普段の、どちらかと言うとクールで怖がられそうな地の表情とは明らかに違う。少し不気味に感じた百合子は、びくっと体を強張らせ、ドアノブを強く握った。
「……何?」
「猫ちゃん、見に来たっ!」
「……」
どうやらさきほどの猫の話を真に受けていたらしい。百合子は春華がどんな勘違いをしているかを瞬時に理解し、そして告げた。
「あのね、猫の話は全部嘘なの」
「え?」
「あの場に居る為についた嘘、ということね」
「じゃあ、寝てたら布団に入ってきた猫の話も、全部妄想……?」
「妄想……ま、まぁそうね」
「可愛い茶トラは……」
「存在しないわ」
「そっかぁ……」
驚くほど落ち込む春華をそのまま帰すのも気が引ける。春華が動物好きだったことを意外に思いながら、百合子はとりあえず彼女を部屋へと招いて、数日前と同じ場所に座らせた。
「代わりと言ってはなんだけど、この世界の私のアルバムを見せてあげるわ」
「いいの?」
「えぇ。当然、私はこの世界のモブとして招集された頃にはここの学生だったから、幼少期の記憶なんて一つもないのだけど」
「あぁ、やっぱそういうもんなんだ。あたしもそう」
百合子は勉強机の隣に置かれている真っ白なカラーボックスからアルバムを取り出すと、少し開いて中を確認してから春華に手渡した。彼女がアルバムを開くのを見つめながら、百合子は問い掛ける。
「春華、多くのモブが何を目指しているか、知ってる?」
「……モブが目指すものなんてあるの? あたしには無いよ」
「それはあなたがまだ何も知らないからよ。だけど、みんなモブをしていく内に知るの。今のあなたみたいにね」
開きっぱなしになったアルバムの中の幼女は、カメラの向こうの人物に無邪気に笑みを見せている。春華の隣に座り、自分によく似ている見知らぬ幼女を一瞥すると、百合子は続けた。
「主役になることよ」
「……は?」
春華にとって、告げられた内容はあまりにも唐突だった。完全なモブから、脇役へ昇進を狙う者の存在は聞かされていたが、モブが主役になれるだなんて、春華は知らなかったのだ。
「物語が終わりを迎えて、普通のモブは次の世界へと魂を転生させるわ、当然モブとして。だけど例外がいるの。その物語で働きを認められた者は、物語の核となる人物として魂を転生させることができるの」
「……可能性を認めるって、誰がそんなことするの?」
「前に言ったでしょう? 大いなる意思よ。モブ達は便宜上それを神と呼ぶわ」
春華はあぐらをかいた脚の上にアルバムを置き、腕を組む。そして難しい顔をして首を傾げた。
「百合子はモブの中じゃすごいベテランで、色んなところで引っ張りだこって言ってたじゃん? なんで主役にならないの? モブの夢が主役なら、百合子は最も主役に近い存在じゃない?」
「馬鹿ね。一番遠い存在よ」
百合子は春華の疑問を一笑に付した。その笑いは春華を嘲るものではない。百合子は、己の愚かさを思い出して、皮肉に笑わずにはいられないのである。
彼女は手元に視線を落とし、今にも泣きそうな顔で細く息を吐いた。告げようか迷って、だけど、結局口を開いた。それは、春華にもこんな事例があるという知識を与える為ではない。百合子は何故だか、春華には自分の過去を知って欲しかったのだ。
「私ね、モブとして生を受けて、その世界で……とんでもないミスを犯してしまったの」
「……どんな?」
「私は、あの世界に終わって欲しくなかったの。今と同じような、学園ラブコメの世界だったわ。当時の先輩から、物語が終わると魂が輪廻して全く別の世界に飛ばされることを聞かされた私は……怖くなってしまって」
魂の輪廻が怖いというのは春華も共感できた。死ぬような感覚なのか、それとも一瞬の内に別人になっているのか。春華は何も知らないのだ。他人から経験を聞くことはできるが、そんなものはあくまで他人の感想である。同じ体験をして、春華がどう思うかは、そのときになってみなければ分からない。分からないことに対して、漠然と不安に思う気持ちが、今の春華にはよく理解できた。
春華は、優しい声色で「それで?」と百合子に続きを促す。
「モブの身分でありながら、ヒロインの恋を後押しするという大役を果たすチャンスがあったというのに……あの男は何かと良くない噂を聞くと告げてしまったのよ」
「ヤバ」
「そうなのよ、ヤバいのよ。出会った頃のあなたなんて比にならないくらい」
硬直する春華は百合子の過去に何が起こったのか、まだ受け止めきれないでいる様子だったが、酷だとは思いつつも百合子は春華に問い掛けた。
「まぁそれで今日みたいに結果オーライになればよかったんだけどね。どうなったと思う?」
「分かんない……どうなった……?」
まるであらかじめ決められた運命を尋ねるような、そんな調子で春華は声を絞り出した。そこからどうなってしまったかなんて想像は付かないが、今後も自分が主役になることはないと百合子が言い切るあたり、後味のいい終わり方でなかったことは容易に想像がつく。
「そこから話が崩れていって、結局作品は打ち切り。確実にあれが原因だと思う。そして打ち切りには色んな種類があるわ」
「俺たちの戦いはこれからだ、とか。そういうの?」
「そう。それなら良かったわ。だけど、あの作品のオチは……社会人になってから二人は再会して、学生時代の思い出話に花を咲かせて、そこでやっと誤解が解けて、恋が生まれることを示唆する終わり方だったの」
春華には、特段問題があるように思えない。肩すかしを食らったような気持ちですらあった。
高校が舞台の作品が、オチで社会人になっていることはいただけないかもしれないが、とりあえずはバッドエンドにならないだけマシだろう。しかし、そんな簡単な問題ではなかったのだ。
「ずっと左下のランプが点かない状況で、何年もその世界で過ごすことになったモブの気持ちを考えてみて」
「あっ……」
「私は、つまらない恐怖心から、当時共演したモブの時間を何年も奪ったのよ」
打ち切りになったことを察し、いつになるか分からない最後のそのシーンの為に幽閉される。更にそんな彼らの人生の為、新たなモブが無数に招集される。巻き込まれたモブの気持ちを考えると、春華は何も言えなくなった。
しかし百合子はまだ続けた。伝えていないことが、まだあるからだ。それは些細なことに思えるかもしれないが、百合子にとっては重要なことだった。
「だけど、今じゃモブの中のモブだなんて言って持て囃されている。何故だか分かる?」
「そんなの、百合子が心を入れ替えて精いっぱい生きたからでしょ」
春華は断じた。今の百合子に恐怖心があるとは思えない。彼女が持ち合わせているのはそんな臆病な感情ではない。モブとしての信念を持ちながらも、モブになったばかりの自分に手を差し伸べる親切心をも持ち合わせている。春華にとって、百合子は尊敬すべき大先輩であり、初めて出来た友達だった。
「違うわ。それもあるけど、そうじゃない。当時の私の有り得ない失敗を知る人物がいなくなったからよ」
「え? それって、どういう……?」
「みんな、モブを卒業したの」
言い終わると、百合子は吹っ切ったように笑った。だけど何も吹っ切れてはいない。ただ自嘲しているだけだ。痛ましいその笑い声を反響させる、ほとんど物の無いこの空間が、春華は少し嫌になった。
「だから、私は一生モブのままなの。主役になんてなりたくないわ。主役に転生したら、この記憶を失ってしまうもの」
「百合子」
「私はこの罪の意識を抱いて、魂が擦り切れるその瞬間までモブとして生きるのよ」
今にも泣きだしそうな顔で百合子は告げる。しかし、それは可哀想な自分に対してでは、決して無い。彼女は今も当時の失態を忘れていないのだ。自分がたったいま零したような生き方をしたとしても償いきれるかどうか分からないくらい、申し訳ないことをしたと思っている。色褪せないその罪の意識で、彼女の瞳は揺れているのだ。
「よし、分かった」
春華はにかっと笑うと、腕を組んで百合子を見た。
「あたしと一緒にメインキャラクターに、いや、主役になろう」
春華の発言に、今度は百合子が絶句する。この阿呆は果たして自分の話を聞いていたのだろうか。そんな疑問が湧いては消える。そしてまた湧く。何度考えても、百合子には春華が導き出した結論が理解不能だった。
「私の話、意味分かってる?」
「分かってるよ。百合子が案外気にしぃで、律儀な奴ってこと。でもさ、もういいんじゃない?」
自分の何十年になるかも分からない後悔を気にしぃと律儀という言葉で片付けられてしまい、百合子は頭に血が上るのを感じた。
「何言ってるのよ……何も知らないくせに! そんな」
「全てを知った上で百合子に何も言ってあげなかった奴らのことなんか、もう考えるのやめなよ」
初めて見る春華の真剣な顔と、考えもしなかった意見に、百合子は言葉を失った。押し黙る百合子を見つめ、春華はさらに続ける。
「カミサマだかなんだか知んないけど、スポットモブに入ってくれって言われるんでしょ?」
「え、えぇ……ちなみに今日これからも入る予定よ」
「それってさ。信頼されてんじゃん。カミサマに」
「それは……」
春華の言う通り、百合子は一定の評価を得ている。しかしそれはあくまでモブとして、だ。どんな役回りになっても不平不満一つ漏らさず粛々と、そして完璧にこなすところを見られていると思っていた。というよりも、百合子が前向きになれない原因には、大いなる存在から声が掛かるその内容も少し関わっているのだ。
「だけど、神からは主役になる気はないかなんて訊かれたことはないわ」
「それは百合子が自分で決心固めるのを待ってるのかもよ」
「都合のいい解釈ね」
「それの何がダメなの」
「詭弁ね」
百合子は春華の言葉を聞いて鼻で笑う。しかしそれは一種の照れ隠しのようなものだった。背負っていた重荷を彼女の言葉が少し軽くしてくれたことを、百合子は理解している。
時計に目をやって時間を確認すると、針はまもなく五時を指そうとしていた。百合子は春華に、スポットモブに入ることを告げたが、春華はやっとアルバムに目を落とし始めたところだ。退室する気配はない。
「あたし、これ見てるから行ってきなよ」
「いつになるか分からないわよ」
「スポットってことはそんなに長くないでしょ? 放課後のこともあるし、もしかしたら進展があるかも。寝てるのを起こせばいいんだよね?」
「それは、そうだけど」
このまま彼女を残しておいていいものかと迷いながらも、結局百合子はそのままスポットに入ることにした。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
そう短い言葉を交わして、百合子は別の世界へと飛んで行ったのである。自分の帰りを待つ人がいる、それだけのことが百合子の胸を温かくさせた。
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