3-5
——ねぇ。ガリガリさんって、知ってる?
百合子がはっと目を覚ますと、そこには没個性の境地のような、目元が影になって見えない女子が居た。昼間であるはずなのにやけに暗い教室、前の席から振り返る形で、少女は百合子に微笑んでいる。表情が窺えない顔と、モノクロのセーラー服。少女の口元だけがやけに嬉しそうに形を変えている。真っ赤なそれが、百合子の目には何故か少しグロテスクにも映った。
そして百合子はすぐに気付く。自分もまた彼女と同じように、目元が影で隠れているのだろう、と。
「えー? 知らなぁい。ナニソレ?」
極めて軽卒に声を上げる。百合子の返事を聞いた女子は、楽しそうに笑った。この話題を知らない者に話したくて仕方がなかった。そんな勢いで、ペラペラと語り出す。
「昔ね、旧校舎でいじめられてそのまま死んじゃった子がいるんだよ。出してって叫んだけど、誰も出してくれなかった。声が枯れたその子は、扉を叩いた。叩く元気が無くなった後も、扉を引っ掻き続けた。その音が、今も深夜に響き続けてるらしいよ」
「マジー? どーせ嘘でしょ」
よくある怪談話をケラケラと笑い飛ばす百合子だが、内心では感情が爆発していた。残虐で無慈悲な舞台で殺し合うのは構わない。ラブコメ舞台で、主人公達に発破をかける為に見知らぬ男の腕を組むことだって厭わない。しかし、ホラーは好まない。
もちろん優秀なモブである百合子は仕事を選り好みしないが、心が全力で拒絶反応を示している。ホラーが舞台の作品のモブになること自体は初めてではないが、百合子は気付いていた。これは物語の導入であり、自分と目の前にいる女は恐らくこれから怪奇現象の現場に行くのだ、と。
少女が「ねね、今日の夜、行かない?」と声を潜めた。頭の先からつま先まで、今の百合子は怖いもの無しの女子高生である。このキャラクターはその提案を快諾しなければならない。そうしなければ、きっと物語が始まらないのだ。百合子は笑うついでみたいに声を出した。
「もち」
百合子が返事をすると、空間がぐにゃりと歪んで視界が真っ暗になった。この世界は恐らく短編集だろうと、百合子は推察する。生活の中から必要な場面を切り取られる長編と違い、短編でも撮れ高のある場面のみがクローズアップされるのだ。ちなみに、この違いについて神がモブに説明することはないので、場面がスキップされる時とそうではない時の違いについて百合子が気付いたのは、かなり後になってからである。
真っ暗だと思われた視界に、夜の校舎が浮かび上がる。どうやら忍び込むシーンから再開となるようだ。校門をどうやって抜けてきたのかは気になるところであるが、それを口にするような場面ではないだろう。
百合子が横を見ると、そこには私服を着た学友が居た。元々目元が見えないので判別がやや難しいが、昼間百合子に怪談話を持ち掛けた少女で間違いなさそうである。
「で。どっから入る?」
「旧校舎なんだから簡単だって。昼間の内にドア開けといたところがあるから」
入りたくない入りたくないと願いながら百合子は問うたが、少女は事前に忍び込める場所を調べていたようである。その用意周到さに脱力しかけながらも、少女の背中をバンと叩いて「やるじゃん!」と労うことは忘れない。
せめて昼から夜にかけて、心の準備をする時間が欲しかったと思う百合子であったが、短編にそんな余地はない。
少女の後について敷地内を歩くと、古めかしい校舎が見えてきた。裏手に回ると、小さなドアがある。どうやら用務員が使用していた物置のようだ。
「この物置、向こう側にも扉があってさ。そのまま中に入れんの」
「へー? こんなところ、来たことなかったな」
「知らない子の方が多いくらいじゃない? 見回りの先生達も、まさかここまでチェックしないでしょ」
少女がドアノブに手をかける。見回りの先生方が優秀であることを願いながらその様子を眺めていた百合子だが、ドアは呆気なく開いてしまった。
「っしゃ! やりぃ!」
百合子はガッツポーズをしながら歓喜してみせた。内心では「なに開いとんじゃ!」と怒鳴り散らしたい気持ちであったが、こんなときでも彼女は自らの役割を忘れたりはしないのだ。
そうして旧校舎に侵入できてしまった二人は、目当ての教室を目指す。ところどころキィキィと軋む床に体が跳ねそうになる百合子だが、頭の中で可愛い生き物を思い浮かべてやり過ごす。百合子の脳内では、現在三羽のうさぎと、四匹の猫が思い思いにくつろいでいる。割れた窓から差し込む風に驚いたので、たった今チワワが一匹追加された。
百合子がビビり散らしながら、楽しげな表情を崩さないという芸当をやっていると、先導していた少女の足がピタリと止まった。そして彼女は言った。ここ、と。
「マジー? 何も聞こえないじゃん。ファミレス寄って帰るー?」
「まぁまぁ。ガリガリさんに会うには合言葉がいるんだって」
少女は勿体ぶって笑う。役どころに合わせた発言をしながらも、実際に本当にファミレスに寄って帰りたかった百合子は暴れ出しそうになったが、「なんて言えばいいの?」と興味津々といった様子で少女に問い掛けた。
「いじめられたときのことを再現するんだよ。しーね、しーねって言うの」
「キャハハ」
いやキャハハじゃないが。今にも真顔に戻ってそう言い出しそうになるが、百合子はやはりプロである。少女よりも先に、「しーね、しーね」とドアに向かって煽り立てて見せた。そして、少女もシンクロするように声を重ねる。何度か繰り返すと、扉の中から何かを引っ掻く音が聞こえてきた。
ここまでくれば平気な演技をする必要もないだろう。軽率なキャラクターが恐怖に顔を引き攣らせる場面と言えばここしかない。
「えっ……」
「ちょ、ちょっと、ふざけないでよ」
「あたし何もしてない……」
「マジ……?」
音は次第に大きくなる。足が竦んで動けないのは演技などではないが、百合子に同行していた少女も丸っきり同じように膝をわななかせた。
音が移動する。二人の後ろに周り込むように。耳元で鳴るガリガリという不快な音から逃れられないことを悟りながら、二人は同時に、ゆっくりと振り返る。そこにはこの世の者とは思えない程の
「っっっっぎゃあああああああ!!!!」
――よく頑張った、百合子
百合子を労う声が頭の中で響くが、正直それどころではなかった。
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