4.

4-1


***


 スポットモブの始まりはいつだって唐突である。百合子は緑色のフェンスの網目をがっしりと掴み、テニスの観戦をしていた。フェンスの向こうは選手と審判しかいないので、彼女は最前列で観戦している、ということになる。

 ラケットがテニスボールを打つ小気味よい音が響く。見事なラリーの応酬であったが、観客は勝負の行方というよりも、ある人物の一挙手一投足に注目しているようだった。


 周辺には同じようなモブ達が一心不乱にキャーキャーと言い、ある一点を集中して見つめていたのだ。百合子は背後から見知らぬモブに押されながら、なんとかその場に留まり、他の者と同じように試合に釘付けになってみる。

 女性モブとして生まれれば一度は演じたことのある、黄色い声援を送る女モブである。あぁこれ系ね、と彼女はすぐに何を求められているのかを把握し、はち切れんばかりの声援を送った。

 長身長髪の男がラリーを制すると、黄色い声が爆発する。彼は他のキャラクターとは明らかに造形が違った。切れ長な目で対戦相手を見つめ、長髪をかき上げながら呼吸を整える。テニスウェアから、程よく付いた筋肉を惜しげもなく晒していた。

 どうやら自分はあの男を応援していたようだと理解する百合子だったが、彼女はさらにその先を考えていた。ただ男を見つめて奇声を上げるだけの役であれば、わざわざ自分に声が掛かる理由が無いはずだ、と。


「きゃー! 九条院くじょういん様ぁー!」


 声にするのが億劫になるほど長ったらしい苗字にうんざりしつつも、自分に求められているその先の何かについて考えを巡らせる。その時、九条院がサービスエースを取り、声援がさらに勢い付いた。

 それまで黄色かったランプの色が真っ赤になった。突然のことに驚きつつも、百合子は声を張り上げ続けた。そして数人挟んだ隣の方から、可愛らしい声が響いた。


咲夜さくやくーん! 頑張ってー!」


 おそらくは九条院のことだろう。その女子は彼を下の名前で呼んだのだ。黒髪ロング、目鼻立ちくっきりの可愛いらしい女子。たったそれだけの情報で、彼女がこの世界の主要人物であることを百合子は察した。それとほぼ同時に、舌打ちをした隣の女子が百合子に声を掛ける。


「ねぇあいつ、調子に乗り過ぎじゃない?」

「分かるw」


 全く理解できないが、できる限り軽率にそう返事をする。ランプは今も真っ赤だ。おそらく百合子に話し掛けたこの女は、スポットではなくこの世界で生きるモブなのだろう。鼻先がつんと天を指し、鼻の穴が丸見えの女は、意地の悪い笑みを浮かべた。小さい目とそばかすが、その邪悪な表情をより凶悪に演出していた。


 彼女は九条院を下の名前で呼んだ女をトイレに呼び出すつもりらしい。百合子にそう提案しながらも、女の体は既に動き出していた。

 そうして百合子は、自分に話し掛けてきたリーダー格のモブの後ろに付いていく。他にも仲間が居たらしく、百合子を含めて六人という大所帯だ。リーダーと共にヒロインを脅迫すると、屋外に設置されたトイレへと連行することにあっさり成功した。当然だが、トイレは綺麗とは言えない。学校の敷地内に設置されたこのトイレが九条院の通う学校のものなのか、対戦相手のものなのかは分からないが、公共の設備というのは往々にしてこんなものである。

 外に逃げられないようにヒロインを囲むと、お世辞にも可愛いとはいえないモブは凄む。


朱里あかり、てめぇ九条院様に色目使ってんじゃねーぞ」

「私はそんなつもりじゃ……!」


 誰もいないことを確認すると、リーダー格のモブは朱里と呼ばれたヒロインを壁に追いやって怒鳴りつけた。泣き出しそうなヒロインを囲み、小柄な体躯を見下ろすように睨みつける。

 百合子だって気は進まなかったが、というかここにいるモブ全員がそう思っているが、役割だから仕方がない。そう割り切るメンバーの中でも、百合子は特に飛び抜けていた。

 震えるヒロインのすぐ横を蹴とばすように足を掛け、ニヤニヤとその怯える表情を覗き込んでいる。これまでの人生でいじめしかしてこなかったかのような振舞いに、周りのモブはもちろん、リーダー格の女ですら密かに恐怖していた。


「お前それ何持ってるの?」

「これは、やめて!」


 ヒロインが大切そうに持つ何かを奪おうと、手を伸ばす百合子。いたいけな少女の胸には四角い包みが抱かれていた。ぎゅっと胸に抱えて離す様子は無い。モブの誰かが言った、「手作りの弁当じゃね」と。それを聞くと、百合子は一層邪悪な笑みを浮かべる。


「便所に流そうよ。良かったね、トイレちゃんが喜んで食べてくれるってさ」

「やめて! やめて!」


 やっちゃえやっちゃえと声を掛けるモブ達だが、内心では百合子の言動にガチでドン引きしていた。一向にストップが入らない現状に、百合子も内心では焦っている。

 これは途中で九条院がやってくるパターン、というのは百合子の読みだ。ヒロインを連れ去る際、それを見ていた女子が踵を返して走り去ったのを百合子は見ているのである。きっとその子が九条院を連れてくる。既に試合は終わっている筈なのだから。


 ――早く誰か来なさいよ。見てる子居たでしょ。ここで九条院がやってきてって流れでしょう? ふざけてるの?


 しかし、百合子の左端に映るランプはまだ真っ赤なままである。いつまでこんな目を背けたくなるようないじめ現場をコマに収めておくつもりだ。


「貸せよ」

「いや! いや!」

「ウザすぎw」


 ヒロインから弁当を奪い取ろうとする百合子だが、頼むから頑張って抵抗し続けてくれと思っていた。そして見かねた別のモブが声を上げる。まさに鶴の一声だった。


「閉じ込めちゃえ!」


 誰かが高らかにそう言うと、ランプが黄色くなり、ようやくコマから外れるのが分かった。ちなみに弁当はまだ無事だ。数秒待ち、ランプが黄色から赤にならないことを確認すると、百合子は全力で駆け出した。九条院を連れてくるためだ。



 トイレから出てコートに戻ると、九条院はタオルを首から下げて、仲間と呑気に笑っていた。連れ去られるところを目撃したモブが明らかに仕事をしていないことを確信しつつも、百合子は彼に駆け寄って声を張り上げた。


「大変なんです! 朱里ちゃんが!」


 九条院はキザな見た目とは裏腹に優しい男だった。彼女の名前を聞くと、試合直後だというのに血相を変えて付いてきてくれたのである。そればかりではなく、どこにいるのか聞きだした彼は、「先に行ってる!」と言い残し、百合子を置いて駆けていった。


「おい! 朱里! くっそ! どけ!」

「九条院様、違うんです、私達、その……」

「うるせぇー!」


 百合子が辿り着いた時には、ヒロインは九条院の腕の中でわんわんと泣いていた。


 ――えぇ、分かってるわ。いじめてたことを無かったことにして男を呼んで来るの、さすがに無理やりだと思ったわ。かなり賭けよね。それまで一緒にいじめてたモブ達の視線が痛いわ。でもそうするしかなかったの。だってさすがに、自分で言っておいてなんだけど、食べ物をトイレに流すって胸糞悪いもの。散々人を殺したり殺されたりしているけど、そんなことよりもずっと「超えちゃいけない一線」という感じがするというか。


 百合子は言い訳をするように、モブ達と視線を交錯させながら悶々と考える。少ししてから、先ほど百合子達が朱里を連れ出す場面を見ていたモブ女子が、教員を引き連れてその場に駆けつけた。ズッコケそうになるのを堪えて百合子は静かに憤る。


 ――常識的に考えて。普通の学校だったら先生でもいいかもしれないけど、ここは女の嫉妬渦巻く戦場よ。テニスやってるってことになってるけど、そんなの取ってつけたような要素よ。考えれば分かるでしょう。なに秩序を求めているの。彼女はダメね。きっと女子刑務所もののモブをやっても、抗争が起きた時に囚人のボスじゃなくて看守を連れてくるタイプ。バキバキのボコボコの見るも無惨な姿にされること間違いないわ。まぁそういう役割のキャラクターも必要なこともあるから、一概に悪いとは言えないけど。だけど、今回のは完全にミスよ。


 しかし、スポットで入った百合子が、これを彼女に伝えることはないだろう。九条院を連れてくるときに、百合子の声はコマに捕まったが、顔は映っていないので、結論から言うと今回のはギリギリでセーフだ。映像作品なら声が同じだと問題になるかもしれないが、これは漫画なのだから。

 実を言うと、このような出来事は稀によく有る。まともに動ける人が足りずに、一人で数役こなさなければならないことが。ちなみに、百合子は『扉の向こうで女性二人が怒鳴り合っていて、それに主人公がうんざりする』という描写の為に、一人で口論を演じた事がある。これはモブの世界では知る人ぞ知る伝説として語り継がれていたりする。


 ――今回もお手柄だったな、百合子


 頭の中で神の声が響く。彼の声の余韻が消えると共に、百合子の意識は寮の自室へと戻っていた。


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