3-3


 ***


 意識が戻ったことに、百合子は安堵した。どんな世界だろうと軽んじたり嫌ったりすることのない彼女だが、今回スポットを任された世界はそれにしても異質であった。万が一自分がモブを卒業する日が来たとしても、あんな世界の登場人物にはなりたくないと思ってしまうほどに。

 手の中にあったスマートフォンの画面は暗くなっている。しかし右端がチカチカと自己主張をしていた。百合子がディスプレイを点けると、そこにはメールの着信を知らせる通知が表示されていた。

 スポットモブをする前に返信する文面を考えていたことを思い出しながら、百合子は届いたメールを確認した。一件だけではなく、全部で四件届いている。何か緊急の用事かもしれない。逸る気持ちを抑えながら、彼女は画面をタップした。


『ごめんって、調子にのった。今のなし、ね?』

『え? キレてる?』

『おーい』

『今からそっち行く』


 最後のメッセージを読み終えた直後、部屋にノックの音が響く。柄にもなく、百合子はかなり驚いた。胸に手を当ててから、なんなの……と呟くと、やっとドアに向かって歩いていった。扉を開けると同時に春華は気まずそうに呟いた。


「ねぇ、怒ってる?」

「いや、怒っては」

「あー、それ怒ってる奴が言うやつだ」

「だから怒ってないってば。私は」

「怒ってんじゃん」

「怒ってないって言ってるでしょうが! いい加減にしなさい!」

「ブチギレじゃん……」


 春華は恐ろしい剣幕で怒鳴られて若干涙目になっていたが、それでも引く気はないようで、おどおどしながらも、百合子の部屋の前から離れようとしない。

 百合子がため息をついて彼女を部屋に招くと、春華はドアから見える範囲で、百合子の部屋を観察した。スッキリと片付いた室内に、春華は密かに「流石だ」なんて感想を抱く。


「いいから早く入って」

「あ、あぁ。おじゃまー」


 促されて中に入ると、春華はクッションの上に座った。実を言うと、居住者である百合子にすらろくに相手にされないクッションは、一週間ぶりに人に触れられた。その一週間前の機会だって、部屋の掃除の為に少し持ち上げられただけだ。

 百合子は他人が部屋に入り、さらにそのクッションを使用されていることに僅かな違和感を覚えながら、勉強机の椅子に腰掛け、くるりと春華に向くように椅子を回した。


「無視してたワケじゃないわ。私、モブの掛け持ちしてるから。それで」

「あぁー……さっき律子と喋ってたアレ?」

「そもそも、私がメールを打てるようになって得意になったあなたにそこまで怒るような人間だったら、昼間の軽卒な行動をした時点で死んでる筈なのよ」

「ん……」


 百合子達にとって本当に有り得ないことをしてしまったという自覚は、今の春華にはある。先ほどまでは無かったが。この件で余計な口答えをするととんでもないことになりかねないと察せられる程度には、自分達の存在意義を理解し始めているらしい。

 長引かせるような話題ではないと判断した百合子は、場の空気を変えるようなからっとした声色で言った。


「ま。そういうワケだから。あと、メールは上手よ」

「マジ!?」

「えぇ。この調子で明日もよろしく」

「任せなってー」


 ニコニコする春華と、「話は終わったんだからとっとと部屋から出てってくれないかしら」と考える百合子。初めは取り繕っていた笑顔だったが、百合子の反応があまりにも冷たくて、春華はついに吠えた。


「その「話は終わったんだからとっとと部屋から出てってくれないかしら」って顔をやめてくんない!?」

「私の表情を読むって何気にすごいわね。モブだからか、顔で気持ちを表現するの、あんまり得意じゃないのよ」

「今のさらっと肯定されたら傷付くんだけど!」


 百合子が部屋から出たくないと駄々をこねる春華を引っ張ってドアを開けると、そこでばったりと別のモブに出くわした。百合子とは面識の無い女子だったが、彼女は春華の姿を見付けるや否や、二の腕をがっしりと掴んで声を荒げるのであった。


「いたわ!!」

「げー……タイミングわっる」

「あの……彼女、何かの当番だったんですか?」

「そう! お風呂掃除! ね!」

「ちっ……分かったよ、行くよ」

「それじゃ、百合子さん。またね」


 そうして、名前も知らぬモブは春華を連行して大浴場へと向かう。やけに部屋から出たがらなかった理由を知り、自分よりも二十センチほど小さい女子に腕を引かれ、ふらふらと歩く春華の情けない後ろ姿を見つめ、百合子は小さく笑うのであった。


 


 春華のメール能力という、目下の不安材料を払拭した彼女達の計画は、恐ろしく感じるほどに順調だった。春華は無事に主役である圭吾の友人、慎二しんじのアドレスを入手する。それも、前日に百合子と律子から受けた説教を鑑み、他のモブを経由して慎二のアドレスを尋ねるという慎重な手を使った。

 これには百合子と律子の両名ともにっこりである。いや、まさか春華がそこまで上手くやるとは思っていなかった為、そのような手法を用いると提案されたときは息を飲んだ。

 しきたりやルールさえ覚えれば、春華は立派なモブになる、少なくとも百合子はその片鱗を見た気がしたのだ。しかしまだ及第点である。上手くいったことをわざわざ百合子の教室へと教えにしたのである。最後の最後で詰めが甘いと、百合子は春華の頭を軽く小突いた。恨めしそうな目で頭を押さえた春華だったが、百合子は妙に憎めない春華のキャラクターに絆されまいと、腕を組んでフンとため息をついて見せた。

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