3-2



 ——なるほどね


 百合子の視界が明るくなるよりも先に、女の声が響く。頭の中に響いたものではない、きちんとした人の声で、若い女の声だった。それが耳を通して百合子に届いている。

 視界を得ると、そこは無数の本棚に囲まれている空間だった。それだけで判別することは難しいが、読書スペースの広さから、百合子は資料室というよりは図書館のような場所であると察知した。

 すぐ後ろは本棚で、百合子には逃げ場もなにもない。真っ直ぐに視線を向けると、そこにはキャスケットを被った女がおり、虫眼鏡で床のある一点を確認しながらほくそ笑んでいた。「なるほどね」と呟いたのは彼女だろう。百合子は視覚から得られる情報を結合して、世界観を読み取っていく。


 それにしてもここは対応が難しい部類の世界である。横を見ると、張り詰めた表情の男女が、虫眼鏡を持つ手を見つめているようだった。服装や年齢はバラバラで、中には職員のような服装の女もいるので、百合子はやはりここは企業ではなく、何かの施設らしいと当たりを付けた。

 目の前にいる二十歳前後の女が探偵ということだろうか、鹿撃ち帽は売り切れだったのだろうか。気になることはたくさんあるが、慎重に女の言葉を待つ。モブとして動くことが百合子にとっての最重要任務である。しかし、発言をしなければ逆に不自然な場面が存在することも確かだ。


 推理もののモブの消費は非常に激しい。容疑者一人一人にそれなりのストーリーや人格を与えられ、発言の機会すら与えられるが、ほとんどは使い切りの存在、つまりはモブである。何も言わなければ怪しまれる場面もあるだろう。

 しかしそれにしても百合子は自分の立ち位置が分からなかった。服装を見るに学生のようだが、この場にいる理由が推察できない。分かるのは、おそらくは自分も容疑者の一人として扱われているということだけだ。

 どこに行けば買えるのか逆に問いたくなるような、チェックの短いマントのような謎の上着を身に着けた女は、屈めていた体をゆっくりと直立させると、全て理解したという顔で振り返る。


「あなたね、犯人は」


 女は百合子を指差すと、そう言って勝ち誇った顔を見せた。やけに挑発的な表情である。お望みとあらば犯人になってやろうかと言いたくなるのを堪えて、百合子は逡巡する。本当に自分が犯人かもしれない。しかし、すぐに自供するのは、物語として如何なものだろうか。百合子は瞬時に、自分がすべき行動を導き出す。


「私が、犯人……? 証拠はあるんですか?」


 発言しながら、なんて月並みな台詞なんだろうと百合子は自嘲しそうになる。しかし、長いモブ生活の中で、初めて口にした台詞であることに気付くと、妙な達成感もあった。

 それよりもいま考えなければいけないのは、モブとして注目されることの難しさである。証拠はあるかと問いながらも、次の言葉に対応できるよう、不自然に思われない程度に周囲を観察する。


「ここに靴の跡がある。このサイズはどう見ても女性のものなのよ」

「……それ、女性なら誰でも容疑者になりませんか」

「そうね」

「いや認めるんかーい!」


 それまで静かにしていた中年男性が、人差し指を立てて、怒ったような、それでいて笑っているような表情で声を張り上げる。服装から察するに、探偵のサポート役の刑事のようである。

 百合子は頭を抱えそうになった。これは、探偵もののコメディなのかもしれない、と。さすがの百合子も、あまり経験のないジャンルである。自分の立ち位置を軌道修正する必要があるかもしれないと考えた百合子は、他の容疑者の反応を確認してみることにした。横一列に並べられた容疑者達は、いずれも困惑した表情を浮かべている。百合子は存外まともな反応に面食らう。すると、それまで静かにしていた中年男性が窘めるような声で言った。


「探偵ごっこはもうやめにしよう」

「いけません。容疑者をみすみす逃してたまるもんですか」


 女は毅然とした態度で男性と対峙する。しかし、それっぽいことを言ってるが、全然中身が伴っていないことを、百合子は身を以て知っている。


「そもそも、何故私達が容疑者なんですか? 外から人の話し声も聞こえますし、対象を我々に絞った理由を伺いたいです」


 百合子は差しつかえのない範囲で、情報収集することにした。こんなに面倒な舞台ならばあらかじめ何かしらの情報を寄越して欲しいと、神に対して心の中でクレームを入れながら。


「私のお弁当の近くにいたからに決まっているわ」


 簡潔に述べられた理由だが、それは別の意味で百合子の意識を遠退かせた。殺人事件の現場に立たされていると思っていた百合子にとって、一番の衝撃だったろう。お弁当というワードは。そして探偵気取りの女の発言を受けて、容疑者達が次々に喋り出す。


「私は人のお弁当を勝手に食べるほど卑しくないです!」

「俺だって嫁が作ってくれた愛妻弁当があるんだ!」

「ボクは早弁したから、お腹減ってないっていうアリバイがあるんだ」


 空腹状態ではないことを、ここではアリバイがあると表現するらしい。百合子は呆れた表情をもう隠さない。これでもかというほど、やれやれと顔で語り、大きなため息をつく。もうお弁当の中身の代金を支払ってやるから解放してくれと言わんばかりの表情である。

 そんな百合子に助け舟を出すように、チャイムが鳴った。ここは図書館ではなく、学校の図書室だったらしい。そんなことを知りながら、百合子はここぞとばかりに声高らかに告げる。


「これから授業ですので、私はこれで!」


 足止めする女の声を背中で聞き流しながら、百合子はずんずんと出口を目指して歩く。出口の場所が分からなかったので変な方に歩いていきそうになったが、分かりやすい構造になっていたので、なんとか自然にその空間を離れることができた。


 ——ありがとう、百合子……!


 頭の中で神の声が響く。視界が白んでいき、百合子はこの世界での役割を終えたことを理解した。

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