3.

3-1

  

 ***


 ぐらつく地面と逃げ惑う人々の声。地響き、あちこちで何かが崩れ倒れたり割れたりする音。スポットモブで百合子がやってきた世界は、始めから何かの限界を迎えているようだった。

 ホテルのような内装の施設内を右往左往する人の波と、安定しない足場に、百合子がそこを地震災害の現場だと思ったのは一瞬だ。それは、白い帽子をかぶった男性が黒いつばを手でつまみ、声かけをしながらやってきた為である。

 白を基調とした制服を見た百合子はピンときた。そして自らの手を見る。真っ白い手袋に覆われており、袖口だけが黒い。厚手の布地、黄色いボタン。点と点を線で結び、自身が男性と同じ制服を着ていることがすぐにわかった。

 これは地震ではない。百合子は即座に理解した。揺れているのは大地ではなく、この乗り物、船だ、と。ちなみに視界の端では黄色いランプが点きっぱなしになっている。それが時折、赤になったり、また黄色に戻ったりと、とにかくせわしない動きを見せていた。百合子は沈没しそうになっている船内をカメラが動き回っている様子をイメージした。よくよく見てみると、客の多くはラフな格好で、中にはビーチサンダルのまま駆けている者もいる。恐らくは余暇を楽しんでいる最中だったのだろう。

 百合子は周囲の様子を窺いながら耳をすませる。至るところから聞こえる叫び声、それに掻き消されそうになりながら、かすかに聞こえるには船員達の呼びかけ。見ると、作業着を着た中年男性や、コックまでもが、混乱を極める船内でどうにか手綱を握ろうと足掻いていた。百合子のすぐ背後には避難経路の地図がある。廊下の天井には、緑と白の出口を示す看板も確認できた。

 一つ一つを素早くその目に収め終えると、彼女は少し移動してちょうど通路の角、パニックになった人間が道を間違えやすそうなところに立ち、勇敢にも両手を広げる。自らが果たすべき役割を理解したのである。


「押さないで下さい! ゆっくり! 避難経路はこちらです!」


 流れる時間が違うと錯覚しそうになるほど、のんびりとした調子で移動する老夫婦が百合子の視界に入る。彼らはおそらくは平時とほとんど変わらないスピードで、人ごみに揉まれながら歩み寄ってきた。


「どうされました!?」


 訳を訊くと、この先に自分達の部屋があり、荷物を取りに行きたいのだと言う。百合子は彼らにきっぱりと諦めるよう告げ、周囲に対して再び声を張り上げた。


「こちらです! この先、船員の指示に従って進んで下さい!」


 彼女が乗客を案内する間も、老夫婦が動く様子は無い。しかし彼女は心を鬼にして、いま自分がすべきであろうことを懸命にこなそうとした。もはやモブの使命など関係無かった。走ることすらままならない老夫婦を通してしまえば、それは見殺しにしたも同然だ。むしろ、いち早く避難ボートの元へと辿り着き、優先的に海に出るべき立場なのだ。

 しかし、老夫婦がやってきてからというもの、百合子の視界の隅のランプが赤くなる頻度が増えていた。


 ――まさか、この夫婦が物語のメインキャラクター……? いいえ、これが船から脱出する類いの作品だとすれば、その可能性は限りなく低い、はず……


 百合子はモブをこなしながらも逡巡した。船が傾くようなことがあれば、船内は健康な成人男性ですら突破するのが困難な、命懸けのアスレチックに早変わりすることになるのだ。家具などは全てが凶器に変わる可能性があり、長い廊下はそのまま駆け上がりようのない壁となる。そんな舞台を想定したとき、目の前にいる人の良さそうな老夫婦をメインキャラクターにするのはあまりにも酷じゃないだろうか、と思わざるを得なかった。

 顔はモブらしいシンプルな顔付きだったが、百合子はこの二人を後ろへと通していいものか、迷い続けている。そこに、一人の長身の青年が現れた。


「お! さっき飯奢ってくれたじっちゃんじゃん!」

「おぉ、君はさっきの」


 快活な青年は愛想良く笑う。緊急時だというのにほんの少し気持ちが楽になるような、不思議な空気を纏う青年だ。短く刈り上げられた襟足をぽりぽりと掻いて、この緊急時にそぐわない呑気な表情を浮かべている。

 老夫婦は彼に何かを告げた。それを見ながら、百合子は「こっちが本命ね。間違いなく」と、これまでの違和感しかない展開の意味を理解し、内心で安堵していた。


「任しとけ! 俺もちょっと用事があるしな!」


 耳打ちされた言葉にふんふんと何度か頷くと、青年は老夫婦に向かって胸を叩いた。彼はここを抜ける気だろう。しかし、百合子も譲るつもりは無かった。百合子を説得しようと、青年が「えぇと」と何か言いにくそうに言葉を探す。どんな言葉を掛けられても譲りはしないと、百合子が構えた瞬間の出来事だった。


「ごめん!」

「ちょ! 君! 待ちなさい!」


 突然、大きく一歩踏み出す青年、見事に反応して見せた百合子。しかし、その反射神経の良さが仇となった。青年はフェイントをかけるような動作で逆側から走り出すと、百合子の脇を軽々と抜いて行った。走りながら振り返った青年は、上半身だけ百合子へと向き、人懐っこい笑顔で手を振る。


「ごめんな! お姉さんの責任じゃないから! じっちゃん達のこと、よろしく!」


 そうして彼の背中はすぐに見えなくなってしまった。若者を危険なところへとパシらせるのは大人として如何なものか、など。百合子が老夫婦に対して何も思わないと言えば嘘になるが、それを追求するのは恐らく自分の役目じゃないだろうと、本音を胸にしまい込む。

 百合子は厳しい口調で、再三になる次の避難経路への移動を老夫婦に言いつけた。そろそろ彼女のスポットモブの仕事も終わりだ。あの青年はきっと生きてこの船を脱出できる、百合子はなんとなくそんな気がした。



 ***



 意識が戻る。机に突っ伏す形でスポットモブの世界に魂を飛ばしていた百合子は、顔を上げると、そこが変わらず寮の自室であることを確認する。こちらの世界では三十分も経っていなかったらしいことを、壁掛け時計が静かに知らせていた。

 呼びかけに応えて出て行ったときと唯一違うのは、メールの返信をしたはずなのに、再び通知のランプが光っていることだけだ。百合子の返信からすぐに返事が来たとしても、放置してしまった時間は長くても三十分未満ということになる。

 内容を確認しようとスマホを持ち上げてみると、そこには予想通りの人物からの返信があった。


『良かった。ね? あたし上手くなったでしょ』


 春華から送られてきたメールを見て、百合子はどう返したものかと考え倦む。褒めて伸ばすことも大事だろうが、彼女の場合、すぐに調子に乗りそうでもある。

 メールの文面が決まらず、指先が空を踊る。思い切って褒めてみようと決断したところで、頭の中に声が響く。言わずもがな、スポットモブの依頼だった。今日はやけに多いとは思った百合子だが、それを神に伝えるような真似はしなかった。神なのだから百合子の心中くらいお見通しの可能性はあるが、それでも百合子は礼儀を重んじた。

 頭の中の声に対して、頭の中で返す。大丈夫よ、すぐにでも。そう答えてみせると、百合子の意識は強制的にまどろんでいった。


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