2-2
「っはぁー……」
百合子は保健室にいた。それだけではない、柄にも無く両手で顔を覆っていた。パーテーションで区切られた白い景色の中、彼女の現在の視界は真っ暗だ。
即効性の毒が塗られている吹き矢で春華を大人しくするという大役を務めた彼女は、誰にも不自然に思われないように保健室へと移動して、仮病を使ったのである。ベッドに身体を横たえて、保健医に妙に思われないように小さくため息をつく。
布団の中に潜ると、律子にメッセージを送った。ちなみに、春華とは違い、送った相手がそのメッセージを確認したかどうかを知れるので大変便利である。授業中なので望み薄だと思っていた百合子だったが、返事は存外早く届いた。
『春華から、「犬塚が好きかどうか圭吾に訊いてみる!」なんてメールが届いたわ』
ある程度モブの経験がある者であれば、春華のやろうとしたことがどれほどのタブーかは、説明するまでもないことだ。連続で送られてくる律子のメッセージから、彼女の焦りが見て取れる。
『あの、冗談ですよね?』
『春華さん、本人に直接訊いちゃったんですか?』
『そんな強引なことをしたら……物語が壊れるか、早々にエンディングを迎えてしまいますよ……!』
律子も気が気じゃないのだろう。彼女の動揺は百合子にもよく理解出来た。敬愛する百合子の返事を待たずに、一方的にメッセージを送りつけてしまうほど、律子は混乱しているのだ。ぽんぽんとポップアップする悲痛な心の叫びを眺め、それでも百合子は返信をした。
『もちろん、その点は問題ないわ』
『え?』
『私が対処した。春華が彼に余計なことを訊くことを阻止したわ』
『そうなんですか! 良かった……私、てっきり……』
『授業中にそのメールを見て、居ても立ってもいられなくなって直接行って吹き矢で黙らせてきたわ』
『さすがプロモブ……なんでもできるんですね……』
『体調不良で抜け出したから今は保健室よ』
律子とやりとりをしている間にチャイムが鳴る。百合子は今後について考えを巡らせ、六時間目をどのように過ごすかを考えた。
春華はまだしばらく寝ているはずだ。号令の時に不審がられそうだが、不幸中の幸いというべきか、春華は一番後ろの席だった。優等生という身なりではないので、誰もさほど気に留めないだろう。つまり、春華の後始末の心配をする必要は無い。
そこまで考えると、百合子は身体を起こした。教室を抜け出す用事が無いのであれば、持ち場に戻ろう、と。今後の方針を定めてすぐに、クリーム色のカーテンが静かに引かれる。百合子が起きていることを確認すると、保健医の女性は優しく微笑んだ。
「体調、もう大丈夫?」
「えぇ。すみません、自己管理が出来ていませんでした」
「いいのよ。むしろ安心したわ、あなたが何かあった時に他人を頼れるタイプの人なんだと知って」
「……どういう意味ですか?」
突然、元々知り合いだったような調子で話されたことに違和感を覚えた百合子は、僅かに眉を寄せた。警戒する素振りを見せる百合子を前にしても、保健医は堂々と笑っている。
「高嶺百合子、あなたを知らないほど、私はモグリのモブじゃないのよ」
「なるほど……」
「いつランプが点くか分からないから、お喋りはこの辺にしましょ。まだここにいる?」
「いいえ。もう平気です」
百合子はベッドから足を下ろすと、すぐに上履きを履いた。立ち上がって保健医に会釈すると、引き戸の前に立つ。そして何かを思い出したかのように振り返った。
「どうしたの? 忘れもの?」
「一つ。この状況、やはりモブの誰かが打開しなければいけないと思いますか?」
「……難しい質問ね。ただ、そうね。うん、分からないわ」
「……」
「私、今回はこんな役だけど、前回はほとんど裸みたいな格好で石の斧振り回してたのよ。その頃の思考回路が抜けきらなくて。難しいこと考えようとすると「肉!」ってなっちゃうのよね」
「そう……」
色々な役割があるものだ。百合子は自分ですら経験したことのない大昔の役柄を演じたという女に、若干哀れみの視線を向け、ドアに手をかけた。
「でもね、はっきりしてることがある。みんな、あなたに期待してるはず。もしモブの誰かが現状をどうにしてくれるとしたら、それはあなたしか居ないって」
「……そう。それでは、失礼します」
百合子は一瞥することなく保健室を出た。みんなが自分に期待しているという言葉を、彼女は素直に受け取っていた。というより、百合子は感じていたのだ。多くのモブが自分で何かをしたくなくて、重要な役回りを自分以外の誰かに押し付けられないか考えている、と。
そんな者達のほとんどが、モブという役割を捨てて物語に名前のあるキャラクターとして出演したがっている。百合子はその滑稽さに顔を顰めた。
「おだてられれば木にも登るって思われてるのかしら。馬鹿にしてるわ」
呆れて物も言えなかった。保健医にではない、彼女はただ事実を述べているだけだ。この学園を構成する生徒役の、多くのモブに呆れ返っているのだ。当然、律子は除く。一応、春華も。
やはり三人で動いてどうにかするしかない。その結論に改めて触れた百合子は、かなり険しい表情をしていた。
そのときだった。百合子の視界の端が赤くなったのは。
「ねー。お願い! ね! ただの数合わせだから! 来週末暇でしょ!?」
「うーん……ごめん、やっぱりやめとくね」
「犬塚最近付き合い悪いってー!」
「たはは、そうかな……? また誘ってね! ホント、ごめん!」
何かしらの誘い、おそらくは合コンを断るヒロイン。駄々をこねるようにしつこく誘うクラスメート、すれ違うモブ。そう、百合子である。彼女はランプが赤く点灯した瞬間、表情を作り直して女生徒を完璧に演じたのだ。
犬塚の発言内容から、何か進展があったとは思えない。やはり自分達が動くべきなのかもしれない。その思いを少しだけ強めて、百合子は教室へと戻るのであった。
放課後、律子と春華は百合子の教室に訪れた。生徒の半数以上は部活や寮へと姿を消していたが、残った者はそれぞれ雑談に興じており、閑散とした印象は受けない。むしろ賑やかだった。お調子者のバカ笑いや女子の噂話などで教室はいっぱいである。この喧騒は学業という使命を終えた開放感がもたらしているのかもしれない、と百合子は思った。
律子は百合子の隣の席の椅子を借り、春華は教卓に座って足をぶらぶらと遊ばせている。系統の違う女子三人が集まる姿はほんの少しだけ異質な光景だったが、彼女達にはそれを気に留める余裕は無かった。
先ほど、百合子が犬塚とすれ違った際の話を聞かされ、二人は各々腕を組んで難しい顔をしている。先に口を開いたのは春華だった。
「結局、進展は今日もなかったみたいだ。あったら今頃、左下でずっと黄色いランプが点いてるだろうし」
「春華さん」
「せめてあたしがあの時にちゃんと手紙を渡せればなぁー……目が覚めたら授業どころかホームルームまで終わってたんだよ」
「私がその気になればホームルームどころかあなたの人生そのものを終わらせることができた、ということをお忘れなく」
百合子は笑顔で春華を脅迫する。しかし、彼女の苦労を考えればこれくらい言っても罰は当たらないだろう。目立たないが真面目な女生徒として積み上げてきたものを、一瞬にしてぶち壊しにするリスクを背負わされたのだ。
しかし、春華には百合子が告げた言葉の意味が理解できなかった。
「え? どういうこと?」
「あなたが余計なことをすると言い出したから私が吹き矢で眠らせたのよ」
「はぁ!? ひど!!」
「ひどい? 眠らせる効果のある毒ではなく、確実に死に至る毒を塗っても良かったのよ?」
「ひえ……なんでそんなもん持ってんだよ……」
ここまで言われて、春華はようやく五時間目に何が起こったのかを理解したのである。笑顔で青筋を立てる百合子と、軽蔑の色すら窺える目で自分を見つめる律子の表情を見て、春華は首を傾げた。
「そこまでおかしいことはしてないと思うんだけど……」
「はい?」
「うん?」
「あの、本気で言ってます?」
百合子の様子は変わらないが、律子は嘆息と共に眼鏡を外した。これまで眼鏡に隠れていた鋭い眼光が露わになる。作品の空気に合わないという点でみれば、春華の身なりの比ではない。律子の双眸は主役級の異彩を放っていた。その視線にたじろぎながらも、春華は意見を述べる。
「な、なんで……? クラスメートなのに、そんなことも訊いちゃいけない?」
立場が違えば正論とも取れる春華の発言であったが、百合子は間髪入れずに彼女を説き伏せる。
「あなたは勘違いしているわ。私達とメインキャストが最も重視すべき関係、それはクラスが同じかどうか、なんてものじゃない。メインかモブか、よ」
「百合子さんの言う通りです。そこだけは絶対に弁えなければいけません」
律子の追撃まで聞き届けると、春華は「それもそうか……」と、噛み砕くように呟いた。二人が言わんとしていることが少しは伝わったらしい。
責めるばかりでは可哀想だろうと、百合子は春華の取ろうとした作戦を、方向性をそのままに修正案を出した。
「あなたのクラスにメインキャラと仲のいい人がいるでしょう。物語にも名前付きで出ている、いわゆる脇役のようなキャラよ」
「いるけど……」
「私達が直接キャラクターに関与できるのはせいぜいそこまでよ。その人物を上手く動かすようなこと言うの。わかるわね」
「あー……」
自ら主役に関わるのではなく、主役に関わるキャラクターに働きかける。それが百合子の提案した折衷案であった。
百合子の隣に座る律子はうんうんと大きく頷いていた。ちなみに、律子は眼鏡を掛け直し、普段の彼女に戻っている。あれを外させたらヤバいということを春華は身に染みて理解したようで、その様子を見てほっと胸を撫で下ろしていた。
そして主に律子の神経を逆撫でしないように、言葉を選びながら春華は慎重に言った。
「うーん、まどろっこしいね」
「春華さん、何事も過程は大事だわ。時にあなた、今のトレンドをご存知?」
「トレンド……? 律子、トレンドって何?」
「トレンドの意味を知らないのは想定外だったわ」
呆れる百合子に代わり、律子が助け舟を出す。トレンドというのは流行のことで、最近はお互いに両想いな状態で物語が進行するものが流行っている、と続ける。それはまさに、百合子の求める模範解答だった。
「そうね。今のトレンドは「じれじれ」、「両片想い」よ。要するに読者はそのまどろっこしさを楽しんでいるの」
「あたしには理解できない趣味だなぁ……「あ! この人好き! 告白しよ!」の方がよっぽど共感できるっていうか」
「思い立ったが吉日が過ぎるでしょうよ」
「そもそもそれを漫画にする必要あります?」
不毛な会話を繰り広げる百合子達だが、春華の認識は少し変わったようだ。それだけでも価値のある時間と言っていいだろう。何せ、先ほどのように、いつでもすぐに百合子が駆けつけて対処できるわけではないのだから。
「とにかく、さっきのあたしが軽卒だったのは分かったよ」
なんとなくだけど。そう続けたい春華だったが、律子の鋭い眼光が自分を見つめる気がしたので口を噤んだ。非常に賢い判断だろう。百合子は春華のその細かい仕草すら見逃さなかったが、黙ることが出来ただけ進歩だろうと、心の中で春華へ及第点を与えながら口を開いた。
「そこで、私に作戦があるわ。ヒロインの犬飼さんが合コンに誘われていたということを主人公に伝えるの。脇役を通じて、ね」
「でも、断ったって言ってたじゃん?」
「誘われていたのは事実よ。そこまで聞かされたら、きっと彼だっておちおちしていられないと思うでしょうよ」
「状況を考えると、百合子さんの作戦は現状出来る限りの、最高の有効打だと思います。合コンに誘われている場面がコマに捕まっている為、読者は違和感を覚えないでしょう」
「なるほど……分かった! 今からそいつと話してくる!」
「 や め な さ い 」
反省した次のターンには似たような過ちを繰り返そうとしている春華を、百合子が静止する。かっと見開かれた眼からはビームが飛び出してもおかしくないほどの迫力があった。
「その人を探してどうするつもり? 「よ! 犬飼が合コンに誘われたって圭吾に言っといてくれ!」とでも言うつもりだった?」
「春華さん、あなたという人は……」
「そ、そんなことしないって! 「犬飼さんって圭吾の幼馴染だったよな?」「そうだな。なんで?」「あたしの友達が合コンに誘ったとか言ってたから、ちょっと気になっただけ!」って感じで持ってくつもりだったよ。あの脇役、結構お喋りだからここまで言えば圭吾にも伝わるよね?」
「存外まともでツッコミにくいですね」
「そこまで考えられるなら突撃していきなりその話をし始める流れにもっと疑問を持って欲しかったわ」
唐突に脇役を訪ねるのは良くない。しかし、会話の内容は悪くない。百合子は顎に手を当てて呟いた。メールなら……と。
それを聞いた二人の表情が変わる。律子は百合子への尊敬のまなざしを送り、春華は明らかに嫌そうな表情を浮かべていた。
「メールか……」
「あの「小学生でも送らないでしょ」という文面はダメよ」
「あぁ、あれ……酷かったですもんね……」
二人は春華にケータイを取り出させ、メールの打ち方を教育することにした。本人は細かいことを指摘されていると感じているようなので、その認識から改める必要があった。うんざりしたいのはこちらだと言い、百合子はぶーぶーと不満を垂れる春華を黙らせる。
「私だって一つ年上という設定の女子に、文字の変換の仕方を教える体験なんてしたくなかったわ」
「春華さんといると楽しくていいですね。老人ホームに居るみたいで」
「律子、百合子の三倍はあたしにイラついてそう」
そうして、なんとか人を真似た宇宙人のような文面から、まともな小学生くらいまで成長してみせた春華は、最後に衝撃的な台詞を吐いた。
「大体分かったぞ。じゃ、明日メールしてみることにするよ」
「今日しなさいよ」
「でも、アドレス知らないし」
「先に言って下さいよ!」
百合子は思った。もうやだ。せめてスポットで別のモブになりたい、と。完全にこの世界から消えたい、ではなく、一時的に離脱したい、と考えるのが彼女らしいところと言えるだろう。普通であればそろそろ挫ける。
「明日必ず送るから。今日は練習がてら二人……は怖いから、百合子があたしのメールに付き合って欲しいな」
「律子さんにも送ってあげなさいよ」
「そうですよ。仲間外れなんて酷いです」
「律子、欲しいの? あたしからのメール」
「届いたメールに点数付けて返信するくらいしますよ。私は点数しか送らないので。めげずに日常起こったことなんかをメールしてくださって結構ですよ」
「あたしも流石にそんなオリハルコンみたいなメンタルしてないんだよね」
百合子は窓の外を見る。空が赤かった。もうこんな時間かと呟き、そろそろ帰りましょうかと二人に投げ掛けて立ち上がる。進展があったような、なかったような。なんとも言えない一日が終わろうとしていた。
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