第十五話 あの日を見せる陽炎の

 夏の匂いが鼻を突くたび、あの日のことを思い出す。

 家の電話が鳴る音。

 受話器の向こうの喧騒と、焦燥の声。

 海にでも突き落とされたかのように、一気に冷めていく体。


 もし、あんなことが無ければ。

 アタシもあの子も、今は―――



「杏梨ちゃん?」

「え、わぁっ!」


 間近で響いた声に驚き、椅子ごとひっくり返る。教室中の視線を集めながら、杏梨はゆっくりと起き上がった。

 声をかけた舞華と、一緒に話していた芽衣は怪訝な顔をしながらその様子を見ている。


「いやーそーりー、んで何の話だっけ」

「何の話もなにもっしょ。杏梨今日ボーッとしすぎ」

「体調悪いの? 何かあったなら話聞くけど」


 口々に心配の声をかけられ、たじろぐ。一人で悩むなとは言わないまでも、明らかに様子がおかしいことは看過できないと二人の表情が語っていた。

 しばらくは唸り声を出しながら狼狽えていた杏梨だが、結局手を合わせて謝った。


「ごめん! こればっかりは話せない!」

「……自分で片付けられる問題なの?」


 舞華の問いかけは、杏梨の心に重くのしかかった。思わず苦い顔を見せてしまい、視線を逸らす。

 まずかったか、と少しだけ舞華の顔色を伺う。しかしそれ以上の追及はなく、空気の重いまま話は流された。

 その後も杏梨は浮かない顔のままで、授業中にも何度か教師に注意される。あまりにも様子がおかしいことを見かねてか、一度は保健室に行った方がいいのではとまで言われてしまった程だ。



「どう思う、あれ」

「そう言うと思って、予想つけてきました」

「早ーい」


 放課後、スーパーの中を歩きながら舞華と芽衣は昼間のことを思い返す。本人の弁を尊重するのであれば首を突っ込むのは野暮だが、それでも普段は元気の塊である杏梨が落ち込んでいるのを見逃せる二人ではない。

 調味料の棚を見ながら、芽衣は深刻そうに語り始めた。


「杏梨のさ、入学動機。話したいセンパイがいるってやつあったっしょ」

「ああ、それ」

「どーもキナクサイんだよねー……こう憧れーとか恋ーとか、そういう系じゃないっぽいの」


 少し言いよどむ。その先を話していいものか、この場においてなお芽衣は迷っていた。

 しかし一度腹を決めた身、深呼吸を挟んでからおもむろに続きを話し出す。


「もしかしたら……マジで復讐とかそーゆーヤツかもしれない」

「……何かあったの?」

「あくまで予想なんだけど」


 芽衣から聞いた話は、以下の通りだった。

 二年生で陸上部に所属するある生徒は、通常の練習に同行しない。暗くなった後、夜七時から八時にかけての一時間の間だけ一人で走り高跳びの練習をしているのだそうだ。

 曰くその生徒は中学生の時、記録を競っていた後輩に怪我を負わせ、以後の大会へ出場停止の処分を受けたらしい。

 他の生徒と同じ時間に練習できないのはその話が噂として広まったせい……


「それと杏梨ちゃんとの関係って……」

「同じなんだって、中学。だから多分、その怪我させられた後輩っていうのが」

「……じゃあ」


 杏梨が天祥学園に入学した理由は、―――

 言葉が出ない。何かを言おうにもこの場に当事者である杏梨はおらず、自分達がむやみに首を突っ込んでいい話でないことが思考をより狭めていく。

 しばらく二人して無言のまま立ち尽くし、遂には座り込んでしまった。何かできないかとは思っても、頭が空回りして呆けるしかできない。

 スーパーに流れる呑気な音楽も、談笑の声もどこか別の世界にあるかのように遠く聞こえる。


「……何かできないかな」

「できたら……よかったよね」



 今でも正確に、その顔を思い出せる。

 話を聞かせろと乗り込んで、友達に引きずられていた時だ。

 無表情を貫きつつも、どこか申し訳なさそうな―――


 本当にそうか?


 ―――無表情。興味もなく、当然といったような。

 人に手を出し、怪我をさせておきながら。


 そうだ、それでいい。


 なんであんなことを。

 憎い。苛立ちが収まらない。

 同じ目に遭わせてやりたい。罰が無くていいはずがない。

 あの子の代わりに、アタシが―――



 翌日も、杏梨は変わらず沈んだ様子を見せていた。昨日話した推理のせいで、舞華も芽衣も気になって仕方がない。

 授業中に指されても反応が遅れ、手に持ったものは取り落とし、会話に至っては完全に上の空で成り立たない。

 自分達が関わっていい問題ではない。そう思って我慢する。杏梨が自ら解決しなければならない問題であり、第三者が身勝手で割り込むのは


「先生! 杏……アッシュベリーさんを保健室まで連れて行きます!!」

「ど、どうぞ」


 いけないのだろうが我慢できなかった。杏梨を無理に立たせ、腕を引いて歩かせる。幸いにも空き教室が多いことから、人目を気にせずに保健室まで連れて行くことができた。

 扉を開ける力が強すぎたのか大きな音が響き、保健医の館野が跳ねるように驚く。


「ひっ! ど、どうしたの?」

「ちょっとベッドお借りします!! あとできたら少しの間外してもらえるとありがたいです!」

「え、ええ……」


 ベッドに杏梨を座らせ、肩を強く掴む。


「あ、あの……姫?」

「もう無理、私が我慢できない。何があったか話して」


 強い眼光で見据えられ、杏梨は顔を逸らせなくなる。肩を掴む手の力は強く、痛くはないが離してはもらえないだろう。

 無論、杏梨も責任は感じていた。自分が変わった様子を見せれば、友人である舞華達は心配する。逆の立場であれば絶対に自分も放っておけない。だからこそ、早いうちに解決するつもりはあった。

 しかし、杏梨の様子が変わったことに一番動揺していたのは、他でもない杏梨自身だった。昨日から調子がどうにも狂ってしまうことに違和感を覚えつつも、それに抗うことができない。気付けば上の空になって何も考えず呆けている。

 そして、意識が逸れている時に頭にあるのは決まって―――


「先輩と話、できたの?」

「え」

「話したい先輩がいるからわざわざここに来たんでしょ?」


 予想外の言葉が飛び出したことで、杏梨は目を白黒させて戸惑う。何故、今のタイミングでその話が出てくるのかわからなかった。


「……芽衣ちゃん、心配になって調べたんだって」

「あ……」

「中学生の時、色々あったって……勝手なことしてごめん」


 ばつの悪い顔で謝る舞華を見て、杏梨の心に刺すような痛みが走る。

 ―――ああ、こんな顔してほしくなかったのに。

 話しておけば良かったかもしれない。そう思ってもまだ、声にして話すことは体が躊躇っている。

 それでも、ゆっくりとでも。伝えなければいけない。もう心配させたくない。


「……中学ん時さ、すっごい仲いい友達がいたんだ。陸上で走り高跳びやってて。「みう」っていうの、美しい羽って書いて美羽。脚がめっちゃ強くて部活でも期待されてたんだ。けど、そのせいで立場食われるって上級生からは嫌な顔されてて。人目のないろとこで結構キツいこと言われたりしてたみたい」

「ああ……」


 稀に聞く話だ、というのが舞華の率直な感想だった。運動部で下級生が注目されると内部で邪険に扱われる。舞華が中学生の時は無かったが、他所では似たようなことがあったという噂は流れていた。

 頷いて相槌を打ち、続きを促す。


「んで、二年になっても結局上級生の当たりはキツくて……夏休み、ほとんど人がいない時に……」

「怪我させられた……」

「階段から突き落とされて……頭打ったんだ。全身打撲もあって二ヶ月半の入院、当然大会なんて出られなかった」


 言葉が出てこなかった。あまりにも直接的な方法、まともな人間がやるとは思えないような手口を聞いて背筋が凍えるような感覚を覚える。

 止めたかった。これ以上話させることが、杏梨の心に拷問の如き苦しみを与えているのは火を見るよりも明らかだ。

 それでも、無理に聞き出したのは舞華自身だ。最後まで聞いて、力になれることを探すしかない。


「そんなことされて、普通に学校通うなんてできるわけないじゃん。死ぬんじゃないかってくらい落ち込んで、部活もやめちゃって……卒業して、遠くの高校選んで引っ越したんだ。ずっと普通には話せなかった」

「そうなんだ……」

「でも、突き落とした方も悪い噂が立って……大会は出たけどその後部活は辞めたって。それで、同級生が来ない天祥に進学したって聞いて……アタシも」


 杏梨の話が終わっても、しばらくは沈黙が続いた。舞華は必死に思考を巡らせ、どんな言葉をかければいいのかを考える。

 ―――まずは落ち着け。私が冷静にならなきゃ解決しない。


「まだ、その先輩とは……」

「話してない。お見舞いの時、美羽に詮索しないでって言われてたし、中学ん時教室まで乗り込んで友達に止められたから……中々」

「……話を聞いて、杏梨ちゃんは……どうするつもりなの?」


 逆鱗に触れる覚悟で切り込む。もしこれで、杏梨が復讐など考えていれば、止める必要があるだろう。最悪の場合、悪魔に目をつけられる可能性も……既にとり憑かれている可能性もある。

 強く見据えられた杏梨は、ゆっくりと口を開いた。


「アタシはただ、なんでそんなことをしたのか知りたい。せめて美羽に謝っ……」

「…………杏梨ちゃん?」

「……ちがう」


 体中を撫で上げられるような悪寒。ここに来て、やっと舞華はその存在を認識することができた。

 ぼんやりとだが、翼と角を生やした悪魔の姿が杏梨の背後に見える。そして、その表情は全てを理解させるような底意地の悪い笑み。

 煽っている。あえて気付かれるまで儀式を行わず、舞華にとって身近な存在である杏梨にとり憑くことで。この悪魔は、勝利を確信してわざと挑発的な笑いを舞華に向けているのだ。

 そして杏梨もまた、煽りたてられたように自分の意思を上書きする。


「あんなことしたんだ……同じくらい、苦しませないと……痛めつけないと」

「杏梨ちゃん!!」

「っ」


 肩を強く掴み、揺さぶる。杏梨は我に返り、水でも浴びたかのような表情で舞華の顔を見た。

 自分がなぜそんなことを考えるのかわかっていない、といった様子だった。悪魔から受けた影響は深刻、確実に倒さねば杏梨が危ない。

 まずは杏梨の精神を安定させること、そう断じて舞華は口を開く。


「今杏梨ちゃんが知ってることが全部本当とは限らないんでしょ? だったら変なこと考えないで。危ないことは怪我のうち、って言うよ」

「あ、うん……ごめんね姫」

「私も行くよ、その先輩の所。二人きりだと何が起きるかわからないし」


 当然、悪魔に操られた杏梨が滅多なことをしないように、という意味だ。悪魔の存在が普通の人間には認識できない以上、何か起きれば杏梨が疑われる。

 絶対に失敗できない。心の底から湧きあがる悪魔への怒りを抑えて、杏梨に寝ておくように伝える。

 そして保健室を出てから、待っていた館野に頭を下げた。


「すみません、急に追い出したりしちゃって」

「私は大丈夫だけど、あの子は……アッシュベリーさん? 大丈夫なの?」

「はい、寝ておくようには言ってるので、お昼休みくらいになったら教室に戻るよう言ってあげてください」


 もう一度礼をして、教室へ向かう。

 その顔には、固い決意が現れていた。



 放課後、夜。いつもならば夕食や入浴、課題に割いている時間だが、今日に限っては違う。舞華は杏梨に連れられ、グラウンドに来ていた。

 ほぼ全ての運動部が既に撤収している中、ただ一人。走り高跳びをひたすらにこなす人影が見える。

 前を歩く杏梨の足取りが重くなるのがわかった。舞華はその肩に手を置き、心配いらないと頷いて見せる。


「……水野みずの美空みそら先輩」

「あなた……アッシュベリーさん?」


 ハーフという珍しさからか、一度自分の前に現れたからか。その人―――美空は杏梨のことを覚えていたらしく、目を丸くして驚いている。

 だがその表情も束の間、対面した相手の目的を察したのか唇を引き締める。


「あなたがこの学校にいるということは……まさか」

「はい……美羽の話を聞きにきました」


 美空は、隠すこともなく苦い顔をする。その表情から真意は読み取れないが、何か悔やむようなものを舞華は感じた。


「彼女を突き落とした犯人に……落とし前でもつけて欲しいの?」

「……!」


 挑発的な物言いに反応してか、杏梨の全身に力がこもる。咄嗟に、舞華がその手首を握ったことでなんとか心を持ち直した。

 杏梨としても、真実を聞き出すまでは冷静でいなくてはいけない。深呼吸を挟んでから、今一度言葉を紡ぐ。


「本当に、水野先輩がやったんですか」

「……」

「もしそうなら、そこまでした理由を教えてください」


 美空は流れる汗を拭うこともせず、ただ杏梨の目をじっと見つめていた。杏梨も返す視線を決して逸らさず、平静を保とうと呼吸を意識する。

 しばらくして、根負けしたかのように美空が髪をかきあげる。


「……そうね。わざわざこんな変わった学校まで押しかけてくるんだもの。あなたには……話した方が良さそうね」

「……」


 既に陽も落ちた中で、強い明かりで照らされたグラウンドは昼の如き明るさを放っている。

 逆光を浴びながら、美空はついに……真実を告げた。


「彼女に怪我を負わせたのは私じゃないわ。他の三年生部員が結託してやったことよ」

「……じゃあ」

「ええ。私は利用されたの。彼女に最も近い記録を持っていたから、自分が一番になるためやったと」


 美空は、犯人ではなかった。それも、彼女自身が他の部員の犯行だと知っている。

 では何故、それを今まで黙っていたのか。


「どうして噂を払拭しようとしなかったのか、って聞きたいんでしょ? 脅しをかけられていたのよ。話せばもう一度彼女に危害を加えると」

「そんな……」

「私自身、下級生に怪我させるなんて本当にやると思ってなかった。だから動揺してその次の大会でミスを連発…… 自分の身も危ういと思って部活を抜けたの」


 見れば、杏梨だけでなく美空の体も震えている。当時は中学生、それも周りに敵しかいない状況に陥っていた、その恐怖は察するに余りある。


「もちろん、何もしなかった訳じゃない。卒業する前に先生と、美羽さんのご両親には話をした……真犯人の連中、ただでは進学できなかったでしょうね」

「……」

「あなたも含めて、お友達は私に文句を言わないよう、彼女から口止めされていたんでしょ?」


 杏梨は、今になって理解する。美羽が深く詮索することを止めたのは、真実を知られればまた自分が襲われるかも知れない状況にあったから。

 美空が犯人だという噂が広まったのは、彼女を孤立させ本当の実行犯をうやむやにするため。


「……」

「これが真実よ。実際、美羽さんと私は今もまだ交流がある。お互い、あんなことがあったから公式に陸上をやる気はもう無いけど……それでも私は、好きでやっていたことを忘れたくない」


 歯ぎしりをする美空の姿からは、強い悔恨と苦悩が見て取れた。彼女もまた、理不尽を背負わされてしまったのだ。

 その発言からするに、何の対策も取れなかった訳ではないだろう。しかし、中学校を卒業するまでに二人が背負ったものは余りにも大きすぎる。


「……なんだぁ……」


 ふっと力が抜け、杏梨が膝に手を置く。言いようのない感情が、心の中で混ざったり離れたりを繰り返している。視界が徐々に滲んでいくのは汗か涙か。


「アタシ、なんにも……できなかった」

「……そんなことないよ」


 舞華が杏梨に寄り添い、その肩を強く抱く。


「傷ついた時に寄り添ってあげて、心を晴らすためにここまで来てるもん。立派な人じゃないと、こんなことできないよ」

「姫……」

「……あなた、いつもいい友達に囲まれてるのね」


 向けられた笑顔には羨望、あるいは悔恨のような複雑さが見える。まるで期待を託すような表情を

、美空は早々に振り向き隠した。


「美羽さんには私から話しておくわ。文化祭にでも来てもらえるといいけど」

「……水野先輩、ありがとうございました」


 頭を下げ、寮へと向かう。今にも涙が溢れそうな杏梨を支えるように舞華は歩いた。

 再び一人になったグラウンドの中心。寮の方角から聞こえる声は、まるでどこか別世界のように遠く感じる。

 眩しすぎる照明の光を受けながら、美空は静かに呟いた。


「ふふ、おかしな子……ありがとうはこっちの台詞なのに」



「では、杏梨さんは無事に」

「うん。良かったって言って部屋まで戻った」

「……なんと言うか、さすがね」


 夜は深まる。一点の曇りもない空に浮かぶ月の明かりは、さながらスポットライトの如く。

 悪魔の気配はグラウンドから。舞華たちの気持ちに揺らぎはない。


「もう悩まくていいように……絶対勝つよ」


 固い決意の言葉と共に、舞華は拳を握り締めた。

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