第十一話 その瞳に映るのは誰
六月下旬。使い魔の発生は勢いを留めることなく、舞華達は徐々に体力を摩耗する日々を送っていた。ロザリオ曰く、太陽が隠れる日は弱い悪魔でも活動しやすくなるようで、こと日本においては梅雨と冬場が特に辛くなるだろうと言っていた。
三日か四日おきに使い魔との戦闘が挟まり、その度に特性を見抜き倒しきることの繰り返しで精神も疲弊。授業への集中力も次第に欠けてくる。
そんな中、体育の授業でのことだった。
「っで!」
「うわぁ!」
「姫!?」
精神の限界で集中力の切れた舞華が、百メートル走の試走中に派手に転んだ。
戦闘を続けてきた故の本能か傷が深くならないよう体が自然に動いたものの、右膝を擦りむいてしまった。
舞華としては、悪魔よりよっぽどマシ、といったところで気に留めることでも無かったのだが、隣を走っていた芽衣と杏梨が大騒ぎしたことと優乃に促されたことで保健室に行くことになった。
「いやー、面目ない……」
「仕方のないことです。あれだけ人の目についていると、魔法で治す訳にもいきませんから」
優乃の付き添いで保健室まで行き、扉を叩く。
「はーい」
「失礼しま……あれ」
保健室にいたのは、一人の生徒。他に人は見当たらず、いまいち入ってもいいのかわかりづらい。
「えーと……」
「ああ、
「失礼しますが、どちら様でしょうか」
どう返答しようと迷った舞華に代わり、優乃が口を挟む。目の前に座る生徒は二年生であることを示す水色のリボンを着けており、柔らかく浮かせたライトブラウンの髪と、眼鏡越しの優しい瞳が目に付いた。
「私、二年生の
安美と名乗った生徒は舞華の膝を見て事情を察したのか、手招きで舞華を呼ぶ。促されるがまま前に出ると、手早く膝を洗って消毒してくれた。
処置を受けながら、舞華は安美の白く細い腕が気になった。凝視するのも悪いなと顔を上げ、おもむろに口を開く。
「檜枝先輩…… 授業って大丈夫なんですか?」
「うん。放課後とか休日とか、体調がいいときに補講を入れてもらってるの」
「大変そうですね」
「大丈夫だよ。抜けるのは毎二時間くらいだし」
懸命な顔つきで手当てを進めながら、安美は質問にゆっくりと答えていく。消毒が済んだところで大きめの絆創膏を貼ってもらい、手当が終わった。
手当の跡は目を見張るほど綺麗で、手つきもあって非常に慣れたものだとわかる。
「すごーい、上手なんですね」
「中学生の頃からやってるうちに上手くなっちゃって」
「随分長い間やっているんですね、道理で」
優乃の言葉を受けてか、安美の表情に影が落ちる。舞華も優乃も気に障るようなことを言ったとは思えず、顔を見合わせる。
二秒ほどの間を置いて、呟くような声で安美はこぼした。
「……私が人にやってあげられること、他にないから」
―――瞬間、背筋が凍りつく感覚に襲われる。細々とした戦いの中で久しく忘れていたような、人に憑いた悪魔の気配。
安美と視線が合っている訳でもないのに、禍々しい気が漏れ出している。
『これは……』
『わかってる』
最低限の念話で意思疎通を済ませると、舞華は身を乗り出して安美の手を強引に掴んだ。
「檜枝先輩っ!」
「わっ、えっ?」
「一期一会! せっかくこうして手当てしてもらったんだし、ご飯作りますよ!!」
「……?」
意味がわからない。律軌だったらそう言うだろうな、と優乃は内心で溜め息をついた。舞華が何をしたいのかは聞いた話からもわかっているが、方法があまりにも強引すぎる。いくら姫音舞華が度を越したお人好しであっても、安美はそれを知らない初対面の人間だ。
しかし、ここで安美と食事する機会を逃すのは舞華の言う「悩みと向き合う」主義に反する。心に影を落としたままでは、二度三度と悪魔に目をつけられる危険性もあるため、ここは後押しが必要だ。
「言葉足らずですよ。恩返しがしたいんでしょう?」
「え、あ、うん、じゃなくて、はい!」
「そんな、大したことはしてないし」
「聞いてあげてください。この子、どうしようもなくお人好しなんで」
舞華の後ろに立ち、肩に手を乗せる。二人のやり取りと優乃の言葉を受けてか、安美の表情が少し和らいだ。
「そっか……うん、じゃあ、お邪魔しようかな」
「やった! 何か食べたいものありますか? あと嫌いなものとか!」
「え、いやそんな……なんでもいいよ」
「はいはいまいちゃん、授業に戻りますよー」
話が終わらなくなっては困ると、優乃は舞華の頭を軽く叩く。舞華は慌てて自分の名前と寮の部屋を伝えると、急ぎ足で保健室を後にした。
一人保健室に残された安美は、嵐が過ぎ去ったかのように呆けたあと、思わず笑った。
「姫音、舞華ちゃんか……ふふっ、変わった子だな」
「あらどうしたの檜枝さん、誰か来た?」
「館野先生、おかえりなさい。今、一年生の子が来てですね……」
☆
『……ってわけなんだけど』
『大体のことは把握したわ。その先輩についてはあなたに任せる』
『いつもすまないね、舞華』
『心配ですし私も同行するつもりです』
放課後。律軌とロザリオに大方の事情を話した二人はスーパーへ向かう。
日の傾き始める時刻、スーパーの隣にあるカフェには生徒の姿が多く見える。そのほとんどが三年生で、入試に向けた勉強やストレス発散の女子会など様々な理由で集まるそうだ。
スーパーに入店すると、慣れ始めたのか一年生が惣菜争奪戦に参加する様子も見られた。
「さ、何作ろうか」
「……随分楽観的なんですね」
「え?」
楽しみでたまらないといった表情でカートを押す舞華に対して、優乃が疑問をぶつける。
「いえ、怒っている訳ではないんですよ。でも檜枝先輩は悪魔に取り憑かれています。私達が少し間違うだけでも命が危ない……それに、誰もが素直に自分の悩みを打ち明けてくれるとは」
「わかるから」
笑顔を崩さないまま、舞華は優乃の言葉を遮る。あまりにも漠然とした言葉を出され、目を丸くする優乃に向き合って舞華は言葉を続けた。
「檜枝先輩には、寄り添う人が必要なんだと思う。誰にも言いたくない心を、踏み込んででも暴ける人が」
「……どうしてそう言い切れるんです」
目を細めて問い返す。わかったような口ぶり、だとしても過ぎた言い方だ。舞華が安美と出会ったのは今日が初めてのことであり、その心中を推し量る術を持ち合わせてはいない。
それでも理解できると言い切れるその訳が、優乃にはまったくわからなかった。
「……ゆのちゃん、人の役に立ちたいって思ったことある?」
「え……まあ……それなりには」
「あのね、漠然と「誰かの役に立ちたい」って思ってる人って」
笑顔が消え、足が止まる。焦点の合わない、どこか虚ろな視線を手元に向けながら舞華は呟いた。
「満たされることはないんだよ」
「っ」
「……誰だって、生きてるだけで偉いんだ。人の迷惑にならずに普通に生きてるだけで、他の誰かの幸せになるんだ。けど……基準を他人に置いちゃったら、答えはほとんど帰ってこない」
見たことのない表情だった。姫音舞華という人間の深くに触れたことがないにせよ、予想外の反応を見せてきたことに優乃は狼狽した。
そして同時に、舞華の言葉が確かな根拠から来るものだと理解した。優乃としてもこれ以上踏み込むつもりはないが、その根底に―――「経験」があることは想像に難くない。
これ以上この話を続けるわけにはいかない。危機感を覚えた優乃はどうにか声をかけようとする。
「……まいちゃん、その」
「うん、この話はここでおしまい。もちろん根拠は薄いし、踏み込みすぎれば怒られるかもしれない。その時はゆのちゃん、お願いね」
「お人好しが過ぎます……まったくもう」
閑話休題として、食材を探す。六月にもなると、頻繁に買い物をする舞華は店員に顔と名前を覚えられており、仲良く会話できるほどになっていた。
「舞華ちゃん。今日は何かお探し?」
「大畑さん、何か旬で美味しい野菜あります? メインにしたいんですけど」
「そうねー……ゴーヤとかどう? この季節結構美味しくてね」
三十代半ばだろうか、女性の店員と話し込む舞華。優乃はその様子を見つつも、会話に入り込めそうにないと終わりを待つことにした。
暫くして、話を終えた舞華が戻ってくる。
「いやー、話し込んじゃった」
「……まいちゃん、いいお嫁さんになれそうですね」
「え、急にどしたの?」
☆
「で、今日は」
「はい、今日はですねー、旬の野菜を使ったゴーヤチャンプルを作ります!」
寮に戻りエプロンを着けた二人は、料理番組のようなやり取りをしながら食材を広げていく。
まずは下ごしらえ。豆腐の水分を抜きながらゴーヤのワタをとって行く。ゴーヤは切った後で数分間水にさらし、次に豚バラ肉を一口大に切る。そのあとはもやし、ししとうなどと一緒に炒め、豚肉とゴーヤを順に追加して少し炒めてから味付け。火が通ったことを確認したら、豆腐を切り分けて投入しつつ溶き卵を用意し、入れていく。あとは食材が混ざり味が染み込んだタイミングで火を止め、暫く待てば完成。
出来上がって少ししたタイミングで、部屋の扉がノックされる。
「はーい」
「あ、檜枝です」
「待ってましたー! ささ、どうぞ上がって上がってー!」
安美は部屋に入ってすぐに、部屋に染み付いた様々な匂いに気が付いた。頻繁に料理をするのだろう、キッチンの方から漂ってくる匂いは今日の夕飯だろうかと思考が巡る。
テーブルに座ると、程なくしてゴーヤチャンプルと白米が運ばれてきた。一目見ただけでも出来が良いのがわかり、非常に食欲をそそる。
「すごいね」
「いえいえ、これくらい」
「お口に合うといいんですが」
促されるままに、いただきますと言って一口食べる。すると、よく染み込んだ味が口いっぱいに広がった。苦味や辛さが飛び出ていることもなく、非常に食べやすく箸が進む。
感想を言うことも忘れ、目を丸めたまま食べ進める。自分に暖かい視線が向けられていることに気付いたのは少し後だった。
「あっ、えっと、ごめんなさい、これすごく美味しくて」
「んふふふふ~、そう言ってもらえると嬉しいです」
「がんばって作ったかいがありますね」
二人の笑顔に促されるように食事を続け、気付けば普段よりも早く食べきってしまった。自分の手や口の動きもさることながら、舞華の料理の腕に驚かされる。
一方で、舞華と優乃も安心を覚えていた。予想以上の好感を得られたため、話に入りやすい。
「ごちそうさま。すごく料理上手だね、びっくりしちゃった」
「えへへ~」
「まいちゃん」
優乃に肘でつつかれ、舞華は呼吸を整えてから語調を変える。
「……檜枝先輩、ちょっといいですか?」
「え……何かな」
「今回ご飯に誘ったのって、実は気になったことがあったからなんです」
安美の表情が強張る。それが不明瞭―――未知から来る恐怖であることは想像に難くない。
それでも、自分がやらなくてはならないことだ。舞華は言葉を続ける。
「先輩……負い目を感じてるんじゃないですか?」
「負い目って……どういうこと?」
「ほとんど憶測でこんなこと言うのは失礼だってわかってます。でも言わせてください。先輩、自分が人から助けられてることを負い目に感じて、人の役に立たなきゃって……そう思ってませんか?」
強く息を吸い込むような音と共に、安美の表情が張り詰める。焦っているのか、驚いたのか……呼吸にすら戸惑っているのは明らかだ。
心が痛む。自分としては善意でも、他人の弱さに付け込むような言葉を吐くのは辛い。
「なんで、そんなこと」
「……檜枝先輩。他人のためを思って生きられる人は立派です。例え裏目に出るようなことがあっても、その精神は尊重されるべきものだと私は思ってます」
「……?」
言われている意味がわからない。そう顔に出ている。
「でも、そのために自分を卑下しないでください。犠牲にしないでください」
「……そっか、そこまで……」
「蝋燭は身を減らして人を照らす。焦って自分を削るのは、誰よりも先輩が危ないんです」
自嘲気味に笑う安美だが、直後に舞華が言った言葉の意味がわからなかったようでまた疑問の表情を浮かべる。
見かねた優乃が少し口を挟んだ。
「蝋燭は灯りを提供する代わりに自分の体をすり減らすことから、自分を犠牲にして他人に尽くすことの例えです。先輩のそんな様子を、まいちゃんは放っておけなかったんですよ」
「うん、うん。ごめんね、心配かけさせちゃって」
「そうじゃなくて。檜枝先輩は凄く立派です。だから、無理に人の役に立とうとするんじゃなくて、もっと人に甘えてください」
予想外の言葉だったのか、安美は上体を少し引くほどに驚いた。いける、そう感じて舞華は身を乗り出す。
ここで味方だと示さなくてはいけない。無理をしている姿を見たくない。その気持ちを乗せて、精一杯の言葉を紡ぎ出す。
「体が強くないから、人のお世話になることが多くて、申し訳なく思っちゃうんですよね。でも、でも……だからって人より強くあろうとしないでください。それじゃ、いつか壊れちゃう」
「舞華ちゃん……」
「誰にも弱さを見せない人は、いつか潰れて壊れます。だから、まずは自分のためを考えて、ちゃんと人に甘えてください」
舞華の言葉に、安美はしきりに頷きながらにわかに涙を流している。今まで同じようなことを言われた経験があっても、ここまで親身であると明確に伝えたのは舞華が初めてだった。気にしないで、いつでも頼ってと言われることはあったが、それすら負い目に感じていた安美としては大きな衝撃なのだ。
今日出会ったばかりの後輩が、自分のためにわざわざ夕飯を作ってまで話す場を用意してくれた。そのことに溢れるような感謝と喜びが止まらない。
「ありがとう……ありがとう……!」
「私じゃなくて、普段支えてくれる人達に言ってください。きっと、先輩のことをわかってくれる人がいますから」
「うん……! うん……!」
涙ながらに感謝する安美を見て、優乃は驚いていた。人の心をいとも容易く開いてしまう、そんな力が舞華にはある。
優乃からすれば、人の心など他者が簡単に理解できるものではなく、いたずらに踏み込むべきではない。それを舞華は傷つけることなく、傷つくことなく開いてみせた。
―――ああ、この子は、本当に「特別」なんだな。
落ち込むでもなく比べるでもなく、素直にそう感じる。躊躇はあれど、それを表に出さず話せるというのは希少だろう。
「……わかってくれて良かった。いきなりこんな話してすみません」
「ううん、いいの。嬉しい。本当にありがとう」
舞華と優乃に深々と礼をして、安美は自分の部屋へと帰っていった。
部屋を出ていく姿を見送ってから、舞華は大きく息をついて座り込む。
「はぁ~……良かったあ……」
「お疲れ様です」
「うん。檜枝先輩、納得してくれてほんとに良かった」
「よく頑張りましたね」
「……やっぱり子供扱い」
「してませんよ?」
しかし、安美の心の暗雲が晴れたとはいえそれが全ての解決となる訳ではない。悪魔を倒せなければ今の努力は水泡に帰し安美は生贄となってしまう。
勝たなければいけない、どうしても。決意を新たに、舞華と優乃は向き直った。
「あとは、今夜」
「ええ、悪魔を倒せば解決ですね」
「絶対助けるよ」
☆
夜の帳が落ちる。月が昇り、人ならざるものの時間が始まる。
舞華は驚く程自然に目を覚ました。呼吸は平静、気分も落ち着いている。問題ない。
部屋を出て、優乃と律軌に合流する。どこからか雨の匂いが抜けて、風が頬を撫でた。
「準備はよさそうね」
「ええ、コンディションはばっちりです」
「行くよ、二人共」
気配を追って走り出す三人―――を、寮の廊下から見つめる影があった。
「あれが魔法少女……天使の力の担い手、ね」
―――驕るなよ、あれらは一度として贄も自らも殺していない。
「お手並み拝見といきましょうか」
―――間違っても気取られるなよ。
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