第7話虚仮虚仮しい日々 大越
俺は
なんてことはない。ちゃんと母親の股から生まれた、なんの変哲もない人間だ。
けれど、この二十一年間、俺は虚仮にされ続けてきた。ここでの「虚仮」とは、「馬鹿」という意味だ。
十歳頃までは、多少の運動音痴を馬鹿にされることはあっても、まだまだ平穏だったと思う。けれど小学四年生になった頃、クラスのリーダー格のグループに突然目をつけられ以降、俺のいじめられっ子人生は幕を開けた。
途中で何度死のうかと思ったかしれない数々の侮辱を、心を殺すことでなんとか凌いだ俺は、本来の意味での「虚仮」になっていた。
ちなみに親もいわゆる毒親で、俺がどれだけいじめられていようが、不登校も転校も許さなかった。
その上親は、特に母親は、俺よりも兄の方を可愛がった。
兄は、俺から見ても、そして他人から見ても、どうしようもない馬鹿でクズだった。
成績も内申もいつだって最低ライン。母親はしょっちゅう学校から呼び出しを食らっていたし、俺のいじめの原因も、兄にあったのかもしれない。
ただ、それでも母親は兄を愛した。いや、兄を殺そうとした。あの甘やかし方は、きっとそうに違いない。
母は恨んでいた。兄を、俺を、なにより父を。
それに気がついた俺は、周囲の大人たちの協力を素直に受け取って、東京へと避難した。特にアテがあったわけではないが、大きな街には色んな人が集まっていて、その分支援が受けやすい傾向がある。そして、その支援の一部である学費の援助が受けられる大学に、俺は死物狂いで合格し、リュックサック一つを背負って北海道を飛び出した。三年前の話だ。
カラン、とドアベルが鳴る。
俺はこの音が苦手だ。人の注目を集めてしまうから。出来れば誰の目にもつかずに、こっそりと席に着いていたい。
「いらっしゃい」
そんな俺の願望は、毎回毎回、この美人の店員に打ち砕かれる。
モデルのような顔立ちに体型、猫のような真ん丸な目は、何度見ても慣れない。等身からして、同じ人間とは思えない。
「大越か。なんにする?」
紫陽花という、花の名で呼ばれる店員は、無表情のまま俺に近付き、注文を訊く。
「えと……、スプリッツァー……」
「好きだな。白、新しいの入ったから、それでいい?」
「う、うん」
通い始めて二年ほどになるが、いつまで経っても最初の注文には手間取ってしまう。
それでも紫陽花は、最初からそういう事には気にもとめなかった。ただ淡々と注文を訊いて、あとは放っておいてくれる。俺がこの「バー榊」に通い続けられる理由が、そこにある。
店の奥では、何人かの客が集まって、楽しそうに酒を飲んでいた。俺には縁のない、本来あるべき客の姿。
カラン、とドアベルが、俺のすぐ後ろで鳴った。それと同時に聞こえた声が、俺の心臓を数センチばかり飛び上がらせる。
「こんばんは、姐さん、紫陽花」
優しくて爽やかな声。その声の持ち主は、律儀に店長と店員に挨拶をして
「あぁ、大越くん。こんばんは」
と俺にも、朗らかに挨拶をしてくれた。
「こ、こんばんは」
俺は鞄から取り出していたノートパソコンを落とさないように注意しながら、なんとか声を絞り出す。
笑顔の持ち主、澤谷さんは、俺がこの「バー榊」に通い続ける、もう一つの理由だ。
澤谷さんは、「今日も課題?」と俺の吃りなど気にかけずに隣に座る。俺は精一杯、正常心を装って、「はい」と返事をする
澤谷さんの、シャンプーなのか柔軟仕上げ剤なのか、それとも香水か、何なのかわからない香りが、俺の鼻孔を掠める。その匂いにクラクラする。本当に、なんの匂いだろう。
俺は、澤谷さんが好きだ。人としてという意味でも、恋……という意味でも。
ここはゲイバーなので、澤谷さんという男性に、男である俺が好意を抱くことは、この店の中では、異常でもなんでも無い。それでも、この恋はなんの意味も持たない。何故なら……
「おまたせ、大越。で、澤谷はなんにする?」
「うーん……、バーボンにしようかな」
「そんなんでいいの?テキーラのショットいけば?」
「無茶言わないでよ」
澤谷さんは、俺には見せないとびきりの笑顔で、紫陽花との会話を楽しんでいる。その様子は、初めてこの二人を見た人でも、あぁこの人はこの店員が好きなんだなと分かるくらいに、好きのオーラで溢れている。
そんなオーラを隣で浴びせられて、心の折れない人間が存在するのだろうか。
俺は酒を受け取ると、隣を無視してパソコンを開き、課題に取り組むことにした。
俺は今、大学でプログラミングの講義を受けている。今回の課題はグループ課題なので、定期的にグループチャットを確認しておかないといけない。
店のWi-Fiを使わせてもらって、バイト中に進んでいた内容に目を通す。バグチェックの結果と修正案が流れていた。その内容を頭に入れて、プログラムを再構築する。
そうしている間は、何も聞こえないし、感じない。心を殺し続けた結果、俺はこの集中力を手に入れた。家でも学校でも、そして今も、この力だけが、俺を守ってくれた。
「お疲れ様です」
作業が一段落つき、パソコンの画面から目を離すと、声が聴こえた。その声の方へ顔を上げると、そこにはふわふわした癖っ毛に丸メガネの、大きなアルバイト店員、
「……っ、お、うん……」
突然の顔にびっくりした俺をよそに、九は烏龍茶を俺に差し出す。
「もう二杯以上飲んでいるんで、こっからはソフトドリンクです」
そう、俺は集中力を手に入れたのは良いが、その間に誰かに話しかけられても、何かを飲み食いしても、全く覚えていないのだ。
それで以前、無意識に酒のおかわりをし続けてしまった結果、大失態を犯してしまった。その経験から、三杯目からはソフトドリンクを出すようにと、紫陽花に決められている。
「すごい集中力ですよね~。何を作っているんです?」
このアルバイト店員は、そのふわふわした頭と同様、性格も喋り方もふわふわしている。
「えと……、課題だから、秘密」
俺は面倒くさくなってそう返すと、「ですよね」と素直に聞き入れた。しかし、九は何処へも行かない。なんの用事だろう。気不味すぎる。
「大越さんって、レポートを一発で通せたりします?」
数十秒の間をおいて、何かを探るように九は質問をよこしてきた。あぁ、そういうことか。面倒くさい。
「……通せるけど、お前とは学科も学校も違うから……。その……」
「いや!わかってます!でも、見てもらうだけでも出来ませんか?」
「えぇ……」
俺はこれでもかと、あからさまに嫌だというオーラを出すものの、九も折れない。そんなの、友達や先輩に見てもらえ。お前ならいるだろう。俺と違って、まともなお前なら……。
「どうしたの?二人とも」
いつの間にか、俺の横の席から離れていた澤谷さんが戻ってくる。最悪なタイミングだ。予想通り、九は澤谷さんに自分の状況を訴えている。レポートがなかなか通らないこと、駄目出しをされ続けるのが辛いこと、次で通したいこと。
「そっか、俺が見てあげてもいいけど……」
澤谷さんは一応協力的な姿勢を見せるものの、見るとは言わない。そりゃあそうだ。社会人に復帰したばかりで忙しいのに、恋人との時間を削ってまで、見てやる馬鹿が何処にいる。
「……俺で、良ければ」
俺は控えめに手を挙げた。その手を、九が掴む。いつぶりかも分からない人肌に、俺は鳥肌が立った。
「ありがとうございます、大越さん!あの、早速ですけど、明日見てもらえますか?!」
本当に早速すぎる。けれど、こういうのはさっさと終わらした方がいい。
「……うん」
「おい
小さな俺の返事をかき消すように、紫陽花が割り込んできた。
「お前な、客に気安く頼み事すんじゃねぇって、毎回言ってんだろ」
「で、でも……」
「お前は金をもらいながら働いてんだろ?なにか頼むなら、それ相応の対価を払えよ」
「あっ、そうだよね……」
何にしよ……と悩み始める九に、まずは皿洗いだろ!と蹴りを入れながら、紫陽花は奥へと引っ込ませた。
「ったく、もっと躾けないとな。大越、今日の分はいいよ」
アイツの給料から引いとく。
そう言われて、俺は一瞬迷ったけれど、アイツの給料から引かれるのならいいやと頷いた。
「レポートを見るものここを使え。適当でいいよ。自分でやんなきゃいけない事なんだから」
その紫陽花の言葉にも、俺は頷いた。声で返事をするより、ずっと楽だから。
「ごめんね、力になれなくて。大学のレポートなんて、もう覚えてなくて……」
澤谷さんは言い訳とともに、心底申し訳無さそうな顔をする。別の人にこの流れでこんな顔をされたらキレそうなところだが、澤谷さん相手だと、俺はどうしようもなくなってしまう。絶対に手に入らない高嶺の花。だからこそ、なんでも許してしまう。
俺は再び、カランとドアベルを鳴らして店を出た。明日もこのベルを鳴らすのだろう。
けれどこの店なら、紫陽花もいるのだろうし、ファミレスで二人っきりよりかは、マシに思える。
はぁ……と溜め息をついて空を見上げる。星なんて殆ど見えない。興味もないから、別にいいけど。
ブブッとスマホが振動した。一緒に課題をしているグループの一人からだ。
俺はもう一度、溜き息をつく。何処へ居ても、人からは逃れられない。
俺はいつだって空っぽだ。誰と話していても、満たされない。きっと穴が空いているんだ。頭に、心に、人生に。
何棟もの背の高いビルが目に入る。ふらりと足を向けそうになる度に、あの香りが頭の中に蘇る。
本当に、なんの匂いだろう。澤谷さんの、あの匂い。
俺は息を止めた。そうして澤谷さんの匂いを、肺に、胸に、閉じ込めた。
空っぽな俺の肺でも、彼の匂いは閉じ込めてくれる。だから俺は、恋をしているのだろうと思う。
俺はビルを横目に、ボロアパートへ帰っていく。明日もまた学校へ行って、せっかくのバイトの休みを九のために潰して、もしかしたら会えるかもしれない、片思いの相手を待ち焦がれて……。
俺にお似合いの、空っぽな日々が、待っている。
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