第3話恋する人の面白さ 内山と嶋倉

「よし」

 俺は準備運動を終えると、軽く何度かジャンプをして、久しぶりに履くランニングシューズの感触を確かめた。

 午前五時。起きるには早すぎる時間だが、ランニングをするにはもってこいの時間。すでに何人かのランナーが、チラホラと走り始めている。

「どこを走ろうかな」

 ここの所、仕事が忙しすぎて、全く体を動かせていなかった。

 サッカー部で毎朝、夕、そして夜まで走り回ってた日々からは、想像も出来ない毎日が続いていた俺の身体は、いい加減、暴れたくてうずうずしている。

 なので今朝は、この一ヶ月頑張り抜いた身体に、存分にご褒美をあげようと思う。となれば……、

「あのルートで行くか」

 俺は少しだけ口角を上げると、目的地を目指して走り始めた。


 二ヶ月前。俺は初めて嶋倉さんの自宅に上がらせてもらった。

 しかしそれは、これまでの焦れったい関係に終止符を打つためではなく、ただ飲みすぎて千鳥足になった嶋倉さんを送っただけだった。

 とはいえ俺も相当飲んでいて、帰るのも面倒だったのでそのまま勝手に泊まったのだが、その翌日の嶋倉さんの反応は面白かった。いや、面白半分、傷つき半分、だったかな。なにせ驚きのあまりに、ベッドから落っことされたのだから。

(最初に駄賃を貰っておいてよかった)

 俺は、重たい身体を運んだ駄賃代わりに、寝入ったあの人にこっそりキスをした。本当に軽い、それでも俺には十分すぎるお駄賃だ。

 しかし、それは彼には言っていない。これ以上警戒されたくなかったから。

 初めて俺の家で宅飲みをして以来、あの人は警戒している。俺に触れられること、迫られること、身体を重ねること。

 正直、断られると思っていなかった。お互いに好き合っていると思っていたから。  それでも俺は、無理、という一言を聞いて、手を引いた。別に無理してまでしたい訳じゃない。俺にだって、そういう気分はあるし、まぁ、酒も入っていたし……。

 ただ、それ以降、嶋倉さんは俺に対してしばらくの間、あからさまに怯えていた。 そんなに無理強いをした覚えもないのだが、目つきが怖いと評判の俺なので、きっと変に睨んでしまったんだろう。

 しかし嶋倉さんは、そのくせ俺には触ってくる。気安い笑顔で、無防備な仕草で、潤んだ瞳で、触ってくる。

 本当に、謎な人である。六つも年上とは思えないうぶさと、時たま見せる大人の表情に、この一年翻弄されっぱなしだ。

 本当に、知れば知るほど、知りたくなる。ハマっていく。厄介な人。


「到着」

 走り始めること四十五分。俺は目的地である嶋倉さんのアパートに到着した。

 まるでストーカーのようだが、別に毎回このコースを走るわけではない。今日みたいに走りまくりたい時には、丁度いい距離なだけ。

 俺は近くの自販機でジュースを買いながら、三階の左端の玄関を見る。

 そこが、彼の部屋。

 別に訪ねる気はない。こうしてクールダウンを兼ねた休憩中に、見るものがないから……


 ドアが開いた。

 誰だろうか。嶋倉さん?朝に弱いあの人が、こんな時間に?

 あの、紫陽花という男だったらどうしてくれよう。あぁでも、あいつに手を出すと嶋倉さんに嫌われてしまうか……。

 そんな一瞬の思考を、出てきた人物が打ち消す。嶋倉さんだ。

 彼は眠い目をこすりながら、階段の方へ向かい、降りてくる。

 俺は時間が止まったように、その緩慢な動きを追う。

 一階に降りた嶋倉さんは、のろのろとゴミステーションの蓋を開け、手に持つゴミを投げ入れた。そうして、あくびをしながら、俺の方へ振り向いて、停止した。

「おはようございます」

 その全ての動きが可笑しくて愛おしくて、俺は満面の笑みで挨拶をした。

「……はよ」

 ようやく俺の挨拶に返事をした嶋倉さんは、え?え?と繰り返しながら、着ているパーカーの袖で口元を覆った。

「内山?なにしてんの?」

「ランニングです」

「こんな所まで走りに来てんの?!」

「楽勝っすよ」

 徐々に目が覚めてきたのか、嶋倉さんはもう一方の手で髪を整えようと必死に動かす。何を恥ずかしがっているのだろう。いまいち分からないけど、思わぬ一面に、俺は嬉しくなってしまう。

「なに、恥ずかしがってるんすか?」

「うるせ」

 どんどん赤くなる彼の顔を、もっと近くで見たいと思っていると、手首の時計がピピピッと鳴った。

「なんの音?」

「あー…帰る時間ですね」

 今日は休みだから、もう少しこのままでいても良いのだけれど、嶋倉さんの服装はどう見ても長話には向いていない。かとって汗まみれでお邪魔するほど、俺も図々しくない。

「じゃ、そろそろ」

 後ろ髪をガンガンに引かれながらも、俺は立ち去ろうとする。嶋倉さんは、おう。と片手をあげて、ひらひらと左右に振った。

「……また、寄ってもいいですか?」

 俺はふと、嶋倉さんに確認を取りたくなった。俺が勝手に周りをうろついていることを、嫌だと思われなくて。

「いいけど……。連絡は寄越せよ」

 俺はランニングコースとして寄ってもいいかと訊いたつもりだったが、嶋倉さんは、あなたの家に行っても良いか、という質問と捉えたらしい。そしてそれに、いい、と言った。

「はい!」

 俺は思わず、大声で返事をしてしまった。長年サッカー部で鍛えてきた威勢のよい返事は、寝起きの嶋倉さんには刺激的すぎたようで、一瞬飛び上がったように見えた。

「うるさ……っ、何時だと思ってんだよ」

「すいません」

 今度は小声でそう返すと、俺は軽く頭を下げて走り出す。


 どんどん、スピードが上がっていく。これじゃあ途中で走れなくなると、頭で分かっていても、身体は止まらない。

 あぁ、めっちゃ楽しい!

 いつ行ってやろう。いつでも良いのかな。何を持っていこう。

 ようやく引っかかった赤信号で、俺は息を整える。太陽が眩しい。世界が綺麗。

 思いもよらず、あの人に会えた。それだけでこんなに嬉しいなんて、完全にヤラれてんな。

 信号が青になる。少し落ち着いた俺は、ペースを戻して走り出す。

 あの人は今、何を考えているだろう。同じように嬉しいと思ってくれてたら、嬉しい。

 朝日を浴びながら、夜を思う。二人で会える時は、だいたい夜だから。

 こんな風に許されていって、いつかあの人にちゃんと触れたい。愛しい愛しい、この気持ちを伝えたい。

 そんな日が、早く来ますように。

 一歩一歩に願いを込めながら、俺は帰路を走る。この足跡を、嶋倉さんが辿ってくれると信じて。

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