第2話きみとさんぽ 紫陽花と澤谷

 今日は早く眠ろう。

 俺は読みかけの本に目を落としながら、咥えていた煙草を灰皿へと置く。

 木曜日。天気は晴れ。しかし、客は殆ど来ないだろう。十年もこの店で働いていれば、こういう勘は嫌でも冴える。

 店長である姐さんは、近所のスナックにヘルプで呼ばれていった。小さな店同士、こういった連携はよくあることだ。アルバイトのいちじくも、大学のレポートだとかで今日は欠勤。よってこの「バー榊」には俺一人だった。

 ページを捲る音と、自分の鼓動の音だけが聞こえる。日々、酔った客の相手をして、帰って寝て、起きてはまた客の相手をして……。たまにはこういう時間も悪くはない。俺は自分の頬が緩んでいるのを感じながら、活字の世界へと飛び立った。


 ──カラン

 ドアベルが鳴る。姐さんが帰ってきたのかと思ったが、気配で違うと分かった。

 澤谷だ。

「こんばんは、紫陽花」

 いつもの愛想の良い声が聞こえる。しかし俺は、目の前の世界から戻ることをしなかった。今、丁度いい所なんだ。相変わらず間の悪い奴め。

 なので俺は、適当に返事をしておく。するとしばらく沈黙があって、澤谷は俺の横の座ってきた。

 分かりやすい奴め。構ってほしいんだな。だが、ちょっと待て。

「だから何してもいいよ」

 俺は再び適当に澤谷へと言葉を投げる。すると、え?という気配が返ってきた。確かに今の日本語はおかしかったか。あぁもう、集中できない。

 溜息を一つ吐いて、読み続けるのを諦めようかと思った時、澤谷の手が俺の髪を撫でた。

 俺はそのまま放っておく。すると案の定、その手は頬に、そして、唇に。

 最後は澤谷の唇と、軽く重なった。

 澤谷は顔を上げると、悪戯を仕掛けた子供の顔をしていた。三十路も超えた男のする顔か?しかし、こいつにしては頑張った方だ。

「やるじゃん」

 俺は反撃に出る。やられっぱなしは性に合わない。

 俺は澤谷の腿に手を置くと、するすると上へと手を這わしていく。

「ちょ、待って。これ以上は……!」

 澤谷はすぐに真っ赤になって、少し仰け反る。つまらない奴め。

「まぁ、勘弁してあげよう。飲み物は好きに飲んでいいよ」

 俺は喉の奥を鳴らすように嘲笑うと、再び本に目を落とした。しかし、視線は澤谷を追う。もう、本に集中なんて出来ない。

 澤谷は、仕方がないといった顔で、カウンター内に入っていく。そしてグラスを二つ、用意する。当たり前のように俺の分も準備しようとする恋人に、俺は少しだけ微笑ましい気持ちになった。

「姐さんが帰ってきたら、少し出掛けようか」

 なんの気無しに溢れた言葉に、澤谷は酒も飲んでいないのに顔を赤くした。むっつりな奴め。

「……どこに?」

「えっち」

「なにも言ってない……!」

 夜の散歩だよ、と笑いながら俺は答える。そう、夜の散歩。お前と二人きりで。



 カラン、とベルが鳴る。姐さんが帰ってきた。

 俺は姐さんに事情を伝えて、早めに上がらせてもらう。そして、お姫様を誘うように、澤谷へと手を差し出す。

 外は相変わらず賑やかだった。しかしまぁ、都会も都会、喧騒のど真ん中だ。

 俺は生まれ育った島の静けさを思い出しながら、なるべく暗い方へと歩き出す。夜の散歩なのだから、暗くなくては。

 ふいに、澤谷から視線を感じた。その視線の隙間から、手が出てくる。

 その手は、俺の頭を、頬を、そして唇にふれる。

 俺は、キスをしやすいように顔を上げる。澤谷は少しかがんで、俺の唇を舐めた。

 あぁ、たまらない。このどスケベめ。

 俺達は更に暗い方へと歩いていく。夜の散歩は始まったばかり。

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