東京・新宿・紫陽花の花
こなしあかや
第1話よるのさんぽ 澤谷と紫陽花
カラン、というドアベルともに、いつも聞こえてくる喧騒がなかった。
その代わりに俺を出迎えてくれたのは、消えかかった煙草の香りと、小さく揺れる黒い頭だった。
「こんばんは、紫陽花」
この店の店員に挨拶をすると、おう、と素っ気ない返事が帰ってきた。よく見ると、手元には文庫本がある。読書に熱中しているようだ。
「珍しいね、誰もいないの?」
店内を見回しても、人っ子一人居ない。店長も、アルバイトくんも、お客も、誰も居ない。
「うん、姐さんはそのうち帰ってくるけど」
今日は開店休業中。本から視線を外すこと無く、紫陽花はそう呟いた。
(紫陽花と二人きりか……)
せっかく恋人と二人きりだというのに、相手はこちらを見ようともしない。
俺は邪魔をしないように、それでも少しは注目してもらいたくて、あえて横に座る。
「だから何してもいいよ」
紫陽花はまた呟く。恐らく俺に言っているのだろう。しかし、何をしても良い、とはどういう意味だろう。飲み物を自分で用意しろということなのだろうか。
その時、俺の中に一つのアイデアが浮かんだ。子供っぽい、三十を超えた男のすることではないだろうけど、それでも今は、誰も居ないのだ。
「紫陽花」
彼の黒い髪に触れる。そして白い頬へ、そして、紅い唇へ。
ちょっとごめん、と心で謝りながら、彼にキスを一つ贈る。他に人がいれば、死んでも出来ないことだから。
紫陽花は、驚いただろうか。そう期待して顔を離すと、そこにあった大きな瞳は一瞬だけ見開いて、そしてすぐに細められた。
「やるじゃん」
そう言うと、紫陽花は俺の腿に手を置く。そうしてどんどん、体の中心へ這うように滑らせてくる。
「ちょ、待って。これ以上は……!」
俺が慌てた声を出すと、紫陽花はくくく、と喉の奥で嘲笑った。
「まぁ、勘弁してあげよう。飲み物は好きに飲んでいいよ」
そうしてまた、本へと目を落とす。俺は仕方なく、飲み物を取りにカウンターの中に入る。
「姐さんが帰ってきたら、少し出掛けようか」
どうせ今日は客の入り悪そうだし。その紫陽花の言葉に、まだなにも飲んではいないのに熱が上がる。
「……どこに?」
「えっち」
「なにも言ってない……!」
夜の散歩だよ。
紫陽花はそう言うと、俺の顔を見てにんまりと笑う。
夜の散歩か……。
それも良いかもしれない、と俺は思った。出来れば、誰も居ない路地裏を歩きたい。今日は別れるまでずっと、二人きりの世界に居たい。
紫陽花もそう思ってくれたのだろうか。だったら嬉しい。気まぐれな猫のような彼と心が通う瞬間があるのならば、俺は安心して眠ることが出来る。
カラン、とベルが鳴る。姐さんが帰ってきた。
「じゃ、行こうか」
姐さんに一言断りを得て、紫陽花は俺に手を差し出す。
真っ暗とはいかない都会の街に、散歩へ出かける。星も月も、殆ど見えない。
俺達は、暗い方へと歩いていった。紫陽花がいれば、人も光も月もいらないのだし。
俺は再び、黒い頭に目を落とす。そうして白い肌に、紅い唇に。
その唇が弧を描く。俺は少しだけ屈んで、その唇に舌を這わせる。
俺達は更に暗い方へと歩いていく。夜の散歩は始まったばかり。
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