星たちの距離

 誰にでも、一つや二つ必ずあるだろう。

 初めて知ったときの驚きは狂おしいほどの熱狂をもたらしたのに、興奮を繰り返し他人に語るほど、手垢のついた、使い古された、ありふれた知識や感動になり、常識や知識のひとつになることが。しかしそれでも、そのときの心の動く様は、たとえ他人と似通ったものでも、万が一、完全に一致するものがあるとしても、その人それぞれの、それはその人だけのものである。そういうものは、きっとある。

 そうでなければ、自分は自分でないし、私として生きている意味も九分九厘なくなる。

 地上から 眺める見上げる人たちは、星たちに名前をつけたり、間に線をひっぱり、物語を描いたが、それらは、実際は、ぜんぜんまったくお互い遠い存在だった。

 たとえば、オリオン座で。代表的な星の二つの星は、二百光年以上地球からの距離が違う。オリオンの右肩の星ベテルギウスは約642光年、左の膝のリゲルは約862光年。

 ちなみに太陽までは、1億4960万km、すなわち、0.00001581光年。まったくもって遠すぎる、そしてバラバラだ。

 スーパーの買い物帰り、志信しのぶはぶつぶつとそんな話をした。あきらはいまとっぷりと陽がくれた藍色の西の空をふり返って仰ぎみた。

「太陽は、ご近所さん。手を伸ばしたら届きそう」

「そうだけど、届かないよ」

「みんながみんなと、同じ近い距離というわけには、いかないわな」

 そんなこと、わかってる。そうじゃなくて、その事実を知ったときの、それぞれの星はお互いはめちゃくちゃ遠いことを知ったときの、驚きだ。説明をするほうは慣れたもので、あっさりしたものだが。それを聞いた側が、どれくらい衝撃をうけるのかなど、考えもしないのだろう。

「仲よく近くにいるのに、ずっと離ればなれの場所にいたことが、大ショック?」

「そうだろう、ふつう、そうだろう、誰だって。そうじゃない?」

「いきなりだとびっくりするかもね。いつのまにか、少しずつ、玉虫色に、なんとなく知ってたから、そんな衝撃は体験しなかったわ」

「いつのまに、なんとなく?」

 志信はうたぐり深い表情をうかべる。

「そう。だって、一回聞いてわかる話ばかりじゃないからさあ。何回もそういう話を断片的ににきくうちに、ああ、そうなのかな、そうかもしれないな、いや実際そうなのよ、なんてふうにだんだん曖昧に段階的にわかったような気になっていく」

 ずいぶん曖昧な言い回しだが、志信は目を細めてそのようなグラデーションを想像してみた。

「そんな理解の仕方もあるのか……」

 知ったときの驚きと孤独。同時にわきあがる、誰かと共有しようとする欲求。

 ねえねえ、こんな話を知ったんだ、すごいことだと思わないか? 驚きだよね、感動だよね。

 ああよかったね、完全にはわからないけど、君にはとてもいい話だったんだね。うれしそうでとってもよかった。

 幸いにして、身内も友人たちも、やさしい応対をしてくれた。自分もなるべくそういうふうに応えていたつもりだ。つもりなので実際にできているかわからない。

 年を経るにつれて、知るべきことが無限にあり、いちいち驚いていてはもたない、時間が足らないこともわかってきてしまう。そうなればそれはお互いさまだ。とっておきの話だけ、できれば話したら盛り上がる、楽しい話だけを他人には話すようになる。

 それでも結局は、同じ理解や感動には辿り着かない。まったくないことはないけれど、多分。

 かといって話すことはやめられない。

 理解はできないかもしれない、聞くだけで終わるかもしれない。それでも、話をすれば、言葉にするだけでも世界は変わり続ける。同じことや、違うことを知る。

「こうやって隣にいて、手をつないでも、実はバーチャルな話かもしれないし」

 唐突な晶のことばに、志信は声をあげた。

「はあっ?」

 晶はけろりとした顔で続ける。

「お互いにヘッドセットをかぶって、グローブをつけて、連動して形状変化するビーズクッションに両手両足胴体をうずめて、歩いたり座ったり立ち上がったり」

「いっしょに住んでいるのに、そばにいないってこと?」

「そうだとしたら、大変だよね」

「それは……、人工的な羊水のなかで浮かんでいればいい。チューブから栄養が補給されて、チューブから排出物が吸い出されて、死んだらダストボックスに流される」

「それは悲しい」

「悲しい……」

 志信は唐突にこみあげてくるものをこらえられず、乾燥した頬に、ひとつぶ涙をこぼした。

「泣くくらいだったら、そんな話をしなければいいのに」

 晶はあいているほうの手で、涙もろい人の手の甲にふれた。買い物袋で両手が塞がっているから、手は握れない。

 いつもそばにいる。巡り巡っていま近くにいる。同じ空と星の光を見つめている。土鍋のなかでぐつぐつと煮える白菜や豚肉や豆腐やしいたけは、弾け輝いている。それでも同じものを同じようにみているとは限らない。互いの世界との接点までの大きさも、その境界の柔らかさも異なる。違うまなざし、違う匂いがするからこそ、そばにいることができる。それほどに、遠くで呼び合う星たちの美しさとさびしさを思う。

「どんどん寒くなるね。もう冬だね。北風がたくさんふいて、気温がどんどん下がる」

「星はますます、きれいにみえるようになる」

「流星群の観測の際には、暖かくして、ごらんください」

 晶は夕方のニュースの気象予報士の言葉をくりかえした。

 夜明け前の天体観測はいうほど簡単ではない。寒くて寒くて気が遠くなるほどで、それでもずっと遠く遠くを見つめ続ける。幾千億の光の渦を、ゆっくりと手繰り寄せる。志信はずっと昔の十代の青春時代を思い出した。そのときは晶は志信の世界には存在していない。出会うのはずっとずっと後のこと。あのとき時間を過ごした人たちも、いまどこでどうしているのか、ほとんどわからない。

「はやく帰って、鍋で暖まろう。寒くなってきた」

 志信は歩調を早めた。晶はコンパスの長さが違うよとぼやきながら後を追った。




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その名のために ナカムラサキカオルコ @chaoruko

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