巻き戻す『Rewind』

 使えるのは一回だけ、すべてを巻き戻す時計を持っている。巻き戻したところから、やりなおすことができる。

 これをいつ使うべきか、ずっと考えていた。迷ったタイミングは、何度もある。忘れ物をした、財布を落とした、いけると信じて告白したのにふられた、試験で回答欄をまちがえていた、電車に乗り遅れた。幾度も、どうでもいいときに、使いそうになりながら、ぐっと堪えてきた。こんなくだらないことに使ってはいけない、あとで死ぬほど後悔する。

 そして、年はもう中年にさしかかっている。ある意味、幸せなことだ。致命的な出来事がない。思わぬ交通事故とか、墜落する飛行機に乗るとか。身近な人についても、同様で、大事故はなく、大きな病の発見は早く、巻き戻す時計の出番はなかった。

 ただ、ご縁は薄く、未婚で、子供もいない。いつか一番大切な人を守るために、これをもっている。そう信じているところもある。このまま、ずっとひとりだったら。そのときは、どこまで巻き戻せばいいんだろう。

 人生を左右する、大きな分岐点がない。劇的な瞬間が思い当たらない。あの日あの時、あんなことを言わなければ、しなければ、とか。胸を切り裂かれるような悲劇もなく、舞い上がる熱い喜びもない。

 いつでも使えるように常に持ち歩いていた頃もあるし、四六時中使う機会をうかがうことに疲れ、存在を忘れようと引き出しの奥に封印したこともある。いまはテレビのそばに、ふつうの時計のある。

 どうもわからない。そもそも。いつからどうして、こんなものを持っているのだろう。土曜日の夜、何度もみている映画をまた流しながら、ひとりで缶ビールをあけ、スルメをつまんでいると、疑問がうねり出した。

 よく思い出してみよう。中学のときは、もう持っていた。失恋して、半べそでポケットの中で握りしめていた。小学校高学年は? 持っていたかもしれないが、はっきりしない。それ以前は遡るほど、記憶の霧が濃くなる。

 缶の湿り気がついた手をそのまま伸ばして、巻き戻す時計をつかんだ。

 目覚まし時計として使っていた頃もあった。これを手に入れる前に戻ればいい。受け取らなければ、いつ使うべきか、巻き戻すのはいつかと、迷うこともなくなる。

 時計をつかむ手に力をいれながら、考えた。

 戻ったとき、記憶は残っているよね?


 子供はでたらめな歌を歌いながら、歩いている。春と夏の間の、よく晴れた日だ。ついさっき拾った、木の棒をぶんぶんふり回している。道ばたの、背の高い茂みから、変な音が聞こえてくる。キイキイと甲高く小さい弱々しい声だ。小さい生き物だろうか。恐る恐るのぞきこむ。カメのような生き物が仰向けになって、ジタバタしている。小さい手は、おあつらえ向きのものを握っている。距離をあけてしゃがみ、棒をのばし隙間につっこんで、ひっくり返す。

 カメの背中は、七色だった。誰かにかぶせられたように、金属のように光る。

「ああ、助かった、ありがとう、感謝する」さっきより、はっきりした声がした。ぎょっとしてあたりを見回す。「お礼にこれをあげよう」視線を戻すと、カメの背中には、時計がのっていた。「いちどだけ、時間を巻き戻す特別な時計だ」

 声は一方的に、時計の使い方を延々と説明し、締めに、華々しいショーの幕開けを告げるように高らかにいった。

「きっと君の人生の役に立つ!、さあ、手にとって持っておいき、大事にするんだよ」

とたんに思い出した。

「あんたさあ、」子供らしからぬことばが、子供の声で出てきた。「どうしてここにいたの? こんなもの作れるのに、自分の体勢を戻せないなんて、おかしくない? わざと? 最初から通りがかった誰かを罠にはめるつもりだった?」

 カメは、三秒ぐらい間をおいてこたえた。

「やあ、君は最初じゃないのか。どうして、ここへ?」

「それ、答える必要ある? 義務?」

「ないね」

 カメが肩をすくめたようにみえた。怒りのようなものが充満して、しばらく言葉につまった。だが、カメに当たり散らしてもしょうがない。

「ああ、くだらないことに、使ったよ」

「じゃあ、君は、これを受け取らないのか」

「いらないです」

 子供の声で、です、に力をこめた。これからどうなるのかな、と不安がもたげる。またこんな子供時代から、人生をやりなおすのだろうか。こんな昔の記憶はほとんどない。成功へつながる判断や行動など、できる気がしない。子供のなかに中年の残像をかかえたまま、このまま生きていくのだろうか。

「じゃあ一方的にお礼をあげるよ」

「え? いらないよ、それも」

「それじゃあ、辻褄があわなくなる」

「もう十分おかしい」

「簡単だよ。元気出せ。まだまだ折り返しでもないからな!」

 カメはまた陽気に言い放った。

「まって!」

 無責任なやつにむかって声をあげたら、その反動で目を覚ました。

 呆然と、狭い空間を見回す。さえないが落ち着いている自分の部屋だ。胸の鼓動がはやいが、安堵している。夢オチでもなんでもいい。冷蔵庫に突進して、缶ビールを開けた。これは祝杯だ。ひとりの部屋から、小さな時計は消えていた。

 折り返しでもない、という声が耳に残っている。この先どんな人生なのか、ちょっとは教えてもらえばよかった、と考えて笑った。





『Rewind』CHEMISTRY に因んで(アルバム『The Way We Are』)

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