まだ、君の声を(再掲)『STILL ECHO』

 彼女がおいていった犬をつれて川べりに散歩に出かけた。これぐらいすることしかない日曜の午後が、もうずっと続いている。

 犬は小さい。流行の小型犬というやつを、彼女にせがまれて彼女と買いにいった。時代はまさに綱吉以来のお犬様だとワイドショーがいっていたが、まさにその通りの値段にびっくりした。はした金じゃないが、買えない値段でもない。彼女はすごく喜んでくれた。

 世話はずっと彼女がしていた。最初からそう言う約束だったし、彼女が希望してそうしていた。彼女が出ていったのは、こいつの世話を押し付けられていたからだというわけではないだろう。

 こいつはすっかり彼女ばかりになついていたから、まるで相手にされなかった。最近はだいぶましになったと思う。ときどきなめた態度をしてくるが、相手の外見にまどわされず、びしっと叱ってみせる。

 外見と言うのは本当に大事だ。彼女も始めてみた時から、かわいくてものすごく好きだった。性格も良かった。明るくて楽しくて、誰に対してもそうだった。だから腹が立って我慢の限界を超えた。彼女は自分からでていったけど、その切っ掛けになったのは俺の投げ付けた言葉だ。どんなにひどいことを言ったかは、ちゃんと覚えていないけれど、可愛がっていたこいつをおいていくほど、ショックだったのかも知れない。

 犬をどうにかしなきゃいけないし、休みの日の予定はない。ぼんやりと何も考えられずに、川辺にきていたけど、だんだん、みえなかったものも見えてきた。

 かきーんと、草野球の快音が極たまに聞こえる。その向こうで、二、三人でボールを蹴りあっている連中がいる。フリスビーをなげていたり、笑い声をあげながらただ走り回っている子供がいる。もちろん、犬の散歩をしている人もいる。毛がふさふさした大型犬に、ぐっと下半身を踏ん張りながら中年のおばさんが引っ張られていく。

 でかい犬を買えるのもすごいが、飼い続けるのはまたすごい。こいつには引きずられることはないが、眼をはなすとどこにいくかわからない。

 ちびなくせにもともとは猟犬だから走り回らせなければならないという。たまたま見ていたケーブルテレビで、こいつと似たような小さい犬が、森のなかを全速力で走って、小さい穴の中にも突っ込んでいくのをみた。

 今日のこいつはいつもにも増して機嫌がいい。一人でくるくる走り回って楽しそうだ。自分を可愛がってくれていた人間に捨てられたっていうのに、えらいもんだ。

 彼女がいなくなったとき、こいつはどうおもっただろう。自分の味方をしてくれるひと、保護してくれる人がいなくなって、とまどいはしなかったのだろうか。

 しないはずはない。混乱してないていたはずだ。何の予告もなく、ある日突然、自分に愛情を注いでくれる存在を失ってしまったのだ。こいつに悪いところは何もない。

 それなのに、いまはもう、こうして少しずつ違う環境に慣れてきてくれている。

 愛情がないと、人間も動物もすぐ弱ったり死んでしまうと言う。ちゃんとこいつを愛してあげているだろうか。せめて生きていられるくらいには。無償の愛なんて知れているけど、犬がしてくれることなんて限界がある。犬にまでおんぶにだっこじゃ、犬もストレスがたまるだろう。おい、だから、そうだな、兄貴と弟ってことで、どうだろう。

 ふと気付いた。俺はいま誰の愛情で、こうして息をして動いているんだろう。遠く離れているおふくろだろうか、親父だろうか。憎たらしい兄貴だろうか、気のおけない友だちだろうか。そう、俺はあいつぐらいいなくなったって、たくさんの人の愛情に囲まれて育ってきたし、いまも大切な人がたくさんいる。彼女が一人欠けたくらい、どおってことない。

 でもわかっている。そんなんじゃない。自分だけを好きだといってくれる人が欲しかった。できることなら大切な人がまたひとり増えてほしかった。「彼女」にならなければ、彼女は友だちの一人であり続けたかも知れない。

 好きだといってしまったときから、もうそんな可能性は無くなってしまったとしたら、最初から失うために出会ったと言うことになるんだろうか。いや、欲しいと願った者が、手に入れられなかったと言うことだ。ただそれだけだ。夢に見た、夢にみすぎてしまったことは手に入れることはできない。

 いきなり子犬がしゃがみ込んでいた足下に突進してきた。遊んでくれとじゃれてくる。人はぼんやりと一人で愚痴をこぼしているのに、人の気も知らないでいい気なやつだ。

 背中を撫でると、柔らかい毛並みと息をしている温もりが伝わってきた。いきなり眼の奥をわしづかみにされる。

 ばかやろう、ばかやろう。

 涙はふいにやってくる。

 まだ彼女が好きなんじゃない。出会って離れてしまったことが悲しいだけ、失ったことが悲しいだけ。欠落した状態に慣れてしまえばいい。時間がたてばこれくらいのこと、跡形もなく消えてしまう。彼女のことすらわすれてしまうかもしれない。

 それなのに指先にある温もりは、こいつが生きているということは、どうしてこんなにまで涙を流させるんだろう。

 失ったもの、ただひたすら失ったという事実に向かって、泣き続ける。呼び続ける。呼ぶものがないまま、何を呼んでいるのかわからないまま。

 やけに犬はハイテンションなので、ようやく重い腰をあげた。最初は抵抗があったが、相手をするうちに、話し掛けるのも笑いかけるのもうまくなっていた。


(2013年)

inspired by "STILL ECHO" CHEMISTRY

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