第3話
渋谷の朝は青い、と何かのマンガに書いてあった。僕はあの表現が結構気に入っている。
昼から夜にかけてあれだけ賑わう歓楽街は、早朝のあの瞬間だけは
あらゆる
それが特殊なのは、都会の多くの街ではその青色の時間が存在しないからだと思う。オフィスビルが多いと、夜明け前は藍色で日が昇ればすぐ息を始めて灰色になる。青色の時間が存在することは少ない。
それを示すように、店の外では似たような服を着て同じように憂鬱そうな顔をしたサラリーマンがぞろぞろと歩いている。店内に入った人はみなコーヒーを買って出ていくから、客足は多い一方で店内はまばらだった。
だからと言ってアキバも灰色だ、というのは早計だ。一歩裏通りに入れば、そこには「青色」だってちゃんと存在する。現に、ついさっき
昨日は
そんなわけで、僕は目の前にいる変な女―まぁ夏生なのだけれど―と朝っぱらから呑気にチェーン店のカフェでコーヒーを啜っている。
「あたし、あそこ住もうかな。親と仲悪いし」
ずっと押し黙っていた夏生が、ぼそりと呟いた。それから家出ても他に行くあてないし、と夏生は
僕たちは、芳佳に住み込みで働いても良いという話をされた。住居付きでバイト代も出る。何と素晴らしい環境だろうか。
「
「まぁ、今のところは保留かなぁ」
幸い、僕の家は大して家族仲が悪くない。もちろん大学に行っていない僕は負い目があるし、両親も口酸っぱく言って来るけれど、今のところ大事には至っていなかった。
芳佳の言う環境に魅力を感じているかいないかで言えば、それなりに感じている。けれど、なんとなく僕は新しい環境に身を置くことを好まなかった。何かが変わることを恐れた。芳佳の提案を受け入れる、というのはすなわち完全なはみ出し者になるも同義だ。僕は「普通の世界」との接続を自分から切ろうと思うほどの絶望感はあいにく持っていなかった。
「中途半端」
夏生はそう呟いた。それに首肯して返す。間違いない。僕は中途半端だ。そしてこれでもいいと思っている。だって、中途半端な桂花が戻って来た時に居場所がないのは困るだろうから。
「あ、お帰り」
芳佳のいるビルに戻るなり、昨日見た東南アジア系の青年から声がかかった。
背は高い方で、優しそうな声と瞳が影響しているのか一見細身に見えるが、間近で確認するとかなり鍛え上げられていることがよくわかる肉体をしている。浅黒い肌に前掛けをしているから、八百屋で叩き売りでもしていそうな
「
彼は陳さんといって、ベトナム系の人だ。一応、下の階で電化製品店を営んでいることになっている。
「ことになっている」というのは、当然別の仕事がある。陳さんは、芳佳の身辺警護として雇われている。探偵という仕事柄上一応、ということらしい。道理で、昨日初めてここに来た時ひどく睨まれたわけだ。
聞いたところ、陳さんはもともとミャンマーで傭兵をやっていて、諸事情で日本に来たのだという。それで職を探しているうちにここに行きついたのだとか。
見たところ二十代半ばという感じだから、傭兵を始めたのは僕たちと同じくらいか、それより早いということになるんだろうか。自分との差に少なからず
「ちょうど良かった。これ運ぶの手伝ってよ、二人とも」
言いながら、陳さんは足元に置かれている段ボール箱を軽くつま先で蹴った。
僕と夏生は頷いて、段ボール箱を店の奥に運ぶ。
芳佳は報酬を支払う代償として、情報収集でまるで役に立たない僕と夏生に、自分の手伝いに他に陳さんの店のバイトを課した。バイトといっても、もっぱら仕分けだったり荷物運びしかないようで、バイト代に見合わないような気がして不安だ。
「あ、これってもしかして空冷のやつですか?」
運んでいる途中に、ふと夏生が陳さんに聞くと、二人は仕事をしつつもいつの間にか電子機器関係の話に没頭していってしまった。
僕の知らない単語が飛び交う中で、覚えた
陳さんはとっくに社会に出ているし、僕のあずかり知らないところで沢山の経験を積んできたのだろう。葵や夏生もある程度は社会とつながりを持っているし、撫子は着々と社会に出る準備を進めている。
対して、僕は違う。バイトにイベントスタッフを選んだのだって、持続するコミュニティに身を置きたくないからだ。成人間近になって、いまだに社会との接点を意図的に断っているのはもはや僕だけだった。
そんなことを考えながら入り口と奥の方を何往復かして、少しだけ
「ハルトくん」
言いながら受話器を持っていない方の手で、陳さんが上を指し示す。このビルには内線があって、電話一本ですぐに呼び出すことができる。つまるところ、どうやら雇用主がお呼びらしい。
「ナツキちゃんは仕分け手伝って」
「はーい」
陳さんにありがとうございますと一礼してから、僕は二人の会話を背に軽やかに階段を昇っていった。
「入るよ」
形だけの断りを入れて、事務所の中に入る。芳佳は僕を見て不敵に笑っている。もしかして、初めての探偵らしい仕事だろうか。
「お茶汲んできて」
……さっきの何かありげな表情は何だったんだ。しぶしぶ僕は言われたとおりにする。
「まぁ、そんなに怒らないでくれたまえよ。君には折り入って聞きたいことがあるんだ」
「まぁ、僕に答えられる範囲なら」
湯を沸かしながら、芳佳の返答を待つ。
「姉のことを聞きたい」
そうきたか。
「……具体的にはどんなことが聞きたいの。僕が知っているようなことは大抵君も知っているものだと思うけど」
「ぼくが聞きたいのは、姉についての情報じゃなくて、きみが姉をどう思っていたか、だよ。当たり前のように、
芳佳の言葉が終わらないうちに、カチッと音がした。ティーバッグとマグカップを二つ取り出し、お茶を淹れながら僕は桂花について考える。
丹下桂花。僕と彼女が最初に出会ったのは高校に入って半年が経ち、中学の時と同じように授業に出なくなった頃だった。別に学校が嫌いだったとか、反骨心がどうとかいうわけじゃなく、ほんの少しだけ面倒くさかった。
なんとなく一回授業をサボってから、崩れるように他の科目の授業に出なくなってどう進級しようか考えていた時に、たまたま屋上に行ったのだと記憶している。
「初めて会った時は幽霊だと思ったよ」
言いながら僕は芳佳にマグカップを渡して、向かいにあるソファに腰掛けた。
気分で屋上に行って、読書しながら煙草吸ってる死ぬほど美人な女子高生がいたら、とりあえず幽霊かどうか疑うのがスジってものだと思う。
「それに、凄く綺麗だった」
桂花はどことなく浮世離れしていて、屋上で世界を見渡していた。何者にも触れられないところで、自分の世界を生きていたように見えた。実際は時に適当な冗談を言ってくるような、思ったよりも普通の少女だったわけだけど。
「それから?」
僕が過去を懐かしんでいると、続きを芳佳が促した。
「桂花は、僕をちらっと見た後すぐに興味なさそうに煙草を吸い出したよ。なんか変な空気になったから、その日は仕方なく屋上から去ったんだ。で、次の日も行った」
「物好きだね」
「もう一回見たくなっちゃうくらい惹かれたんだから仕方ないよ」
「そ、そう……」
もはや隠しても仕方ないと思って率直に答えると、芳佳は何故か頬を赤らめて照れた。身内をよく言われて嬉しかったのだろうか。
「と、とにかく!続きを話しなさい!」
「……?」
口調が少し変になってるけど……まぁいいか。
「次の日は流石に向こうから声をかけてきたよ。『何か用事?』ってね」
あの時、僕は……確か、その次に名前を聞いたんだっけ。その後は桂花が手に持っていた本の話をして……それっきり特に何も話さなかったはずだ。
「それから、適当に話すようになった気がする」
桂花の読んでいる本の話と今日の天気の話以外、あまりした記憶がない。けれどお互いに干渉せず、ただ黙って互いの時間を過ごすのはそれなりに心地が良かった。
そこに同じように授業に出ていなかった夏生が来て、そういう僕たちを変に思わない葵と、腐れ縁の撫子が時折加わり、桂花が欠落した状態で今に至っている。
「姉は容姿が良い所為で常に接してくる他人は何らかの下心があっただろうからね。特に気に留めなかったのは君が初めてだったのかもしれない」
「あぁ、それには理由があってさ」
「……なんだって?」
「あいつ、初めて会った日にキェルケゴールの『死に至る病』を読んでたんだよ。そんな変な女、小説の中でしか見たことなくってさ。もちろんすっごい美人なのは気になったけど、それよりもそっちの方に気が行っちゃって……ってどうしたの?顔赤いけど」
「うるさいっ!聴取はもう終わり!とっとと下で陳の仕事を手伝って来なさい!」
芳佳は、今度は突然怒り出した。やはり姉を「変な女」と愚弄したのが良くなかったのだろうか。マグカップを投げてきそうな勢いだったので、僕は慌てて外に退散した。怒った時の有無を言わせない態度は、やはり桂花に似ているように思った。
……それにしても、怒ると口調が少し変な気がするんだけどなぁ。癖なんだろうか。
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