第1話

 スマートフォンのアラームというのは、大して役に立たないのではないかと常々思う。少なくとも僕は、あの程度の音で目が覚めたことなんか一度もなかった。


 今日も本当は午前中に起きるつもりでセットしたはずなのに、時間を確認するともうとっくに正午を過ぎ、おやつを食べても良いくらいの時間になっている。

 まぁ、取り立ててやることもないから別にいいんだけど。

 昨日は深夜に帰ってきてそのまま寝てしまったからとりあえずシャワーが浴びたい。僕は着替えを持ってのそのそと浴室に向かった。


 わかってはいたことだが、さっき僕が見たのは夢だ。目が覚めて真っ先に視界に飛び込んできたのは快晴の青空なんかではなく、くすんだ白色の天井だった。

 丹下桂花たんげけいかが姿を消してから、およそ二年が経った。僕はなんとか高校を卒業できたわけだけれど、大学には進学していなかった。

今の僕は何者かと問われれば、無職とかNEETとかそういった類の言葉が正しい、と言いたいのだがイベントスタッフのバイトを不定期にしているので、フリーターという言葉が合うのかもしれない。どのみち、いつまで経っても僕は中途半端だった。


 熱湯を浴びながら、もう何度目かすら覚えていない、彼女と最後にあった日のことを夢に見た意味を考える。結局あの日かけるべき言葉は何だったのか、今でも答えは出ていない。

 彼女とはそれなりに長い時間を過ごしたはずなのに、別れの時の夢ばかり見るなんて、いい加減彼女のことは忘れ、なんとか社会に出るなり大学を目指すなりするべき、ということなのかもしれない。


 けれど困ったことに、僕は今でも彼女のことを忘れられそうにないのだ。

 他人を惹きつけてやまない澄んだ瞳も、透き通るような黒髪がはらりと落ちる瞬間も、それを耳にかけ直す左手の細い指も、青空とは不釣り合いなくらい陶器とうきのように白い肌も、煙草をくわえるあでやかな唇も、玲瓏れいろうな声も、それらと対照的に驚くくらい柔らかな微笑みも、理知的な語り口も、全て覚えている。

 だからこそ、僕はまだここに立ち止まっている。彼女のいたところから離れたくないから、ほんの少しでも彼女がいたことを覚えていたいから、僕は停滞を受け入れてのうのうと生きている。

 それでいいのか、と問われれば僕は首を縦に振らないだろう。決してこれが最善だとは思えない。多くの人が日々出会いと別れを繰り返すこの世界の中で、ただ一度、一人の別れを二年間も引きずっている方が異常なのだということは、僕自身が痛いくらいに実感していた。

 それでも僕はこれ以上何も失いたくないし、いなくなってしまった桂花を「思い出」として風化させたくなかった。

 果たして世の人々はいかにしていなくなった人との折り合いをつけるのだろうか。そんなことを考えながら水栓を閉めて、タオルで軽く身体を拭く。今日の予定は特にない。


 これから何をしようかな、と考えている時に、唐突にそれは始まった。


 スマートフォンのバイブレーションが小刻みに二回鳴って、メールの到来を告げた。バナーに表示されているのはただのセールスメールで、僕は画面を軽快にスワイプし、そのメールをゴミ箱に放りこむ。ついでに他のメールも見ようとスクロールした瞬間、「それ」は僕の目の前に現れた。


「keika-tange@gmai.com」


 もう二年間も見ていなかった、丹下桂花のアドレスからのメール。

 指を止めて、慌ててメールを開く。そこには「本日一六時、外神田○-○-○○ 五階」という短い言葉だけが書かれている。受信時刻は今日の正午前。寝ていたから気づかなかった。


 どういうことだ。僕は、思わずメールアドレスを確認し直してから、中身を何度も読み返した。残念ながら、何回読み直しても情報が増えることはなかったし、アドレスの見間違えということもなかった。

 なぜ二年経ったいま、突然彼女のアドレスからメールが来る?

 少しだけ目を瞑って考える。今日の日付は……十月七日。

「……なるほど」

 思わず呟いてしまう。十月七日の誕生花が金木犀きんもくせい、ということを僕は知っていた。なぜなら、自分の名前は誕生花の別名からつけられたものだ、と以前彼女から聞いたことがあったからだ。

 わざわざそんな日を狙って彼女のアドレスから送られてくると言うことは、少なくとも丹下桂花について少なからず知っている人間の差し金ということだろう。

 とりあえず、行って見ないことには始まらない。


 山手線に揺られること十分弱。僕は秋葉原駅に到着した。マップを調べたところ、どうやら指定されたのは秋葉原の裏通りにある、雑居ビルらしかった。

 秋葉原は、出不精の僕にしては結構な頻度で来る街だ。僕はサブカルが好きだったし、数少ない友人たちとの集合地点でもあった。

 何よりも、この街並みが好きだった。渋谷や池袋が急速に整備され、はみ出し者が追い詰められていく中で、色々な人が互いに過干渉せずにすれ違っていく雑然とした感じが、多分僕の性分に合っていた。他の街で感じる息苦しさが、不思議とここでは感じられなかった。

 目の前でメイド喫茶の店員がチラシを配っているのを、外国人が物珍しそうに見ながら歩いている。最近ではフクロウカフェだったりシーシャカフェもあるらしい。  

 路肩にはでかでかとイラストの描かれた痛車が止まっていて、その側をデリバリーサービスの自転車が通り過ぎていった。

 視線を少し遠くにやれば近未来的なビルが見える一方で、僕のすぐ目の前には小さなカレー屋や中古グッズ店と、大型の電気屋やゲームセンターが入り乱れる。

 買い物に来たオタクが僕を早足で追い抜けば、向かい側のサラリーマンが半身でそれを避けた。少し前で明らかに男性の体型をした人がファンシーなドレスに身を包んでいる。年齢層も、小学生くらいの子供から白髪交じりの老人まで多種多様だ。

 逆に失われたものもそれなりにある。鉄道博物館は別のところに移転したし、歩行者天国も廃止された。川沿いにあった喫煙所も閉められた。そもそももとは電化製品の街であって、オタクの街ではなかったと聞く。

 けれど、そんな物的な入れ替わりを受容しながらも、どこか古めかしい雰囲気を漂わせ、変わらない何かを保ち続けているのが、この街だった。だからこそ僕みたいなはみ出し者でも、この街は受け入れてくれるのだと思っている。


 そんな風景を横目に、僕はマツモトキヨシの横を通り抜けて目的地に急いだ。そもそも起きたのが遅かったのもあって、結構ギリギリの時間帯なのだ。

 小さな通りの角をいくつか抜けた先に、その雑居ビルはあった。下の階は電子機器の部品を売っているらしい。奥の方には店番だろうか、椅子に座っている東南アジア系の顔立ちをした青年がいる。まばらではあるが、ちらほらと客も見える。

 その青年と目が合った。恐ろしい眼光で僕を睨んでいるように感じて、軽く会釈してから慌てて目を逸らし、視線を正面に戻した。

「ん」

 それと同時に、向かい側から歩いてきた、奇抜なファッションスタイルの女性がこちらに気づいたようだった。奇遇にも、僕も向こうのことを知っている。

「夏生、久しぶり」

「言うても二か月くらいでしょ」

「まぁ、そうか」

 紫色に染めた髪を高い位置で二つに結わえて、顔のメイクはかなり濃い。毒々しい色の林檎があしらわれたパーカーを着て、ホットパンツから細い脚を惜しげもなくさらけ出している彼女は久々田夏生くぐたなつき。正真正銘のNEETだ。ここ数か月はゲーセンに入り浸って格ゲーをやってるみたいだけど、僕の記憶の中では大体負けているから、大して強くはないのだろう。

 ばっちりのアウトサイダー……と言いたいところだが、警察には捕まったことがないはずだし、危ないことも特にはやっていない。少なくとも、僕の知っている限りでは。だから結局、彼女もまた中途半端なはみ出し者だった。

「もしかして……」

「うん。桂ちゃんからメール来た」

 なるほど、と軽く頷いてから、僕らは二人で縦になって階段を昇った。互いに無言だった。夏生にも、僕と同じように不思議な感覚があったのだと思う。


 指定された五階は、ビルの最上部だった。古めかしいドアの前に二つの人影がある。

「あれ、夏生に晴人じゃん」

「もしかして二人にもメールが?」

 僕たちの名前を呼んだのは、いかにもお洒落な大学生然とした好青年だった。少し顔にかげりがあるけれど、それが彼にミステリアスな雰囲気をいい塩梅に加えている。

 彼は八津葵やつあおい。一応本当に大学生。なぜ一応かというと、ほとんど大学に行っていないからだ。すでに今年の留年が確定していて、来年も一年生。まぁ、大学を受けてすらいない僕よりはマシだと思う。ちなみにこいつはヒモだ。今までで貰った一番高いプレゼントはパソコンだと聞いている。いくらしたのかは、怖いから聞けなかった。

 隣にいる女性は、鷺沼撫子さぎぬまなでしこだ。こちらは正真正銘の大学生。ちゃんと登校しているし、留年の予定もない。サークルにもちゃんと入っている。話によると、大学内雑誌の記者をやっているらしい。こんなまともな女子大生がどうして僕たちとつるんでいるのかと言えば、彼女が僕と小学生以来の腐れ縁だからに他ならない。小学四年生から高校卒業まで、僕と撫子は一度も違うクラスになったことがなかった。

「てことは、高校時代、桂ちゃんとつるんでたのは全員集合か」

 僕の隣で、夏生が呟いた。桂花は屋上にしかいなかった(雨の日には来なかった)から、校内では有名人だったのに、生息地域が合う人間か、その友人くらいしか実際は遭遇できなかった。

 実際に夏生は屋上にサボりに来た時、葵は屋上でその時の(何人いたのかは知らないけど)彼女との逢瀬を楽しんでいる時に、偶然桂花と遭遇したそうだ。撫子はまた別の理由があるのだけど、それは別の機会に話そうかと思う。

 全員が押し黙ると、静寂が僕らの間に染み渡っていく。誰しもが桂花について何がしかのことがあるのだろうという確信と、それ以外何もわからない不安とを抱えていた。正直なところこれからどうするべきか、誰にもわからなかった。

 その時、聞きなれない電子音の後、不意にインターホンから声がした。

「全員揃っているね。鍵を開けたから、入ってくれ」

 はきはきとしているけれど比較的幼げな声だ。

 葵が口を開く。

「入ってみないことには始まらないよね」

 互いに顔を見合わせてから、僕たちはそろって頷いた。

 それを確認した葵は、ドアノブをゆっくりと回した。ぎぃ、と音を立てて開いたドアの向こうからは、ほのかに金木犀の香りが漂っていた。

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