秋葉原裏通りブルース

虹ケバブ

プロローグ

 チャイムの音が聞こえて目が覚めると、そこには僕が眠る前と変わらない一面の青が広がっていた。雲ひとつない、綺麗な青い空だった。世界が滅びるならこんな晴れやかな日が良い、なんてあられもない事をなんとなく思った。

 近くで、ぱたりと本を閉じる音が聞こえた。上半身を起こして音のした方を向く。音の主は、本を脇に置きながらこちらをじっと見つめていた。

「…………」

「…………………………………………」

「……何、してるの?」

 三十秒ほど互いに無言だっただろうか。いつまでも口を開く気配のない彼女は、僕を見て首をひねったり、目をすがめたりして僕を見分しているらしかった。このままではらちが明かないので、僕がしぶしぶ彼女―丹下桂花たんげけいか―に問いかけると、桂花はおもむろに口を開いた。

「ねぇ、私たちって何者なのかしら」

 質問に質問で返さないで欲しい。

 僕の恨めしげな視線に彼女ははぁ、とため息をつく。

「見ればわかるでしょ、本を読んでいたわ」

 桂花は膝の上に置いていた本を掲げて見せた。サルトルの『嘔吐おうと』だ。僕は読んだことがない。何かをこぼしたのか、一部に黒い染みが広がっている。

「この本、何回読んだの」

「さぁ。けれど、お気に入りの本よ。いつも机の近くに置いてあるから、コーヒーをこぼしてしまったの」

 見透かしたように桂花は言う。

「ていうか僕が聞いているのは、そのあと僕を穴が開くほど見てたことの方なんだけど」

 あぁ、と桂花は納得したように頷いた。

「あなたが何者なのか考えていたのよ」

「見るだけで何かわかるの?」

「わからないわ。それで、さっきの質問になるわけ。私たちって何者だと思う?」

 なるほど、人の思考回路というものはなかなか難しいらしかった。

「さあね。少なくとも、だいぶ中途半端な存在ではあるんじゃない?」

 ほんの少しだけ考えてみて、僕はそれに答えを出すことを放棄した。こんな短時間で答えが出るのならどれほど素晴らしいだろうか。

 世の中は、いろいろなことを二元論的に語る。それは正しい判断なのだと思う。男と女、上と下、善と悪、有と無。二項対立はとても分かりやすいし、いつだってある程度正しいに違いない。

 けれど、単純な二元論は必ず一定数のはみ出し者を含むのだ、と僕は思っている。例えば僕や桂花のように、不良でも真面目でもないような人がその議論で出てくることはない。

 彼女は一瞬瞑目めいもくしてから確かに、と前置きして話し出す。

夏生なつきはほとんど学校に来ないし、あおいは学校にいる間は授業を真面目に受けている。少なくとも、私たちよりはどちらかに振れているのかもしれないわ」

撫子なでしこは……もっと真面目だね」

 夏生と葵、それに撫子というのはよくつるんでいる同級生のことだ。三人は僕たちよりもう少し真面目か、もう少し世間からはみ出して生きている。

 僕と桂花は、示し合わせたように空を見上げた。少し低めに飛んでいる旅客機だけが、視界の中で動いていた。

「私たちって、どちらかに属することはできないのかな」

「できていたら、高校二年生の秋にもなって屋上に隠れたりはしないよね」

 ため息がちに僕は言った。僕たちはこうして学校には来ているのに、授業を受けていない。受けないなら来なければいいじゃないか、と思われるかもしれない。けれど、あいにく僕らには盗んだバイクで走り出したり、学外でおおっぴらにサボるほどの度胸がないのだ。

「卒業してしまえば屋上なんてなくなってしまうのにね」

「その時はまた、似たようなところを探せばいいよ」

「……ま、そうね」

 彼女はほんの少しだけ逡巡しゅんじゅんしてから首肯しゅこうすると、今度はポケットから煙草を取り出し、火をつけた。流れるような一連の動作。指の間で紫煙がたなびく。当たり前だけれど、ここは日本だから桂花はしっかりと法律を犯していることになる。

「早死するよ」

 やめなよ、とは言わない。正確には言えない。僕たちは互いに過度に踏み込まないから、なぜ彼女が煙草を吸っているのかも知らない。そもそも僕は今ではすっかり失われてしまった、どこか郷愁きょうしゅうをまとったこの香りを結構気に入っている。

 だから、これは僕なりのたくさんの感情がい交ぜになった、彼女への皮肉だった。

 言えない、という事実が僕たちの距離感をうまく表しているように思えて苦笑していると、恐らくはそれが気に食わなかったのであろう桂花が、肺に入れた煙をゆっくりと吐いてから、僕を見て少しむっとしたような口調で抗弁した。

「吸ってなくても、明日には事故で死んでいるかもしれないじゃない。帰納法的な推論は、いずれどこかで破綻するってソクラテスも言ってるわ」

「ソクラテスの時代に帰納法はないんじゃないかな」

「ふん、馬鹿」

 桂花の適当な言い訳をあっさりと斬り伏せると、彼女はぷい、とそっぽを向いてしまう。

 僕の一応の諫言かんげんを気にも止めず、彼女はのんびりと一本を吸い切ってから、フェンス越しに遠くのビル群を見つめていた。彼女は他人や噂話についてほとんど興味がなかった。曰く、『知っているもの、考えればわかることを見聞きしてもつまらない』のだそうだ。だから誰に何と言われても、何をされても、彼女は変わらないし気にしない。

 残念ながら僕はそういった崇高な思考は持ち合わせていない。僕が思うことといえば世界平和と、人間はなぜ理性に完全に支配されずに生きているか、とかだ。きっと、理性だけの世界なら争いも不貞も間違いも罪も存在しない。今よりも幾分かは生きやすいだろう。

 つまり何が言いたいかと言うと、風が桂花のスカートを揺らして、危うげなほどに白く細い脚が見え隠れし、絶対領域の黄金比を策定しようとしていた。僕は気まずい思いがして、慌てて視線を傍らの『嘔吐』に移した。

 そんな僕の苦悩もつゆ知らず。彼女は呑気にハミングしている。

「意外と俗物的なのね」

「……ほっとけ」

 どうやらとっくに気づいていたらしかった。気づいてたんならもっと早く言って欲しい。

「さっきの仕返しよ」

 勝ち誇ったように桂花は笑う。

 僕はその手の理性が制御しきれない衝動や、それを引き起こす出来事を忌避きひする傾向にある。それを苦手なことに特に理由はない。探し出せば幼少期の記憶に云々とあるのかもしれないけれど、本人が思い出せないということは、生まれつきではないにしろ大きな転換点はないのだと思う。

 彼女はそれを分かったうえでからかっているのだ。嫌なやつ。

「あなたも難儀な人間ね」

 呆れた表情で桂花は僕を見ている。僕もそう思う。いっそのこと理性とかなんとか考えるのをやめて、醜い自己意識なんかきれいさっぱり忘れてしまえばどんなに楽か。

「まぁ、仕方ないよ」

 僕は薄く笑ってから『嘔吐』を手に取って、適当にページを開く。一八七ページ。左上にはこぼしたコーヒー。下側が少し破れている。きっとめくる時に破れたのだろう。


私たちはみんなここにいるかぎり、自分の貴重な存在を維持するために食べたり飲んだりしているけれども、実は存在する理由など何もない、何一つない、何一つないんです。


 主人公もなかなか良いことを言う。まぁ、この文章がこのあとどう繋がるかもよくわかっていないけれど。いずれ始めから読んでみるのもいいかもしれない。

「曰く、私たちはこの世に無責任かつ不条理に投げ出されているそうよ」

 そのままパラパラとめくっていると、彼女は二本目の煙草を美味そうに吸いながらゆっくりと語り始める。

「また始まった」

 苦笑いしながら言ったものの、もともと興味があったのも影響して、僕は桂花が話すこの手の話が嫌いではなかった。おかげで今では少しだけ実存主義について詳しい。もっとも、今後の人生でこの知識が役に立つことは恐らくないとは思うけど。

「その不条理を認めた上で、私たちは自身の本質を獲得しなければならない」

 この時のサルトルは不条理に嫌悪感を示していたようだけど、と言いながら桂花は僕の目の前を横切った。彼女を目で追うと、少しだけ西に傾き始めた太陽が視界に入って思わず顔をしかめる。

「私は哲学者ほど強靭きょうじんな精神は持ち合わせていないの。『何者かになる』なんてことは怖くてできない。ここみたいに、『何者にもなれない』場所から窓を開いて、眺めて、自分に辟易へきえきして、それでも私はどこかに行く勇気もなかった」

 桂花が、どこか遠くを見つめながら呟いた。それから深呼吸を一つ。意を決したように桂花は僕に言う。

「けれど、私は今日、そこから一歩踏み出してみる。もしもそれが失敗した時には帰る場所が必要だと思うの。……だから、私の居場所は、あなたが確保しておいてね」

 彼女は、羨望せんぼうと絶望の入り混じった目でいつもどこか遠くを見つめていた。それがどこだったのか、僕には見当もつかない。 

 けれど、今日だけは違った。彼女の瞳には絶望の色はなく、彼女がさっき口に出した「勇気」が漲っていた。

 それに気が付いた僕は、気の利いた一言か皮肉の一つでも行ってやろうとして開きかけていた口から何の言葉も発することができなかった。

 本心では『任せてくれ』と言ってやりたいと思っていた。けれどそれを口に出してしまうのも、なんだか僕と彼女の間ではありえないような気がした。それに僕が何か言ったところで、彼女の意思は何ら変わらないに違いなかった。何を言えばいいのか迷う、という経験は初めてだ。

「なんだそりゃ。婉曲えんきょく的すぎてよくわかんないよ」

 だから、僕は逃げた。イエスともノーともいわず、中途半端な答えでお茶を濁した。それが僕らしく、中途半端で、彼女の望む答えだと願いながら。

「まぁ、そういうことよ。覚えといてちょうだい」

 彼女は、ほんの少しだけ寂しそうに笑いながらそう言った。それから煙草をもみ消して携帯灰皿の中に入れ、匂いを紛らわすために金木犀の香水を二、三回自身に吹きかけ、少ない荷物をまとめて屋上を後にする。

 僕と、甘やかでどこか優しい香りだけが屋上に取り残された。


 そしてその日を境に、丹下桂花は姿を消した。

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