三十三日目 峡谷の帽子屋

 そり立つ崖を横目に、舟を漕いでいく。一人しか乗っていない舟はすいすいと進んでいた。

「おお、そこのお姉さん。こちらにおいで」

 視界いっぱいの自然を眺めていると、目に入ったのはひとつの店だった。峡谷を掘ったようにして作られたその店はどことなく薄暗くて、奇妙に見える。

 帽子を深くかぶって顔の見えないその店主は、招いてから彼女の顔を見てひとつ頷く。

「お前さん、これから行くのはこの先かね」

「はい。この先に行かなくちゃいけない用事があって」

「どのくらい滞在するんだね?」

「ええと、……二日くらい、だと」

「ならばこの帽子を被っておいき。お前さんくらいであればこれでじゅうぶんであろう」

 す、と差し出された帽子をそのまま受け取る。つばがそこまで広いわけでもない、しかし深めの帽子だった。たしかに被れば顔も隠れそうだけれど。どうして帽子を被らなければならないのか。そう思ってぱっと顔を上げると、店主は奥からいくつか他のものを出してきた。

「ここから先はお客さんには危ないのさ。顔は見せるんじゃないよ、特に目はね。見られたらおしまいだからな」

 こっちとこっち、どちらがいい?

 好きなほうを選べと言われたまま、好きなほうを選ぶ。店主はぽすりとそれを彼女に被せ、無事に帰ってこられたらその帽子を返しに来なさい、と言った。

 促されるまま舟にのってしまったから店主を振り返ることもできなかったけれど、横目にちらと見えた店主は、帽子をとって挨拶をしたようにも見えた。

 話し方は老爺のよう、しかし声音は若い男性にも女性にも聞こえ、仕草は洗練された紳士のようでもあった。


 ──その峡谷の奥では、来訪者は決して顔を見えてはならない。目を合わせてはならない。そうすれば、帰り道をふさがれてしまうから。人から足を踏み外してしまうから。

 たったひとりの帽子屋は、今日も旅人が無事に帰ることを願って、そこで帽子を被せているのだ。帽子が戻ればそれでよし、戻らなければ寂しさを覚えるまで。

「……全く、面倒な地だ」

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