九日目 失われた空色

 その少年は、外の世界を知らなかった。

 物心ついたときから薄暗い場所にいて、明るいところや空なんて知ることもなかった。

 その日も一日の終わりまで働いて、くたくたになって帰る。毎日その繰り返し。

 少年の暮らす八十七番街は、特別貧しくも裕福でもない街である。強いて言えば貧しいに寄っているかというくらいだ。街からは少々距離があるけれど、徒歩で行けない距離でもない。

 だから、少年は今の暮らしに不満を抱いているわけではなかった。

 しかし、皆が皆そうというわけにはいかない。中には、おとぎ話にしか現れない、空、というものに憧れる者もいた。青く澄み渡った、人間の頭上にあるものだという。書物にも絵として見たものはなく、ただあるのは古い日記からの情報のみだ。とても綺麗だという話だが、少年はあまり興味はなかった。そのはず、だった。

 その日も、少年は仕事があった。場所はいつもと違う場所で、行ったことのないところだった。

 喫茶店の手伝いという、比較的楽な仕事だった上早く上がれたので、少年は寄り道をすることにした。少し懐が暖かかったのだ。

 しかし、角を曲がろうとして、視界に青いなにかがちらついた。思わず足を止めて、くるりと振り返る。

 それがあったのは、どうやらアトリエらしかった。薄暗くて明かりもないけれど、画材がたくさん散らばった、小ぢんまりとしたアトリエ。

 そこには、薄暗い中にぱっと光るような、真っ青なキャンバスがあった。

 青く塗られた色は見たことのない明るい青で、ところどころ白く丸いものが浮かんでいる。下の部分には人影らしきものが描かれて、青いなにかの下を駆けているような絵だった。

 ――きれい。

 最初に思ったことは、それだった。

 青いなにかに見とれて見つめていると、奥からかたんと音がした。思わずばっと振り返る。

「おや、人が来るなんて珍しいね。うちのアトリエに用かい?」

「あ、い、いえ、この絵が気になって。ごめんなさい、勝手に入ってしまって」

 顔を出したそのおじいさんは、朗らかに笑った。

「ああ、かまわんさ。もともと人が来ないから閉めてないしな。おまえさん、この絵が気になるのかい」

「はい」

 そうかい、とおじいさんは微笑んで、嬉しそうに絵を見つめた。

「少年、空は知っとるかい」

「お話だけは、聞いたことがあります」

「なるほど。……昔我らが地下に住んでいなかった頃は、空のもとに暮らしていたのさ。もう知らないやつがほとんどだがね、空は皆にとって普通のものだったんだよ」

 絵を見つめるおじいさんの眼差しは、懐かしさの中に、寂しさが混じっていた。

「私は空がすきでねえ。上を見上げれば、真っ青な空が一面にあったんだ。白いのは雲。今は上を仰いでも岩しか見えんね」

 いつかはまた空の下に行けるといいねえ、とおじいさんは笑った。君が見ることがあれば、しっかりと目に焼き付けておいで、と。

 帰り際、おじいさんは小さい空の絵を少年に譲ってくれた。この色は空色というんだ、と教えてもくれた。

 絵を抱きしめながら、少年は頭上を見上げる。見上げても、たしかに黒っぽい岩ばかりだ。おじいさんの言う通り、昔は空の下に生きていたというのなら、いま上には一面の青が広がっていたのだろうか。そう思うと、いつか本物の空を見てみたい、と思った。

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