電撃 前編
最近、視線を感じる。
いや、漫画に出てくる武道の達人じゃないんだから、誰かに見られていることを感じ取るなんて出来ないはずだけど、それでも「視線を感じる」以外の言葉で表現できない不思議な感覚に陥っている。
背中ではなく、頬を刺すような視線。その答えに気がついたのは四月も終わりを迎えた頃だ。
視界の端っこの方から私を見ている人がいた。ギリギリ目線が届かないけど、視界にはなんとか入っているくらいの端っこだ。
滝口香織。今年から新卒で入った後輩。背の低いふんわりとした大人しそうな女の子だ。部署が隣だから話をする機会もないし、用件もないと思うが、確かに見られていた。
ふと視線を送ると目が合う。が、すぐに逸らされる。知り合いにでも似ているのだろうか。
私の会社は海外から商品を輸入して、小売店に卸す仕事をしている。私は英語ができるので海外から商品を輸入する部署、滝口さんはそれを小売店へ卸す部署だ。大きな会社でないので、仕切のない同じフロアに両方の部署が入っている。だから一緒に仕事をすることはなくても視線を感じるくらいの距離にいるのだ。研修が終わってひとりで仕事をするようになれば、色々と相談することもあるだろうが、今は用件などないはずだ。
結局、滝口さんから話しかけてくることはなかったが、じろじろ見られるとやはり気にはなるもので、視界に入るとつい目で追ってしまう。
彼女は頭を上下に少し跳ねるように歩く。そのたびに髪が揺れて可愛らしい。守ってあげたくなるような妹のような人だ。
仕事はまだ上手くいかないことがあるらしく、トライ&エラーを繰り返しながら一生懸命走り回っていた。要領はよくないようだが、真面目で責任感があるのだろう。今日も遅くまで残って資料作りをしている。
自分も帰ろうかと思っていたら、滝口さんの教育係の人から話しかけられた。
「ごめん。今日俺が子供を迎えに行かないといけなくて、滝口さんが帰るまで見ててもらっていいかな?」
彼は三十を過ぎた男性社員だが、共働きなので保育園に子供を預けている。時計に目をやると、六時半を過ぎたあたりだった。
「何もしなくていいんだけど、新入社員の子を最後に残すわけにもいかないからさ」
周りをみると私と滝口さんしか残っていない。昨今の働き方改革の影響で、この時期はみんな帰るのが早い。
「分かりました。早く迎えにいってあげてください」
「ありがとう。もう終わると思うからさ」
そうして二人きりになった。滝口さんはパソコンの画面とにらめっこをしている。最近の子はスマホ世代なので、逆にパソコン操作に慣れていない人が多い。少しキーボードを打つ度にメモを見て確認している。もう終わるだろうとは言われたが、本当だろうか。
給湯室に行って珈琲を二人分淹れる。両手にカップを持ち後ろから近づくが、滝口さんは私に気付く様子はない。
「調子はどう?」
「あ、はいなんとか……って飯島さん!?」
私に気づいてかなり驚いたようで、手に持っていた紙をバラバラと床に落とした。
「あぁあすいません!」
慌てて拾い集めて、パソコンに向かい合う。
「はい、珈琲どうぞ。一度リラックスしたほうが良いわよ」
「あ、ありがとうございます」
珈琲を一口飲みながら横目で私を見るが、目が合うとすっと逸らす。どうやら私と目を合わせるのが駄目なようだ。
パソコンの画面に目をやると、うちで取り扱っている商品の売り上げ情報をまとめているようだった。得意先を回る時に一緒に持っていくためのものだ。
「そんなの、誰かが持っているでしょ?」
「でも、いつか一人で回る時は、自分で作って持って行かないといけないので、今のうちにできるようになりたいんです」
ずいぶん真面目なことだ。
「いきなり完璧にしなくてもいいのに、私が新人の頃はもっと適当だったよ」
「私と飯島さんでは頭の出来が違いますから。私は賢くないので、人より頑張らないと」
「ま、そう言うならいいけど」
そういう真面目さも取り柄の一つだ。努力というのは必ずしも実るわけではないが、努力の跡が見えれば失敗したとしても心証が変わってくる。文句を言いづらい人間になるというのも、ある意味では営業力と言えるだろう。
「でも、物事には限度があるから、七時までね」
残業時間削減を謳ったこの時期に、新入社員が残りすぎるのも良くない。
「分かりました」
そう言ってまたパソコンに向かい合う。私は少し後ろから作業の様子を見ることにした。
教えてもらった事をまとめている無印のノートには、カラフルな付箋がいくつも挟まっている。チラッと見えた中は黒いボールペンで書かれた文字に、大事なところを赤字で書いていたり蛍光ペンで線を引いたりしていた。それとは別にスケジュール帳を持っているらしく、トートバッグの中に無造作に突っ込まれていた。バインダーに挟まれた資料の束も見える。
スケジュール管理もメモの作成もスマホで出来る時代だけれど、人によってはアナログの方が合っているのかもしれない。私は両方ともiPadで管理しているが。
「はい七時。じゃあ帰りましょう」
「う……わかりました。諦めます」
そういってパソコンの電源を落とす。
「じゃ、ご飯でも食べに行く?」
「え、いいんですか?」
「もちろん。良いところ教えてあげるわ」
「わぁ行きます行きます!」
子犬のように跳ねる。尻尾があれば大きく振っているだろうなと思った。
訪れたのは駅前にある小さなイタリアンレストランだ。海外で修行したというシェフとその妻が一昨年にオープンした店で、客席も十席ほどしかない。通りから一つ路地に入った先にある小さな店なので意外と知られていない、いわば隠れ家のようなところだ。チェーン店と比べると値段は高いが、その分味は確かだ。
「すごいお洒落な店ですね。こんなところ知っているなんて、流石です」
確かに、東京のど真ん中にあってもおかしくない店だ。
「雑誌に書いてあったのよ。カルボナーラが自慢らしいから、チーズが嫌いじゃなかったらそこからいくのがいいわ」
「なるほど、自慢の一品ですか。どおりで千二百円もするわけですね」
滝口さんはメニューを食い入るように覗き込んでいる。学生が気軽に来るようなところでもないから珍しいのだろう。十分に余白を取った日本語とイタリア語で書かれているメニューは、それだけで特別な場所を訪れている気分にさせてくれる。
「今日は出してあげるから、ついでにパンナコッタでも食べなさい」
「あ、ありがとうございます……ところでパンナコッタとは何でしょう?名前は聞いたことがあるのですが」
「プリンみたいにつるっとしたスイーツなんだけど、卵を使ってないのよ。ババロアとかにも似ているかな」
「なるほど」
「滝口さんの個人的な歓迎会も兼ねているから、お酒が飲めるならワインもどう?」
「そんな、歓迎会なら既にしていただいてるので……」
会社全体での歓迎会は近くのチェーン展開している居酒屋で早々に終わらせている。
「まぁまぁ。少ない女同士なんだから、遠慮しないの」
「うぅ……すいません。では、ワインを少し……」
ここが大きな店だったら「滝口さんの生まれ年のワインを」と言いたいところだが、あいにく個人経営の小さな店なのでそこまでの用意はなかった。それなので私の好きに選ばせてもらった。
それから滝口さんの学生時代の話や、仕事の話なんかをしながら食事は進んだ。
「滝口さんら景香女子大なのね。キャンパスは隣の県だったかしら?」
「はい。ここからならJRで四駅ですね」
「高校の時に仲が良かった友達がそこに行ったわね」
「そうなんですか。私は幼馴染と一緒でした」
「幼馴染か。長い付き合いの友達っていいわね」
「そうですね。小学校から大学まで一緒でしたから。あ、そういえば。ここのお店、雑誌で見たって言ってましたけど、もしかして『アラウンド』ですか?」
「そうよ」
アラウンド。片田舎である地元に密着した情報誌である。この辺りの店を紹介している情報誌なんてそれくらいしかない。
「その幼馴染が、アラウンドを発行してる出版社に就職したんです」
「そうなんだ。じゃあいつかその幼馴染が記事を書くのかな」
「かもしれないです。今はまだ先輩についてまわって勉強中らしいです。私みたいに」
「最初はね。まずは仕事を覚えてもらわないと」
「そうですよね。で、最近その子から会社の先輩がカッコイいってずっと聞かされてるんですよ」
何度も同じ話しを聞かされているのだろう。とげのある言い方だが、不満や怒りというより、羨望の目で見ているような雰囲気だ。
酔いが回ってきたのか、顔が少し赤くなってきている。もう少し早めに止めておくべきだったか?
「でも次会ったら、うちにもお洒落でカッコイい先輩がいると言ってやります」
何で張り合っているんだろうか。付き合いの長い友達同士ではよくある話かもしれない。が、ここまで遠慮なく話してしまうと言うことは、かなり酔ってきているということか。
ボトルに残ったワインを全て自分のグラスに注ぐ。これでもう飲めない。
「ずいぶん酔ってきたわね。大丈夫?」
「うーん……。麻里佳に来てもらいます」
そう言ってスマホを触る。麻里佳とはさっきから話している幼馴染だろうか。
お会計を済ませて、滝口さんを駅前のベンチに座らせる。コンビニで買ってきたペットボトルの水を渡すと素直に飲み始めた。視点が定まっていない。幼馴染に迎えにきてもらって正解だ。この様子でひとりで帰るのは危ない。
「ごめんね。もう少し早めに切り上げるべきだったわ。」
「いや、私が悪いので……大丈夫です。飯島さんとは、ずっとお話をしたいと思っていたので、つい飲みすぎてしまって」
顔は真っ赤だが、少し落ち着いた声になる。バツが悪そうに俯いて、悪いことをした子犬みたいだ。
「すいません。気付いてましたよね、私が遠くからジロジロ見ていたこと。飯島さんみたいな大人の女性に憧れていて、どうしても……」
あれだけ視線を送っていたら流石に気がつく。滝口さんは一瞬だけ顔を上げ、今までで一番近い距離で目が合う。お酒で赤くなった顔に潤んだ瞳がきらきらと光る。
「私……」
この独特の雰囲気は既視感がある。学生時代によくあった、告白される前の少し甘い張り詰めた空気だ。
このまま告白をされたらどうしよう。正直に言うと、滝口さんから感じる視線はそういう感情を帯びていたような気がする。
「香織?」
声がした方を向くと、髪を後ろで束ねた私服姿の女の子がいた。
「あ、麻里佳」
どうやらこの子が迎えにきた幼馴染らしい。スポーツをしていそうな活発な女の子だ。
助かったと思った。
「すいません。香織が飲みすぎてしまったみたいで」
「いえ、私こそ気づかなくてごめんなさい。わざわざ来てもらっちゃって」
「大丈夫です。慣れてますから。はい、帰るよ〜」
そう言って滝口さんを立たせる。
「今日はありがとうございました」
「明日に響いていたら、会社には私からフォローしておくから。じゃあまた」
ふらふらの滝口さんを支えてゆっくりと歩き始める。長い付き合いだから出せる、遠慮のない熟年夫婦のような後ろ姿に見えた。
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