雨、レストラン、煙草、神社
九道弓
雨上がりの
雨は月曜日の昼から降り始め、降ったり止んだりを繰り返して、金曜日の夜にようやく月が顔を見せ始めた。会社を出て電車に乗る頃には、傘なしで歩けるほどの天気だった。
傘は閉じたまま持ち歩くにはすごく不便だと思う。まっすぐ持つには長すぎるし、横に持つと子どもの顔に刺さりそうになって危ない。仕方なくやや斜めに持つことになるが、どうも腕の収まりが悪い。
こういうしょうもない事に少しイラッとするのは、最近禁煙を始めたからだろうか。喫煙者への風当たりが強くなってきたからと、軽い気持ちで禁煙を始めてみたが、今になって後悔している。普段は何も問題はないが、ちょっとしたことが気に入らなく感じ、その度に口元が寂しくなる。電車を降りたら喫煙所で一本吸いたいと思うが、鞄に煙草が入っていない。
東京と違って地方の電車は古いタイプの車両が走っているので、ガタガタとよく揺れる。雨上がりの湿度の高さが身体にまとわりつく。やはり煙草が欲しい。
最寄り駅で改札をくぐり、スーパーで惣菜でも買って帰ろうかと足を北口の階段へ向けたときだ。向こうから腕を組んだ女性ふたりが歩いてきた。ちょっと仲の良い友達のような雰囲気だ。
片方は知らない人だったが、もう一人は知っている。飯島真尋だ。
高校卒業以来会っていないから、もう七年ぶりになる。同い年のはずだけど、ずいぶんと大人の女性になっていた。レディーススーツを着て化粧をし、革製のやや高級そうな鞄を空いた方の肩に掛けていた。黒い髪は昔から変わらずだが、毛先がややウェーブして綺麗にまとまっている。少しヒールのある靴を履いているのに、足取りはモデルのように優雅だった。お世辞抜きに綺麗になっている。彼女のいる空間だけ東京の一等地のようだ。
県内で一番偏差値の高い大学に行ったはずだが、地元に就職していたのか。
遠目で見て一瞬で分かった。当然だ。高校三年間ずっと好きだった。付き合っていたわけではないが、自分にとって青春の大部分を彼女が占めている。
卒業してからは一度も会っていない。友達として仲は良かったから、会いたいとは思っていた。いや、そうだろうか。会えるとなったら尻込みして逃げていたかもしれない。薄れていた恋愛感情が再燃したらと思うと怖い。
その飯島真尋がそこにいる。その現実を認識した途端、落ち着かない気持ちになる。背中からざわざわと、得体の知れない不安が登ってくる。首筋をがっちりと掴まれた気分だ。足が止まる。
少しずつ距離が近付くが、真尋はまだ気付かない。一緒にいる女性もスーツを着ている。会社の同僚だろうか、真尋より少し背が低くて少し幼げな印象がする。ふんわりとした雰囲気の可愛い人だ。
一歩距離が縮まる度、高校の頃の思い出が蘇ってくる。
一年生のゴールデンウィーク明け、入学して初めての席替えで隣になったのが真尋だ。
長い黒髪を後ろで束ねて、赤い縁のメガネをかけていた。シャツのボタンを一番上までちゃんと留めて、スカートも膝下まで。窮屈なブレザーを着崩すことなくきちんと着用していた。その為か、同い年のはずなのに少し年上に見えた。
彼女は、当時流行っていたバンドのストラップを筆箱に付けていた。妹がそのバンドのファンで、家に同じロゴの入ったポスターが貼ってあった。
「そのバンド、うちの妹も好きなんだ」
確かそんな言葉をかけた気がする。それから少し他愛のない話をした。
笑うとき、少し手で口元を隠す仕草が美しかった。大和撫子とはこういう人を指すんだろうなと思った。
そこからよく話すようになった。自分とは全然性格も違うし、価値観も違っていたが、何故か話が盛り上がった。
多分、真尋は違う価値観に興味を示し、否定することなく理解しようとする人だったからだと思う。マトリョーシカをひとつずつ時間をかけて開けていくような、そういう人だった。全て開けきって、互いが理解し合ったとき、不思議な満足感があった。共同作業の達成感というのだろうか。
真尋は美術部に所属していて、何度か絵を見せてもらったことがある。油絵で描かれた鮮やかな花の絵だった。油絵はもっと荒いものだと思っていたが、真尋の絵は緻密で細やかな絵になっていた。こういう所に性格が出るんだなと思った。
一年の夏休み、隣町の花火大会に二人で出かけた。浴衣姿の真尋を見て、自分の恋愛感情に気がついた。
花火よりも、花火に照らさせる真尋の横顔に視線が釘付けになった。色が変わる度、透き通った素肌に様々な色彩が浮かぶ。今も脳裏に焼き付いている。工芸品のような美しい横顔だった。
花火が心臓をドンドンと打つ。好きなんだなと理解した。人生最初で最後の感情になるような、そういう感覚があった。
でも真尋と結ばれることはないだろうと思っていた。だからその気持ちを押し殺して、友人としての付き合いを続けた。多分、真尋には気づかれていなかったと思っている。
真尋はその見た目や性格の良さからかなりモテていて、卒業までに十人以上から告白されていたが、その全てを断っていた。「付き合うっていうのが、よく分からないんだよね」そう話していた。「ピンと来ないというか、自分の生き方とは違う気がして」そう言う目線の先には、手を繋いで歩くカップルの姿があった。よくわからないものを見るような、そんな表情をしていた。
だから自分は告白をせず、良き友人でいようと思った。
そのまま三年間が過ぎた。
卒業式の日、ふたりで歩いて帰った。どちらからともなく手を繋いだ。何故手を繋いだのか、いつから手を繋いだのか、記憶があやふやだけど、覚えている範囲では町を横切る川沿いを歩いていたときには、真尋の体温が手に伝わってきていたと思う。卒業証書や卒業アルバムなんかが入った袋を片手に、空いた方の手から真尋の温かさを感じた。
言葉もなくただ歩いていた。まさかこんな状況になるだなんて想像もしていなかったから、何を話せばいいかわからなかった。話したい事なんて山ほどあるのに、今まで当たり前のようにたくさん話してきたのに。
真尋は県内で一番偏差値の高い大学に行く。自分はそこからふたつほど下の県外の大学だ。これから何度会えるか分からない。遊びに行きたいと言ったら会ってくれるとは思う。でも、これから先の話が口から出てこなかった。
まるでこれが最後のようにゆっくりと足が進む。世界にふたりだけしかいないかのように静かだった。人の声も車の音も耳に入ってこない。
握った手に力を入れると、真尋からも握り返してきた。心臓の鼓動が一段上がり、耳まで赤くなったのがわかる。
今、好きだと言ったらどうなるのだろうか。「実は私も」なんて、そんな都合のいい話は期待できない。
卒業式のあと、好きな人と手を繋いで帰った。そんな綺麗な思い出にしておきたかった。
駅まで着いて「それじゃあ、また」と声をかけて離れた。真尋は「うん」と小さく返してくれた。
互いの家は路線が逆だった。反対側のホームで電車を待っている間、視界の端で真尋の姿が見えていた。耳まで真っ赤な姿を見せたくなかったので、少し俯いて地面を見つめていた。
やってきた電車に飛び乗って、すぐに空いてる席に座った。手に残る真尋の体温が冷めていくにつれ、喪失感が広がっていった。涙がひとつ、頬を流れた。
その後、気まずくて自分から連絡ができなかった。真尋からも連絡はなかった。
そうして、高校時代の恋愛は終わりを迎えた。
それから、大学を出て地元の小さな出版社に就職をした。今年で三年目。こんな自分にも慕ってくれる後輩ができた。同じ大学から来たふたつ下の活発な女の子で、仕事を教えているうちの仲良くなった。この間付き合って欲しいと言われたが、返事ができていない。
いい子だと思うけど、返事をしようとする度に真尋の顔が出てきて言葉がしぼんでしまう。
駄目な人間だと思う。昔の片思いを引きずって、好きだと言ってくれる人の想いに向き合えない。
そうやって逃げるように帰宅しようとしている今、真尋が目の前に現れた。
目の前まで来て、ようやく真尋と目があった。彼女もはっとした表情になる。
「久しぶり」真尋の口から呟きのような言葉が漏れる。その言葉に反応して絞り出すように「久しぶり……」と返すが、互いにその後が出てこない。元気してた?と言えばいいだけなのに。
一緒にいた友人の女性は、組んでいた腕を離す。腕が空いたことに気がついた真尋は、思い出したようにその人に向かって「高校の時の友達」と小さく説明した。
その女性はこちらを探るような目でじっと見つめてきて「どうも……滝口です」と呟くように言った。あまり好意的な目では無いような気がした。犯人を疑う探偵のような目だ。
微妙な間が流れる。何か話せばいいのに、いきなり過ぎて何も出てこない。もし会ったらなにを話そうか考えたこともあるが、綺麗さっぱり消え失せていた。
「えーっと……」
しどろもどろになりながら、目線がふたりの間を泳ぐ。
その様子を、真尋は「この女は誰だ?」と解釈したらしく、また気がついたような顔になる。
「彼女は滝口さんで、同じ会社の後輩なんだけど……」
まぁそんな事だろうとは思う。別に滝口さんが何者かは気にはなっていなくて、ただ久しぶりの再開を後味の悪い物にしたくないので、気の利いた言葉を探していただけだ。真尋の中では良い友人として残っていたい。今までも、これからも。
「えっと……それで」
真尋も言葉を探すように目線が泳ぐ。
そして、意を決したようにはっきりとした言葉で話した。
「今、この人と付き合ってるんだ」
「……え?」
本当に?と言葉が出かかったが、真尋の真剣な目を見て飲み込んだ。彼女が言うならそうなんだろう。
真尋の言葉が反響するように繰り返される。色々な感情がごちゃごちゃになって思考がとまる。滝口さんの表情は、付き合っていると言ってくれた嬉しさでいっぱいの様子だ。その喜んでいる顔を見て真尋も笑みを浮かべる。
その様子を見て急にこの場を去りたくなった。
「そう……じゃあまた」
そうやって話を終わらせることしかできなかった。
「うん」
足早にふたりの横を通り過ぎる。真尋の幸せそうな顔を前にして、どういう態度をとればいいのか分からない。あんな美人を周囲がほっとくわけがないし、仮に恋人がいても優しい言葉を掛けてあげられると思っていた。でも、今は感情がひっくり返ったみたいに落ち着かない。
足の赴くまま歩き続け、ようやく落ち着いたとき、どこか知らない場所まで来ていた。ビルの隙間から駅が見えるから、そこまで遠くに来たわけではないようだ。汗が頬を流れる。ビルのガラスに反射する自分の姿がひどくみっともなく見えた。私服勤務だからってシャツにデニム、黒い無地のバックパック。まるで高校生の時から進歩していない。真尋は綺麗にスーツで着飾っていたのに。
鞄の中を乱暴に探るが、煙草の箱は出てこない。
脳裏にさっきの光景が蘇る。腕を組んで歩いてくるふたりの姿が。彼女を見て穏やかに微笑む真尋の顔が。あれは友達ではなく恋人同士の姿だったのか。
真尋は女の人が好きだったのか?だから何人もの男子に告白されて、その全てを断っていたのか?
なら、それならば。あの時、卒業式の帰り道、手を繋いで歩いたあの時……。
私が告白をしていたら、未来は変わっていたのだろうか。
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