覚悟
七橋から三行半を突きつけられた日から一ヶ月が経とうとしていた。その一ヶ月の間に、世界は変わり始めている。
七橋が言っていたように、シシャを恐れる人々は増え始めて、今や二人に一人はシシャの排斥に賛成している状況となった。そしてシシャを保護しようとする人たちとの諍いも絶えず、衝突することもある。
そして、最も問題となっているのが死亡者数、特に自殺者数の増加である。シシャの存在により、死んでも先がある、むしろ死んだらしがらみから解放されると考える人が多くなり、自殺を考えているが踏みとどまっていた人達が次々と自殺した。今まで息を潜めて問題を起こさないようにしてきた人々が、堰が切れたように死んでいく。そのため、労働者不足が問題化し、今までの労働問題のツケがここに来ているとニュースで報道されている。
一人で死ぬのならまだしも、周りの人も解放すると、通り魔的な殺人事件も後を絶たず、誘拐事件も起きているらしい。
『この世界の流れを淀ませ、人々に苦しみを与えることになる』
七橋の言葉を思い出す。俺が門を開けたことで、多くの人々が死んだ。俺は取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
どうしようもなく、気分を晴らすために駅前に食事をしようと、扉を開ける。ちょうどその時に、阿野さんが男の人を連れて帰ってきていた。
「あ、今から出かけるの?」
「ええ、ちょっと食事にと」
「そうなんだ〜。あ、まだ言ってなかったかな?この人の事」
「初めまして、大木って言います。シシャですけど、よろしくね」
「シシャなんですか」
「そうそう、ようやく帰ってきてくれたんだよ!もう嬉しくて嬉しくて。あ、無駄話だったよね」
「いえそんな。仲良いんですね」
「そりゃあもう。それじゃあね、美味しいもの食べるんだよ」
そう言って二人は部屋に入っていった。
阿野さんのように、シシャの存在を歓迎する人もいるし、大木さんの方も楽しそうな様子だった。
でも、七橋の言葉が頭から離れない。
『僕たちは人間じゃない』
大木さんも、同じような思いを抱いているのだろうか。
駅前の商店街に着く。さて、何を食べようか。いつものラーメン屋にするか。いや、今日は米が食べたい。それなら和食屋にでも…。
考えを巡らせていたが、前から叫びながら人々が逃げて来ているようだった。何だろうと思い、彼らの声に耳を傾ける。
「通り魔だ!包丁で刺されるぞ!」
こんな街にも通り魔が現れたのか!?とりあえず俺は近くのコンビニに入ってやり過ごす事にした。おそらく犯人は猪突猛進、周りの店にわざわざ入るような真似はしないと考えたからだ。
本棚に身を隠しつつ、窓から様子を伺う。数十秒後、返り血を浴びた男が狂った様子で包丁を振り回しながら走っていった。数分待ち、帰ってこないことを確信した俺は、犯人が走ってきた方へ向かった。
そこには、さっきまでの活気溢れる商店街は無く、惨憺たる光景だけがあった。
先程の男に刺された人達が地面にうずくまり、親しい人が救急車はまだかと狂乱状態で助けを求める。腕や腹など、刺されている場所は人それぞれだったが、胸に刺されてしまった人達は、筆舌に尽くし難い形相で即死していた。
辺りにも血が散乱し、耐え難い異臭を放っている。
俺は耐えきれず、路地裏へ行き、嘔吐した。
死んだ。多くの人が死んだ。脳裏に死んだ人の顔が浮かぶ。俺が門を開いたから。
俺が、殺したのか。胸が痛む。俺はどうしたらいいのかと目を瞑るしか無かった。
カラン、と音がした。聞き覚えのある音に、俺は即座に振り向く。鍵があった。あの日、門を開いた、荘厳な装飾が施された鍵。
何でここにあるのかと訝しげに鍵を拾う。
ハッとした。この鍵で門を開いたのなら、この鍵で門を閉じることも可能なはずだ。
俺は衝動に身を任せ、鍵を己に突き立てる。
世界をあるべき姿にと、俺は願いながら鍵を回す。
だが何も起こることはなく、俺は愕然とする。ピーポーピーポと救急車のサイレンで正気になり、飯を食べる気分にも当然なれないため、家へと帰ることにした。
家路の途中、ずっと考えていた。何故門は閉じなかったのか。何があの時と違っていたか。そして1つの考えにたどり着く。あの時との違いは、利用しようとした肉体が死んでいるか否か。そして今回閉じなかったということは、死んだ者を利用しない限り門を閉じることは出来ないということだ。
家に着くと、珍しく手紙が入っていた。誰からだろうと差し出し人を見ると、七橋と書かれていた。
驚いた俺は、さっさと靴を脱いで内容を見る。その内容は、呆気ないほどシンプルだった。
『三日後に飼育部に来い』
何故いきなり?何を考えている?いやそれよりも…。
色んな疑問が脳内を駆け巡る。そして、何の脈略も無く気付いた。七橋はシシャで、死んでしまっている。彼の魂を利用すれば、門は閉まるのではないか。
確証は無いが、おそらくこれしかない。だが、それをするということはつまり…。
薄い壁の向こうから、楽しげに話す阿野さんと大木さんの声が聞こえる。阿野さんの心の拠り所は、おそらく大木さんだ。門を閉じてしまえば、大木さんは消えてしまうだろう。
世界が本来の姿に戻ったら、本来存在し得ない者達は消えるだろう。
阿野さんは、絶望に沈む。喜びを与えられ奪われる苦しみは、想像に難く無い。
それだけじゃない。門を閉めれば、俺は全ての命を再び弄ぶことになる。だが、今日死んでしまった人達のような犠牲をこれ以上増やす訳にはいかない。
これは愚かな夢を抱いた俺が抱かなければならない罪なのだろう。
鍵を握りしめ、俺は覚悟を決めた。
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