桜の雫

若子

永遠

 カラン、と郵便受けに手紙を入れるか音が聞こえて、目が覚めた。まだ日も昇っていない明朝。薄暗い天井を見てこれは二度寝が出来るなと思ったが、妙に寒く感じて、ぼうっとした頭で一緒に寝てるはずの彼女を引き寄せようと横を見る。しかし、そこに彼女はいなかった。


 ………もう起きたのかな。もしかしたら、職場に持っていくお弁当を作ってくれているのかもしれない。そうなら、いいな。彼女が弁当を作ってくれたことはないけれど、もし作ってくれるなら、仕事も順調にいくに違いない。昼休憩に会って、桜の木の下で一緒に食べるのも良い。花見は昨日もしたけれど、何度したって別に良いだろう。


 そんな思考を巡らせて、僕はにんまりと笑いながら聞き耳を立てる。けれどもすぐに、あれ、と思った。聞こえてくるのはバイクが走っていくような音と、鳥のさえずりの声だけである。足音も、テレビの音も、ゲームをしているような音も、何も聞こえない。


「さくらー?」


 少し大きな声で愛しい彼女の名前を呼んだ。しかし、それに応える声はなく、ただ家の中は静まりかえっていた。

 なんだか嫌な予感がして、僕は布団から出る。リビング、トイレ、押し入れ。どこにも彼女の姿はなく、もしやと思い玄関に行けば彼女の靴は無かった。僕の名前をふにゃりとした顔で呼ぶ愛おしい彼女は、忽然と姿を消したのだ。なんの脈絡もなく。相談も何もしないで。

 僕は慌てて寝室へと戻り、彼女にメッセージを送ろうとスマホに手を伸ばす。スマホカバーを開くと、ぱらりと紙が落ちた。

 桜からの伝言に違いない。そう思って、大慌てで紙を開いた。


「ごめんなさい」


 手紙の最初の一言で全てを理解してしまった。僕は振られたのだ。最愛の彼女に。そろそろプロポーズをしようかと計画を立て始めたときに。頭の中で、友人が「あんなに幸せだったのに彼女に捨てられた」と数日前に泣きわめいていた声が鳴り響く。まさしく明日は我が身。幸せに浸っているところに、冷や水を浴びせられた。地の底に落とされた。神などいない。いるとしたらこれは試練か。こんな試練など人生には必要ないから誰か嘘だと言ってくれ。

 君と恋人同士になれて、同棲を始めて、今日も昨日までと同じように、朝起きれば君が横で眠っていると思っていた。花見を毎年して、誕生日をお互いに祝いあって、キスをして。幸福は、これからもずっと、続いていくのだと、僕は今まで疑いもしなかったんだ。

 手が震えていた。この先を読みたくないと思った。不満なら振る前に言ってくれ。こんなの、遅すぎるじゃないか。僕の名前を呼ぶのは君だけで良い。僕が見つめるのも、僕が愛を囁くのも、君だけで、君じゃなきゃ駄目なんだ。言ってくれたら、すぐに直したのに。君になら、どんなものだって差し出すのに。

 涙が湧いて、こぼれ落ちる。こぼれ落ちた先は、僕への最後のメッセージ。紙の上に落ちた雫は、じわりと紙に広がっていった。

 涙をぐっとこらえて、文字の羅列を追っていく。ああ、桜の文字だと思いながら、しかしその内容は頭に入ってこなかった。

 中盤で、ふと目が止まった。これは、涙の跡だろうか。僕の涙ではない。もう乾いてしまったその雫の持ち主は、桜だ。泣きながらこれを書いた?何故?

 混濁した意識がぱっと晴れて、僕は大真面目に手紙を読み始める。試練だ。これはきっと、愛の試練なのだ。僕は試されている。乗り越えなければいけない。きっと乗り越えた先に、桜が待ってるんだ。


「ごめんなさい。私は、怖くなったのです。この幸せは、いつまで続くのでしょうか。今が一番で、この先は散るだけなのかもしれない。そう考えると、私はたまらない恐怖に襲われます。……貴方が私のことを愛してくれているというのは、分かっています。きっと貴方は、いつまでも続くと言ってくれると思うのですが、しかし、人というものは、変わってしまうのです。私はそれが恐ろしい。そして、いつか変わってしまうかもと貴方を疑ってしまうのが、苦しいのです。いつか変わってしまうなら、今、最高に幸せなときを止めてしまおうと、そう思いました。我が儘でごめんなさい。相談できなくて、ごめんなさい。けれど、私がいなくなることで、心から泣いてくれるだろう人の顔を思い浮かべることが出来る私は、幸せ者です。自分勝手な私を、許してください。大好きでした。幸せな時間を、ありがとう」


 不気味な浮遊感が僕を襲った。頭皮を抜け骨を抜けて、黒い何かがずるりと脳の隙間に入ってくるようだった。次の瞬間に感じたのは、怒りと焦燥感。たまらなくなって、僕は家を飛び出した。


「桜!!桜!!!」

 

 あんな手紙、まるで、遺書みたいじゃないか。今から、死ににいくみたいじゃないか。やめてくれ。他になにも望まないから、死ぬのだけはやめてくれ。ああ、ただの別れ話であったなら、どれだけ良かっただろう。君が生きてるなら、もうなんでも良い。生きていてくれ。思い違いであってくれ。

 公園。肉屋。スーパー。ゲームセンター。駅の近くのベンチ。河川敷。いない。どこにもいない。どこだ。彼女は、どこを最後に選ぶ。彼女なら………

 遠くで、救急車の音が聞こえた。桜だ、と思った。嫌な汗が背中を流れる。浅くなった息、早鐘を打つ心臓。救急車の音。この世界には、この音しか存在しないのではないか。

 僕は項垂れる。足が動いてくれなかった。……怖いのだ。死んだかもしれないなんて、本当は考えたくもないのだ。どうして死ぬんだ。幸せなら、それでいいじゃないか。これから、もっとたくさんの幸せを、僕は約束できたんだ。信じてくれよ。どうして、信じてくれなかったんだ。僕はこんなにも君を愛していたのに。本当に、愛していたんだ。変わることなんてないんだ。死なないでくれ。もし、本当に、彼女が死んだなら、僕は……


「僕は桜を愛したんだろう!最後に一言、桜に届くかもしれないじゃないか!!」


 自分に活を入れて、僕はその音に向かって走り出した。

 人が死んで、最後まで残るのは聴覚だという。教えてくれたのは、桜だ。ロマンチックだねと、そんな話をしていた。ロマンチックにはならないかもしれない。それでも、それでいい。最後に、一言だけ、伝えたい。

 音に近付くほどに、人影が増えていく。邪魔に思いながら、うまく避けて走る。満開の桜がいやに幻想的に花びらを散らしていた。

 音が止まる。遅れて、救急車の元にたどり着いた。


「桜!」


 そこにいたのは、やはり桜だった。僕は勢いのままに彼女に近付く。青白い顔だった。癖で頬を触れば、もう、彼女に温もりはない。それでも、それでも。


「桜、愛してる。ずっと。一生、永遠に」


 最後に、精一杯の愛情を注ぐことが出来れば、それでいい。そう思った。

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桜の雫 若子 @wakashinyago

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