第1話-19「また今度」
「大きな声を出すな。思わず手が出そうになる」
「その指の形はおかしいんじゃないですかねぇ!?」
叫んだ桐也の声に身をすくめた立花は。
指を二本だけきれいに伸ばして手を桐也に向けた。
明らかに桐也に向かって、正確には桐也の目に向かって真っすぐ向けられた指に。
桐也は目を自分の手でガードしながらさらに叫んだ。
冗談が冗談に聞こえない立花に、体をがたがたと震わせながら桐也は。
目を守っている手の指の間に立花の指が入らない程度に隙間を開けて。
霞んだ視界で立花の顔を窺いながら。
「やっぱり怒ってるよね?」
恐る恐るといった桐也は訊ねる。
しかし立花はすでに手を下ろし、すんとした様子で「さぁね」とだけ答えて。
桐也に背を向けて、教室の扉側に歩き始める。
「さぁねって。やっぱり君が何考えてるかわからないよ」
「そもそも分かった気でいたのか?」
ふっと鼻を鳴らして傍目に桐也を見る立花は。
「二度会っただけで分かり合えたら人間苦労しない」
と、どこか諦念めいたものを見せながら言った。
分かり合えない、と言われて桐也は。
「確かに毎日顔合わせてる妹ですら分からないもんなぁ」
さらに諦念を通り越して悟りすら開いていそうな顔をした。
何やら分かり合えそうな雰囲気が漂っていると、桐也が感じ始めた一方。
立花は全くそうでもないようで、桐也を無視して教室を出ていこうとしていた。
「ちょ、ちょちょ。待ってよ」
「なんだ? もう話は終わっただろう?」
不愉快だと隠す気もない顔で振り向いた立花に。
だが言われると確かに話すこともない桐也は。
うーん、と数度頭をひねって。
「普段の授業には出ないの?」
という質問くらいしか出てこなかった。
「勉強は何処でもできる、というか高校レベルはもう学ぶこともない。来るだけ時間の無駄だ」
「そっか。君がいたら楽しい気がするんだけどな」
「私は本を読んでいる方が楽しい」
まずいものを食わされた時のように――げぇー、と。
口を開いて舌を垂らす立花のあまりの嫌がりように。
教室に来る気は毛頭ないらしいと桐也は理解する。
その姿に桐也は声を出して笑って。
「やっぱり君と話してると面白いよ」
まだいうのか、と言いたげな立花だったが。
続いた桐也の言葉にまた違う顔芸を見せることになった。
「僕が保健室に行くよ」
苦虫を噛み潰したように、これまでになく顎に力が入り、顔全体にしわが寄る。
――この男が保健室に来る?
この男が保健室に来たら静かに本を読むなど不可能である。
それだけは絶対に阻止をしたい。
「保健室は体調の悪い人のための場所だ。元気な奴が来ていい場所じゃない」
特に君のように病気の気配が微塵もないような奴は特に、と。
至極真面目な顔で一人、深く頷く立花だが。
「それ君にだけは言われたくないよね」
と、自分で放ったブーメランを丁寧に投げ返された。
「あれはもう私のベッドだし……」
最早論理など破綻しているが、絶対に来させたくない立花は冷静さを欠いていて。
「皆のものだよ」
「そんなことわかってる! ベッドは複数あるんだから私が一つ使っていたっていいだろう! 病人が同時に何人も来るわけでもないんだし!」
「だったら僕が行ってもいいよね?」
「……。確かに君が保健室に来るのは自由だが、養護教諭が滞在を許可するかどうかは別問題だ!」
「あの先生なら許可すると思うな」
「私もそう思う……」
万策尽きたと燃え尽きる立花に。
そこまで嫌がらなくても、と桐也は苦笑を浮かべた。
「別に君に何かしようってわけじゃないんだからさ」
悲愴に満ちた目で虚空を見つめる立花は。
「君が来るというだけで私の平穏は脅かされる。一人で本を読みたいだけなのに」
糸の切れた人形のように首を折って力なく笑った。
あまりの嫌がりように桐也も少しばかりむっとして。
「本を読むのは邪魔しないよ。君が話したくなったら話せばいい」
「どうだか。君のそのおしゃべりな口を閉じられるとは思わないけどね」
「僕だってずっと喋ってるわけじゃないよ。君が煽るから売り言葉に買い言葉で」
「うるさいうるさい! 私は帰る! さようなら!」
今日のところはこれ以上何を言ってもまともに会話できそうにないと。
桐也はそう判断しておとなしく引き下がろうとしたが。
あることを思いついて、まさに教室を出ようとした立花を呼び止めて。
「最後に一つ!」
「君とこうしていなければ本を一冊は読めていた!」
駄々をこねる子供のように、立花は手をぎゅっと握りこんで桐也を睨む。
「好きな動物とかいる?」
「は?」
あまりにも突飛な質問にその姿勢のまま数秒固まって。
桐也の顔を見るがやはりその意図は汲めず。
「なんだ急に」
「お礼に君にも小さなぬいぐるみをプレゼントしようと思って」
つまるところ今回お金を取り戻してくれたお返しとしてぬいぐるみをあげる。
だから好きな動物を教えろ。ということで。
「……ソ」
「ごめん。もう一回」
よく聞き取れなかったと、そういって耳を寄せてくる桐也に。
大きく息を吸って、その耳を麻痺させるくらいの気持ちで。
「カワウソ!」
今までで一番大きな声かもしれないと。
自分でもこれほど大きな声が出るのかと驚きながらも。
突然の大きな声に目をぱちくりさせて小刻みに震えていた桐也は硬直が解けると。
「カワウソね。わかった。それじゃあまた今度」
と。立花の顔を真っ直ぐ見据えて、手をひらひらと振った。
立花は一瞬の逡巡のあと、控え目に手を振って教室を去っていった。
教室に一人残った桐也は。
正面に掛かっている時計を確認して。
思ったよりも時間がたっていることに驚いて。
百貨店に寄って帰ることを考えると少し急がなければならないと。
机の横に掛かっている自分のカバンを手にして昇降口へ向かった。
この物語にはまだ題名が決まっていない 遠坂 青 @s4xt
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