第1話-15「再会」

 ――授業が終わり、放課後。

 生徒たちは帰宅したり部活に行ったりと、部活動で使われる特別教室以外に校舎内の生徒たちの姿はなく。

 廊下は電気も消え、静けさが水のように広がっていた。

 その中を、水面を揺らす水黽のように動く影が一つ。

 音をたてないようにしているが、他に音を出すものもなければ、足音が小さく廊下に響く。

 その音に、教室に一人残っていた桐也が耳を立てる。

 待っていたその人が来たであろう音が。

 教室に近づいてくるのを確認して。

 桐也は椅子を立って教室の扉に向かった。

 桐也が扉の前に立つのとほぼ同時、廊下からの足音も途絶えて。

 静寂を打ち破るような音を鳴らせて扉が横にスライドした。

 開いた扉の先に立っていたのは桐也の胸辺りまでの背丈をした人形のような小さな少女。

 相当な力を入れて扉を引いたのか、少し疲れた顔をして。

 一息ついて教室に入ろうとしたところで、

「わぶ……」

 桐也に正面からぶつかる。

 体格差的に桐也はノーダメージだが。

 立花は桐也のみぞおちあたりに顔をめり込ませて。

 右手で鼻を擦って上目に桐也を睨んだ。

「邪魔だが」

「君が来たのがわかったから」

「椅子に座って待っていればいいだろう。扉の前に突っ立ってたって無駄だ」

「君が来たと思ったらいてもたってもいられなくって」

 逸る気持ちを抑えて、立花が教室に入れるよう体を半身ずらしながら言った。

 その隙間から教室に滑り込みながら立花は、

「その様子だと、うまくいったみたいだな」

 うまくいった、とはつまりお金が返ってきたということで。

 桐也は顔を輝かせ、立花の手を両手に取った。

「そうなんだよ! 今朝、机の上にお金が置いてあったんだ!」

 突然手を取られた立花は驚いた顔をしていたが、

「そうか、それはよかったな」

 お金が返ってきたと聞いて安堵に息を漏らした。

「君のおかげだよ。本当にありがとう」

 桐也は一昨日の約束通り、改めてお礼を伝える。

 たった一言のお礼では言い表せないほどの謝意が桐也にはあるが。

 あまりしつこく言うと逆に嘘っぽくなってしまう。

 ただ一言を、シンプルに、立花の目をしっかりと見据えて言った。

 二人はちょっとの間だけ見つめ合うと、立花が目を伏せるように逸らして、

「君はよく面と向かってそんな小恥ずかしいことを言えるな」

 と照れ隠しに吠えた。

 桐也はさも当然というように、さらに続けた。

「感謝は伝えるべき人には言葉にして伝える。これが大事だからね」

「全身が痒くなりそうだ。というか痒い」

「僕が掻いてあげようか」

「警察に突き出すぞ」

「冗談だって」

 背を逸らせたり首を捻ったりする立花に、桐也は手をわきわきとさせて言うが。

 セクハラだぞ、という目で立花に返され慌てて訂正した。

「でもこれで無事にぬいぐるみを買えるよ」

 大きなぬいぐるみを抱える妹を想像して、頬を緩ませる桐也は。

 これもすべて立花のおかげだと溢れる感謝を胸にして。

「君には返しても返しきれない恩をもらっちゃったね」

 幸せを振りまくような桐也の様子に立花も頬を緩ませるが。

 純粋さで染まった空間に耐え切れなくなったのか。

「ではこれから馬車馬のように働いて返してもらうか」

 えげつない冗談でもって返すのが精いっぱいだった。

 桐也もだんだんと立花の毒舌にも慣れて。

「あまりにひどい命令はごめんだけどね。僕にも守るべき妹がいるんだ」

「なに、安心しろ。人としての最低限の尊厳は保てるようにしよう。まぁ私に仕える君の姿を見て兄としての尊厳が保てるかは疑問だが」

「待って僕に何をさせる気? 兄としての尊厳が失われるって人としての尊厳も失われてると思うんだけど」

 まだ甘く見ていたかもしれない、と桐也は思った。

「そこは君の感じ方次第だ。だが一つ言っておくと、人間というものは意外と丈夫でちょっとのことでは何ら問題なく生活できる。ただ他人との関わりは人間そのものの丈夫さほど強くはないというだけの話だ」

 さらりととんでもないことを言っている気がするが。

 もしかすると悪魔に借りを作ってしまったのでは、と桐也は思って。

 恐る恐るといった具合に、

「君はどうか知らないけど、僕は妹との関わりが壊れたら死んだも同然なんだけど」

「物で釣らなければ笑顔を見られないなど、既に壊れてそうなものだが」

 いきなり顔面にメガトン級のパンチを入れられた桐也はその場に倒れ込んだ。

 気づいてはいたが決して言葉にしてこなかった現実を。

 何気なく、いや悪意はあったのかもしれないその言葉で。

 容赦なく桐也に突きつける。

 意気消沈した桐也は立ち上がることもできず。

 ただ涙をしくしくと床に溢していた。

 そのあまりの惨めさに憐みを覚えたか、立花は。

「シスコンはモテないぞ」

 さらに靴のまま桐也の頭を踏みつけるに等しい行為を働いた。

 あまりのことに一周回って桐也は。

「たった一人の家族も大事にできないような人間よりよっぽどましだと思います!」

「さらに下と比較しても君が妹に嫌われてるシスコンという事実は変わらないぞ」

 手で耳をふさいでこれ以上聞かないぞと意思表示をするように。

 あーあーと立花の声をかき消す。

 立花は今度こそ憐みに満ちた目で、

「現実を見ろ。そんなことをしても妹は君を好きにならない」

 と優しく語り掛けるが。

 桐也はやはり聞く気がないようで。

 耳を完全にふさいで体も丸めて床に小さくなってしまった。

 ――何か間違ったことを言っただろうか。

 立花は小首をかしげながら思った。

 と、少しふざけすぎただろうか。

 ピクリとも動かなくなった桐也に、立花は僅かに罪悪感を覚えて。

「あー、大事なのは妹にどう思われてるかではなく君が妹をどう思ってるかだろう」

 下手に事実を捻じ曲げるというわけでもなく、それとない言葉をかけて。

 桐也はそれを訊いてどう思ったか。

 もそもそとさなぎを破って蝶が飛び立つように。

「そうだよね! 僕が妹を好きなんだからそれでいいんだよ。プレゼントあげたら喜んでくれるのは事実だし!」

 扱いやすいやつだ、と立花は心の底から思った。

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