第1話-10「義務教育の敗北」

 理不尽だ、と言いたげに桐也は口を開いた。

 あまりに真面目な顔で言う桐也に。

 立花はくらっと目を廻して。

「君はもう少し国語の授業を真面目に受けた方がいい。いや、小学校からやり直すべきか。だがここまでくるとそれすらももはや手遅れ。そうか、残念だがこれが義務教育の敗北というやつか」

「なんだかとても悲しみに満ちた目をしているね」

 遠く、天井のその先すらを見つめるように見上げる立花は。

「なに、少し日本の未来を案じていたところだ」

 と。立花は受けていないために実態は分からないが。

 ここまで通常の会話が通じなくなってしまったのか、と日本の教育に失望して。

 ――教育は将来の発展のための礎だぞ。

 やはり日本国内だけでビジネスを行うことは未来がない、との認識を確かに。

 立花は力なく笑った。

 だが立花にそんなことを思わせた原因――そんな心うちを知らぬ桐也は。

「随分と大きな問題意識を持っているんだね」

「君は自分自身に問題意識を持った方がいいぞ」

 失望と、哀れみの混ざった顔のまま、目だけを桐也に移して。

 義務教育の敗北を具現化したような男を目の前に。

 立花はもう一度力なく笑った。

「問題意識ね……」

 桐也は大げさに、腕を組んで顎に指をあてて考えるそぶりを見せる。

 だが桐也の頭に浮かぶのは自身の国語力などではなく。

 例の二万円が浮かんでくるわけで。

「そうだよ、問題だらけだよ!」

「君の頭がか?」

「違うよ! お金をどうしようかって話。買わなきゃいけない者があったのに」

 確認を取る程度のために訊ねた立花は、桐也の否定に驚いた顔をしていたが。

 桐也はそんなことに気を留めることもなく、どうしようと目を泳がせていた。

 立花は小さく頬を膨らませると。

「残念だったな。貯金を崩すか二万円が返ってくるよう憐れに天に祈るんだな」

 もう知らぬというように、そっぽを向いて。

 桐也は逆に立花を見て。

「そんな他人事みたいに」

「そりゃ他人事だからな」

 やはり国語力から鍛え直すべきでは、と立花は改めて考えて。

 でもそうなんだよ、と桐也は続けた。

「貯金はもうないから崩せないけど、二万円が返ってくれば万事解決なの」

 至極真面目な顔で。

 だが口にしていることは犯人を捕まえると同義で。

 そんな易々とできることでもあるまいと立花は思うのだが。

「簡単に言うが、君にできることは何もないんじゃないか?」

 そも、お金が盗まれたというならそれは警察の領分で。

 そうでなくとも学校で起きたことなら教師が対応しているはずだ。

 それで掴まっていないものを一介の生徒が捕まえられるわけもなく。

 立花はそう思ったが、続いた桐也の言葉にそれとは別の意味で言葉を失った。

「犯人の特徴は分かってるんだ、今からでも街に行って目撃証言を集めて……」

「待て」

「待ってたら犯人はどんどん遠くへ行っちゃうよ!」

「いや、そういうことじゃなくて。いやそうなんだが」

 桐也の独特な、論理があるようでないようなペースに惑わされてだんだんと立花も論理が崩壊してきているが。

 それでも、間違いなく聞き逃せない話が合ったことだけは確かだ。

 ――犯人の特徴がわかっている?

 だが、と立花は少ない可能性を捨てきれないでいて――

「犯人の特徴は?」

「確か、身長一七五前後で全身黒っぽい服装、マスクにこれまた黒い帽子を被ってたらしいよ」

 容赦なくごみ箱に捨てた。

 教室の隅にあるごみ箱は購買で買ったパンの袋やいらないプリントで一杯だった。

「それだけの情報があって! 私を犯人と間違えたのか!? 身長も、服装も、性別すらも違うのに!」

 どう考えても見間違うはずがない、と立花は声を荒げて言う。

「確かに」

「……。呆れて何も言えん」

「いやぁ、うっかりうっかり」

 あっはっは、と笑いながら頭を掻く桐也に。

 もう何度目かわからない呆れを通り越した目で。

 立花は、だが仕方なしに気を取り直す。

「本当に犯人の特徴はそれなのか?」

 立花の聞いてきたことの真意は分らずに。

 少し不思議な顔をして桐也は。

「そうだよ? 横井が――横井っていうのはうちのクラスのサッカー部のイケメンなんだけど」

「誰が言ったかなんてどうでもいい」

 途中で桐也を遮って考える。

 桐也はどうしてそんなことを聴いてきたのか、いまだ分からずに。

「どうしてそんなこと聴くのさ」

「いや、いかにも不審者ですというような格好だと思ってね」

 そういうことか、と手をたたいて。

 桐也は、

「そうなんだよ! だから今からでも街に行って聞き込みをすれば」

「何も情報は得られないと思うけどね」

 桐也は口を横に引き結んだ。

「校内なら目立って目撃証言もあるかもしれないが、街中ならそれくらいなんの特徴もないと変わらない。すれ違っても誰も気にも留めないだろう」

「じゃあ街で聞き込みしても無駄かな?」

 だろうな、と立花は何とはなしに答える。

 立花としてはただの事実を言っただけだったが。

 桐也にとってそれは思ったよりも悪い事実だったようで。

 落ち込んで肩を落とした。

「じゃあ僕の二万円は返ってこないのか……」

 一縷の望みすら絶たれたというように、顔に昏い影を落とす。

 ぶつぶつと、呪詛のようなものが溢れ出し床に散らばっていく。

 立花は汚いものを避けるように体を半身引いて。

「なくなったものは早々に諦めるんだな。貯金――はないって言ったな。だったらアルバイトするなり親に借りるなりすることを考えた方がよほど建設的だ」

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