第1話ー4「犯人」

 ぽつぽつと、時々他の生徒が声をかけてくれた気がしたがそれにも心ここにあらずといった返事で返して。

 あまりのショックに耐え切れない桐也の心は。

 身を守るために痛覚を遮断するように。

 凪いだ海のようにすべての感情を失っていた。

 同時に目に映る事物、耳から入る物音、誰かに押される触覚――これらすべての感覚が、生命維持に必要な反射と直結した部分だけを残して、重く静かな深い海底に沈んでいた。


 ――僕は今どこにいるんだろう。

 見渡す限り海と空とその境界線が見えるだけ。

 雲もなく、波もなく、ただ海の青と空の青とだけが目に入る。

 このまま自分と世界の境界線も溶けてひとつになっていくんじゃないかと。


 ――そう思ったところで。

 桐也の意識は深い底から拾い上げられた。

「西野、お前はいくら盗られたんだ?」

 椅子に座った担任が桐也の顔を見上げていた。

 視線を周りに移す。

 まずさわやかなスポーツ系のイケメン顔、横井が目に入る。

 そして先ほど教室の中心に集まっていたそのほか六人のクラスメイト。

 さらに全体に目を向けると、大きな灰色の机が向かい合い隣合い複数でいくつかの島を作っており、机の上には教科書やファイルなど、そして担任以外にも数人の教師が机に向かって作業をしていたりお昼ご飯を食べていたりコーヒーを入れたりしていた。

 ――ふむ、と。

 どうやらいつの間にか職員室に来ていたらしいと気づいて。

 そうしてようやく状況を把握した間に。

「すみません。西野は二万も盗られて傷心なんです」

 横井が代わりに担任の質問に答えてくれていた。

 桐也は横井を見ると、横井も桐也を見ていて、その整った顔に苦笑を浮かべた。

 桐也は横井の気遣いに感謝を抱きつつ、苦笑でもって応えると。

 担任が、お前たち――と続けた。

「今は一旦落ち着いて五、六時間目を受けなさい。手の空いている先生たちで対応するからまた何かわかったら連絡する。詳しい話はまた放課後に一人ずつ聴こう」

 何か言いたげなクラスメイトもいたが、結局何も言わなかった。

 実際問題として、生徒たちにできることは何もない。

 既にお昼休みの時間も半分が過ぎ、ご飯を食べる時間がなくなってしまう。

 生徒たちにできるのはお昼ご飯を食べて午後の授業を受けることだけだった。

 ――といっても、桐也はお昼を食べるためのお金すらないのだが。

 教師の言う通りに、今のところは各々残りの昼休み時間を過ごそうと職員室を後にしようとしたところで。

 そういえば――と横井が何か重要なことを思い出したというように。

「四時間目の授業中に見慣れない人を見かけました」

 担任は、立ち上がろうと浮かせた腰をもう一度椅子に落ち着けた。

「最初は普通に来客かと思ったんですけど、黒い帽子にマスクもしてたし、格好も黒っぽくてちょっと違和感はあったんです」

「背の高さは?」

「俺より少し低かったんで一七五くらいだと思います」

 そういって横井は自分の目の高さで手を水平に切った。

「そうか、わかった。目撃情報がないかとかも聞いてみよう。ありがとうな」

「いえ、怪我の功名ってやつですかね」

 屈託のない笑顔で横井は片足を膝から上げると足首をぷらぷらとさせた。

 そこには軽く包帯が巻かれ、四時間目の体育で負った怪我の治療跡だとわかる。

 怪我した上にお金まで盗られたら泣きっ面に蜂といいたくなるが。

 横井はそれ以上に良かった点に目を向ける。

 今回でいえば怪我をしたことで犯人に一歩近づけたかもしれないということで。

 盗みが出たというときも真っ先に他の生徒たちのフォローをして。

 優しさもリーダーシップも兼ね備えている。

 これが横井が男女問わず人気も人望もある理由で。

 男も惚れる男とはこういう人を言うのだろう、と桐也は思った。

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