第1話ー3「二万円……」

  ◆◆◆

 


 ――次に覚醒したのは二十分後だった。

 なぜ二十分と分かったといえば、この十分後に終業のチャイムが鳴ったからだが。

 目を覚ました時、利依は間違いのない不快感を覚えていた。

 先ほどから外で騒ぐ生徒たちの声に嫌気はしていたが、不愉快というほどではなかった。

 本を読むほどの集中はできないにせよ、眠ることで無視できる程度のものだった。

 今もそれは続いておりやはり本は読めないだろう。

 だが、それだけであれば。

 この時間で覚醒することもなく、四時間目を終えることができたはずだった。

 ではなぜ――

 利依は覚醒するに至ったのか。

 利依は不快感を覚えているのか。

 ――理由は至極単純だった。

 騒々しい原因が保健室に来たからだった。

 利依の寝ていたベッドは保健室にある三台のうち、最も奥の窓際にある。

 さらにカーテンで仕切られているため直接顔を見ているわけではないが、話から察するにサッカーで怪我して転がり込んできたようだ。

 養護教諭に治療してもらいながら雑談に花咲かせているようで。

 大きな声で楽しそうに笑っている。

 利依はカーテン越しに声のする方を睨む。

 保健室は病院ではないが、それでも少しは声を抑えるべきではないかと。

 特に保健室のベッドに誰かいる――実際のところ病人ではないが――ことがわかっているならば。

 しかしそう思ったところで聞こえてくる声が小さくなることはない。

 自ら声を上げて静かにするよう言う気もなければ。

 利依はこの時間だけで何度目かわからない溜息をついた。

 どうにもならないことはどうにもならない。

 利依は枕元に置いてあったハードカバーの大きな本を、その小さな手で取った。

 思考を止め、ただ時を流すように。

 手元で本のページを読むともなくぱらぱらと捲る。

 ――きわめて規則的に、数瞬の間をおいて。ぱら。ぱら。ぱら。

 結局それは四時間目が終わるまで、十分間続いた。

 終業のチャイムが鳴ると、騒音の元凶は軽い礼だけ言って保健室を去っていった。

 利依はページをめくる手を止め、本を閉じる。

 ――ようやく訪れた静穏。

 昼休みになると養護教諭も保健室を出て、どこかお昼ご飯を食べに行く。

 授業中じゃないために少しばかり生徒たちが全体的に浮足立つが。

 校舎の隅に位置する保健室なら。

 外で体育授業をされるよりは静かになる。

 一人だけの空間。

 この時間が、一日の中で最も利依の心が穏やかになる瞬間だった。

 利依は保健室に一人で。

 毎日家を出るときに持たされるお弁当バッグを鞄から取り出して。

 いつものようにただ静かに、無感動に。

 その小さな体に比例するように、一般的な女子生徒よりもわずかに少ない軽めの昼食を口へ運んだ。



  ◆◆◆



 桐也は体操着から制服に着替えると食堂へ行こうと鞄から財布を取り出した。

 懐事情を考えれば買うのではなくお弁当を用意したいところだが。

 そこまでの時間を毎日とるのは少し厳しい。

 必要なお金を稼ぐためのアルバイトに家事もこなさなければならない。

 少し値は張るが、それでも外食に比べれば格段に安い学生食堂でお昼を済ませるのが現状の最善だった。

 食堂とは別に購買もあるが、こちらは食堂に比べるとまた少し高い。

 お昼の時間の食堂はとても混んでいるので、それを嫌がる人たちか、お昼休みも部活に勤しむような人たちが購買を使う。

 従ってそもそもの準備量も多くない。

 もし好きに食べたいものを選ぶなら昼休みが始まった瞬間に向かう必要がある。

 今日は四時間目体育だったため、一部の生徒は体操着から着替えもせず、財布だけを掴んで購買まで全力疾走していった。

 あれだけ運動した後にまた走れるとは驚きものだが。

 安く抑えたく、待つことに抵抗もなく、部活に入っているわけでもない桐也にしてみれば、購買という選択肢は残念ながらなかった。

 そういうわけで今日も授業が終わってからゆっくりと制服に着替え、これから食堂に向かおうとしていたところで。

 だが突然、今日の昼食が失われることになった。

 教室の中央当たりから――

「金が盗られてる!」

 隣のクラスにまで聞こえるのではないかというほどの大きさで。

 一人の男子生徒が叫んだ。

 今まさに教室を出ようとしていた生徒も。

 友達と机を合わせてお弁当を食べていた生徒も。

 教室中の生徒全員が、手足を止め。

 全ての視線が教室の中心に向かって集まっていた。

 先程までの雑踏が瞬間冷却されたように動きをやめ。

 そしてまた動き出した。

「金が盗られてるってどういうことだよ、横井」

 そばにいた生徒が視線の交差する――横井に尋ねる。

 横井は財布をわかりやすく見せながら、

「どうもこうもそのままだよ。財布から金が抜き取られてんの」

 生徒たちは次第にそのざわめきを増していった。

 だんだんと、動物たちの群れの中に警戒が広まるように。

 ひとり、またひとり――自分も盗まれていると。

 怒り、悲しみを滲ませた同調が教室の中を支配していく。

 それは廊下から走りこんできた生徒によって、燃え盛る炎の中さらに燃料を追加したように、溢れ始めた。

「財布から金がなくなってんだけど!」

 教室に滑り込むと同時、生徒が叫んだ。

 教室のあちこちで会話が沸騰しては蒸発していく。

 ――桐也もまさかと自分の財布を確認する。

 心臓は周囲のどよめきに負けないくらい大きな音を立てている。

 その拍動を耳で、手で、胸で感じられるほどに。

 果たして。

 桐也は思わず口から、ひゅっという音を漏らした。

 じわりと背中に嫌な汗が出るのを明らかに感じる。

 心臓は変わらず――いや、先ほどよりも速く。

 固唾を呑んで、席を立った。

 横井の呼びかけでお金を盗られた人が教室の中央に集まっていた。

 全部で七人――自分を合わせて八人。

 横井が怒りに声を荒げる生徒をなだめながら、盗られた額を聞いたりして状況を整理していた。

 そこに、重い足取りで桐也も加わる。

「西野も盗られたのか。いくらだ?」

「二万円……」

「二まっ……?」

 ここまで努めて冷静に対処していた横井も、二万円という額には驚きを隠せなかったようで。

 ほかの生徒たちは概ねが数千円の被害。

 そもそも学校に持ってきているお金と考えればそれくらいが妥当。

 二万円も持っていた桐也が普通ではないのだ。

 桐也としても普段からそれほどの額を持ち歩いているわけでは当然ないが。

 今日だけは――。

 運がないと、自分で思う。

 大金を失った衝撃に、腕、肩、頭までのすべてがバランスを保つことをやめ、糸の切れた人形のようにずり落ちそうだった。

「あー、あまり深く思い詰めるなよ」

 その姿を見た横井は複雑そうに、だが少しでも明るく気遣う言葉をかけてくれる。

「ありがとう……。二万……か。二万だよなぁ」

 桐也は言葉にならない言葉で呻いた。

 二万、二万と口にしたところで二万円は返ってこないが。

 それでもじっと黙っていることができるほど冷静にはなれない。

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