第1話ー2「利依の生きる世界」

 まだ4時間目が始まって二十分しかたっていない。

 授業が終わるまでの三十分間はこの騒々しさが続くだろう。

 利依は本を閉じた。

 普段より盛り上がりを見せる外の情景を思い浮かべながら、利依は短く息を吐く。

 歓声が上がるたびに本への集中が切らされる。

 回数を重ねるごとに大きくなっていくその歓声に対し、利依の心は少しずつお腹の下、丹田のあたりへと落ちていく。

 とてもじゃないがこれ以上本を読むことはできない。

 ベッド上の、傍らに本をぽすと置きもう一度、先ほどより深めに息を吐いた。

 本を読めなければ、他にやるべきこともない。

 利依はその小さな顔についたクリっとした目をゆっくりと閉じる。

 そうして利依の意識はさらに深い、微睡の中へと落ちていった。



  ◆◆◆



 小さな少女――齢十にも満たないようなその小さな体に。

 一目で高級な仕立てを施したとわかる上品なドレスを身にまとった少女。

 その顔には見る人すべてを慈しむような控え目で完成された笑みを――完成されすぎた笑みを浮かべていた。

 これが数年後、肉体的にも成長したように思える年齢であれば少し大人びただけの、自然なものと思えたかもしれない。

 だが、その小さな顔に貼り付けられた微笑はやはりどこか不自然だった。

「ご無沙汰しています、利依さん。また少し大きくなられましたかな。いやはやこれは十年後が楽しみです」

 一人の男が話しかける。薄く開かれたその目は確かに利依を捉えているがその微笑の――子供然としない完璧さの違和感に気づかない。

「お久しぶりに元気なご尊顔を拝見できて喜ばしく思います。私としても一日でも早く皆様のお役に立てるよう日々勉強しているところでございます」

 ドレスの端をもって、そうすることが当然ですっかり自然と身についたように恭しく頭を下げる。

 やはりそれもどこから見ても完成された様で、子供には不釣り合いだった。

「さすが立花家のご令嬢だ。お兄様とはまた違った方向で才覚があるとお見受けします。これほどのお子様に恵まれているとなると、立花ファイナンスはこの先数十年は安泰ですな」

「ありがとうございます。それも皆様のお力あってのこと。今後とも格別のお引きたてをお願い申し上げます」

 もう一度、優婉ゆうえんに頭を下げる。

 ――同年代の子供たちと同じ空間にいたら、利依はひどく目立つだろう。

 しかしこの空間、様々な業界の有力者たちが集まった社交場では寧ろ紛れ込んでいた。

 誰もが利依と同じような笑みを浮かべ、表面上は穏やかに世間話を、だがその心の裏ではわずかなビジネスの機会も逃さないというような貪欲さが空間に満ちていた。

 そして大人たちが利依の異常性に気づかない理由がもう一つ――

「こちらこそよろしくお願い致します。ところでお父様はどちらにおられますかな」

 この場にいる大人たちは利依に興味がない。

 立花の娘という立場に用があるだけで、その先――立花ファイナンスの取締役たる父に用があるだけ。

「父でしたらあちらで別の方とお話ししております。ご案内しますよ」

「助かります。お父様ともぜひお話をと思っていたのでね」

「父も喜びます」

 しかし利依はそれを気に留める様子もなく、微笑を浮かべたまま淡々と事を運ぶ。

 男はスーツの襟を持ち、これから戦いの場に赴く兵士が自らの武具を入念に検分するが如く、乱れがないかを確認しながら後をついてくる。

「お父様、お目にかかりたいという方がいらっしゃったのでお連れいたしました」

 利依が恭しく、ドレスの端を摘まみ上げて頭を下げる。

 利依の後ろに立っていた男は案内をした利依のことなど露も知らぬというように、お父様と呼ばれた人物のもとへとその重い一歩を歩み出る。

 この男にとって立花に気に入られるかどうかは会社の経営に直結するのか。

 お互いが簡単な挨拶を済ませ、他と同様に互いの策謀が張り巡らされた会話が展開されていく。

 利依は父を見た。

 ――自分の仕事は果たした。父が許せばあとは後ろに控えていてもよいはずだ。

 果たして父は満足したのか、会話の一瞬の間で、

「利依、疲れただろう。もう下がっていて構わないよ」

 利依は再び恭しく父と、男に頭を下げると会場を抜け出た。

 去り際にちらと男の顔を見たが、状況は芳しくないのか焦りの表情が見て取れた。

 ビジネスとは根回しと好悪、策略と利益の世界。

 強いものが手にし、弱いものが失う。

 生物が誕生してから連綿と継がれてきた弱肉強食が、形を変えて人間社会の中でも行われているに過ぎない。

 だからこそ、その一挙手一投足に気を付けなければならない。

 少しでも舐められたら、うわ手に出られる。こちらが優位な立場を保つには。

 それがビジネスの第一線で生きていくための方法――

 利依も会場を抜け出たあとすぐに佇まいを崩すわけにはいかない。完全に人の目を離れ、それを目撃する人がいないと確定するまで。

 利依は経営者ではない。

 しかし利依の評価はそのまま経営者である父の評価へとつながる。

 下手な真似はできない。

 ゆっくりと繊細に足を運び、利依はホテルの上階にとってある部屋へと向かった。

 持っていたカードキーで鍵を開け、中へと入る。

 自分の後ろで扉の閉まる音を確認して、ここでようやく利依は肩の力を抜いた。


 カードキーは電源を供給するためのカードホルダーへ入れ。

 ドレスを乱雑に脱ぎながら真っ直ぐベッドに向かう。

 脱いだドレスは化粧台の前にある椅子の背もたれにかけ。

 ベッドの上に用意された部屋着へ着替えるとそのままベッドに飛び込んだ。

 しばらく枕に顔をうずめた後、体を百八十度回転させて仰向けになる。

 数秒かけてゆっくりと大きく息を吸い込んで、そして吐く。

 利依の顔には一切の感情もなく、ただその小さな顔についたクリっとした二つの目で幾何学的な模様を描かれた天井を見つめるともなく見つめていた。

 齢十に満たない子供が。

 時折する瞬きと呼吸する胸の上下動以外には全く微動だにせず、数度目の瞬きの時にはその意識は深い眠りへと落ちていた。


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