らぁめんそこそこ
八京間
らぁめんそこそこ
計器が静かに針を揺らしている。醸造樽のような巨大ボイラーの湿気と放射熱で、地下環境はサウナと言っても遜色ないほど蒸し暑い。
「春太郎さん、点検、終わりましたよ」
ぼわぼわとした蒸気に混じって、下の方から田中の声が聞こえる。社内に何人も、同じ部署には三人田中がいるため、田中は私のことを田中と呼ばず、下の名前で春太郎と呼ぶ。昔の子供向けアニメのハムスターの名前の様で、私はあまり自身の名が好きではなかったが、三人もいるならしょうがない。
「おう、お疲れ様。もう昼休憩入っていいぞ」
相手が遠いと思うと、知らず知らずのうちに声が間延びする。田中は掃除用のブラシを握ったまま手を振っていた。はしごに乗った状態から、遥か下の方を見やるのにももう慣れた。遠き地面、いや、ここは地下だから上も地面で下も地面だ。後輩の田中の立っている方の地面は、十字の凹凸が入った金属板が敷き詰められ、上から見ると方眼用紙のようだ。
「ここで待ってますよ。春太郎さんももうすぐでしょう?」
「ちょうど今終わったよ。下りるまで待っててくれ」
ブラシの柄に半ば強引に接着されたベルトを肩にかけ、一段一段はしごを下っていく。一歩また一歩地面の中の地面に下りていく毎に、蒸気の塊から抜け出すように、少しずつ呼吸がしやすくなる。上だろうが下だろうが、他の施設よりも蒸し暑いのは一緒だが、暖かい空気は上に向かうというのは本当らしい。
「いやぁ、待ちくたびれましたよ~」
「それは、悪かったな」
「冗談ですよ。お昼どうします?」
「……ラーメン」
「おっ、いいですね。でたらめ軒?」
「あすこは混んでるしなぁ……とりあえず上、出よう」
汚れたブラシを洗浄係に渡して、エレベーターを待った。うぃんと開いたドアから冷たい空気が心地よく噴出してくる。代わりに男二人と、地下の錆と緑青、それから硫黄臭い空気を取り込んで、エレベーターは上昇を始めた。
「冷房、効き過ぎですね」
「あぁ」
肌の表面に残った汗が冷えて、鼻の奥の方、喉につながる方でずるりと液体の流れる感覚がする。天井を見上げると丁度頭上に冷房の噴出孔があったので、これは余計に寒い、と移動したところで、エレベーターは地上に到着した。
時計を見るとピッタリ十二時である。これはきっと、どこに行っても混んでるだろうな。私たちと同じ作業着姿や、もしくはスーツ姿の労働者たちが思い思いに__概して二方向ではあるが、通りを歩いている。その流れに乗って、大通りのでたらめ軒まで行ってみたが、やはり入り口から人の列が生えていた。
「あらら~、これじゃ休憩中に店の中に入れるかどうかも怪しいですね」
「だよなぁ。どうすっかな……」
「ブナンに牛丼とかにします?」
「……もうラーメンの口なんだよなぁ」
「あ~、わかりますわかります、カレーのつもりだったのにハヤシライスだったときとか」
「いや、そういうのじゃなくて……そういうのか?」
たわいもない会話を繰り返しながら、収まりどころを探して暫く大通りをまっすぐと下っていると、うすぎたない路地の向こうに、真っ赤な暖簾が見えて、きゅっと足を止めた。突然立ち止まってしまったから、後ろを歩いて居た人は迷惑そうに歩を速めて我々を追い越した。通りの隅に何ですか、と問う田中を引っ張って、やたら室外機の多い路地の先を指さす。
「お、あれ、ラーメン屋ですかね」
「それっぽいよな」
ごうごうと室外機の吹き出す生ぬるい風を浴びながら、暖簾に近寄ってみると、赤い布地に赤い文字で「らぁめんそこそこ」と書かれている。一応営業中の様で、ガラス戸にOPENの紙が貼り付けられている。黄ばんだレースカーテンのせいで店内の様子はいまいちよくわからない。
「この暖簾作ったやつ、絶対アホですよ。赤にアカで文字書いたって、可読性ってのが全くわかってない」
「いや、もしかしたらプリントがはがれたのかも……違う、染めてある」
「ほら~、絶対アホですって」
「あぁ。暖簾はさておき、どうする?入る?」
「えぇ…嫌ですよ、なんか、端的にマズそう。汚いし」
「いや、でもこういう店って意外と美味しかったりしないか。隠れ家的な」
「だって店名、そこそこですよ? 百に一つ美味しいとしてもそこそこにしか美味しくないって自分でいっちゃってるんですよ?」
「いや、でもこんな人を選ぶ見た目でつぶれてないで営業してるってことはさ、やっぱそれ以上に引き付ける何かがあるってことじゃん」
「……入りたいんですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「あぁ、もう、めんどくさい人だな」
「何を言うか」
「入りたいなら入ろうぜって言えばいいでしょうに」
「……ここにしていい?」
「どうぞ」
お世辞にも通行人に好印象を与えない見た目の、らぁめんそこそこの評判を擁護する余地はあまりにも少ないのに、興味だけに突き動かされて田中を説得した。ただ、こんな店に入りたいと自らの口からはっきり言うのは、ばかばかしい話だが、雀の涙ほどしかない自らの品位を下げるような気がしてつい言えなかったのを悟られて、一段落した途端恥ずかしくなってきた。それでも、心の中でガッツポーズを取りながら、ガラス扉を真横に滑らせる。
油にまみれた豚骨の匂いがむあっと我々を襲った。年季の入ったパイプの丸椅子に、やはりけばけばしい赤色の暖簾。暖簾?どうして店内に暖簾がある。
どうも驚くべきことに、そこにあるのはラーメン屋台であった。ラーメン屋の暖簾のかかった建物の中に、車輪付きのラーメン屋台が鎮座しているのである。はて、どういうことだ。
「いらっしゃい」
屋台の暖簾の中から、強面の男が顔を覗かせた。
「ふたりだね」
「あ、はい」
有無を言わせぬ迫力のある接客に、とりあえず椅子に腰かける。カウンターはろくにニス掛けもされていない合板で、どう見ても鉛筆立てでしかない円柱に建てられた割りばしにはうっすら埃が積もっているような気がして、徐々に鮮明に、後悔の二文字が浮き出てくる。
「ほら、やっぱりこんな店入るべきじゃなかったじゃないですか」
「聞こえるところでそんなこと言うんじゃないよ……」
机の上にメニューらしきカードはない。壁かどこかに貼ってあるのだろうか。ぐるぐると見回すが見つからない。それでは、ひょっとして屋台の上に貼ってあるのだろうか。軽くのけぞるが見つからない。視線を正面に戻すまでに一度田中と目が合った。冷ややかな目をしていた。
「お待ちどう」
これまた真っ赤なラーメン鉢が差し出される。黄金色のスープに沈む麺、その上に味のり、メンマ、チャーシュー一枚と煮卵、仕上げに刻みネギという、あまりにもラーメンらしいラーメンだ。
「あの、まだ頼んでませんが」
「うちのメニューはこれだけだよ」
「あの、大中小とか並特とかは」
「ないよ」
「はぁ、そうですか」
ちょっと気になって田中の手元を覗いてみるが、当然同じラーメンである。ラーメンらしく背油が浮かんでいる。あまりにも安心感のある見た目をしているが、かえってそれが恐ろしい気持がした。異様な店構えの中で、唯一親しみのある姿で油断させて、何か不思議なものでも食べさせられるのではないかと思うと、なかなか箸に手が伸びない。そのままついつい田中の方を見る。
「そんな怯えなくとも、変なものではないよ」
カウンターの奥から声が聞こえるが、強面の店長の声にしてはキーが高い。声は、カウンター内を突っ切って向こう、反対側のカウンターから届いた。
「田中先輩」
「あれ、綾子さん。偶然ですね」
田中綾子さん。我が部署のもう一人の田中である。私たちと同じ地下仕事であるから、日焼けしていない肌は薄暗い店内では青白く見える。
「よう、春太郎に日向君。偶然偶然グーゼンバウアー」
「美味しいですか?」
「無視するんじゃないよ。……店長さんの前でこんな言い方するのは悪いが、見た目通り食べ物だから大丈夫だよ」
「グーゼンバウアーって何ですか?」
「オーストリアの元首相」
「へぇ、勉強になりました」
「日向君は可愛いなぁ。奢ってしんぜよう」
「絶対明日には忘れてますよ」
「そォんなわけないじゃないですかぁ、せっかく綾子さんが教えてくださったんですよぉ?」
「嘘くさ、前言撤回」
「しまった」
「ほらほら、のびる前に食べなよ」
そう促されてようやく、私は筆立ての中からそれでも綺麗そうな箸を抜き取って割った。恐る恐るすすってみると、なんということだろうか、こってりスープが麺に絡んで、今まで食べたラーメンの中で断トツ美味い!
「……」
なんてことはなかった。私は黙って田中先輩と顔を見合わせた。田中は噎せていた。
「道連れだよ、春太郎」
「はかりましたね、先輩」
「うげっふ、げっほげっほ」
彼女は青い顔をにんまりとゆがめている。末恐ろしいものを食った。見た目はラーメンなのに、麺は小麦粉にちょっと水を入れて混ぜた、待て待て、麺の材料は確かにその通りだ。作っている途中で茹でずにスープにぶち込んだようなぼそぼその触感の面に、塩気と油気とついでに粘り気の強すぎるスープが絡んで叫び声を挙げたくなる食感がする。メンマと煮卵はなぜか消毒液臭いし、チャーシューはひょっとしてただの茹でた豚肉じゃないのかと思うほどに淡泊だ。多分切って載せただけの味のりと刻みネギだけが美味しい。
出された料理を残すのは流儀に反するから水で流し込むように無理やり食べた。お代は結局田中先輩が払ってくれた。三人まとめて二九七〇円。休憩時間はもうすぐ終わる。
「いやぁ、店の見た目に反して美味しかったですね」
店を出て、田中がそんなことを口走った。私はにわかに腹が痛くなってきた。
らぁめんそこそこ 八京間 @irohani1682
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