空蝉

 微笑を洩らした芹沢は一瞬、彼の女らしいなだらかな首筋に視線を這わせ、数秒遅れて、「そうだったな」と鉄扇で顔を仰いだ。

 浪士組一行は遊郭内の道をそぞろ歩く。細部まで技巧を凝らして造られた、味のある建物が軒を連ねている。風薫る空は、仄灯りに朱く照らされ、うねる細道は島原の趣を一層引き立てていた。

 佐伯が、芹沢の隣にひょこりと顔を突き出し、手をこまねいている。


「今回の宴会、上手いこといきましたね。芹沢さんの目論見通り事が運んでいて、気持ちがいいものです」

「だろう? 奴等の後ろめたそうな腑抜け面、見たか? もう負けを認めていると書いてあったわ」


 芹沢の本当の目的は無論、公用人の命乞いの謝罪などでは無い。酒宴だ。


「会津の公用方に、考え無しに苦言を呈した奴等の落ち度よ。浪士組を愚弄するは、会津藩の面子を潰すのと最早同じこと。それにしてもこう上手く行くとはな。永倉の口車のお陰だな」

「ありがとうございます」


 永倉は芹沢の相変わらずの堂々とした言い草に、溜息は洩らしても決して否定はしなかった。今回の件に関しては、確かに彼の言う通りであったからである。

 そもそも、この荒くれた過度な行動さえなければ、芹沢は筆頭局長に適した人材だった。野蛮で荒くれ者の浪士達を纏め上げる、風格と気概を持っている。実際、平隊士達には恐怖を持たれつつも慕われている上、剣の腕もすこぶる良い。永倉は彼と同じ神道無念流しんどうむねんりゅうの免許皆伝者で、割と話す仲であった。そう、彼の最大の短所が途轍もなく大きな欠点という事が、最たる問題なのだ。


「あれくらい強気に出ても不都合は生じないと思ったまで。実際に苦言に関する事実確認までとれた上、水口藩は水面下で不逞浪士と繋がっているという負い目がある手前、此方に対して上手に出られないと思ってましたから」

「え? そうなの?」


 吃驚した爽葉が永倉を見上げる。酒と肴に釣られて来たこの少年には、水口藩の事などはなから興味外なのであろう。殆ど何も知らず来たに違いない。


「ああ。京都や大坂に潜む佐幕さばく派過激志士などとな。水口藩って立札が立ってる宿や座敷は、蓋を開けてみりゃ大体がそいつ等の密談さ」

「そこに御用改めしたら一発じゃないか」

「そうなるな。でも、水口藩って建前がありゃ俺等は御用改めができねえ。そもそも、その不定期に開催される宿やら座敷やらでの密談を、京都大坂のうん千とある候補の中から探し出すのが難しいんだがな。今から行く角屋だって例外じゃねえよ、主人徳右衛門がどんだけ薩長、土佐の人間をこっそり密談させてやってることか」


 すれ違う者達はまだ早い時間だというのに酒と雰囲気に酔いしれ、建物からは宴に興じる楽しそうな声が聞こえて来る。銀杏の葉の匂いのする角を曲がり、暫くして一行は立ち止まった。


「ようこそいらっしゃいました、壬生浪士組の皆様。中で水口藩の方々がお待ちです」


 美しい格子が並ぶ木造の壁、大きく美しい佇まい。島原の揚屋*、角屋である。微笑む女将は、芹沢達を迎え入れた。芹沢はもう常連なのだろう、慣れた様子で店の中に足を踏み入れている。浪士組は仲居によって、松の間に案内された。この店で最も大きな座敷だ。綺麗に整えられた庭園を背に、豪華でありながらも荘厳な雰囲気の宿る座敷が構えられ、桐に泊る二羽の派手な鳳凰ほうおうが堂々と描かれた、人目を引く立派な黄金の襖絵がまた絢爛であった。


「ご、ご馳走だぁ」


 席に着くと早速運ばれて来た、酒やご馳走に爽葉は涎を垂らしそうな勢いで舌舐めずりをしている。


「お、開始に間に合ったー」

「皆もう結構揃っているね」


 藤堂、原田、井上が数名の隊士を連れて、遅れて部屋に入って来た。


「これ人数どれだけ増えるんですか?」

「みんな来るんじゃねえの。土方さんも仕事だって言ってたけど、多分近藤さんが引っ張ってくる」

「そりゃいい。皆で無料タダ酒飲み尽くそうぜ。店の酒樽全部空にしてやらぁ」


 永倉の、水口藩と仲良く飲みましょう、との短い小噺と芹沢の号で、宴会が始まった。芸妓が舞を披露し、酔いの回った隊士達は思い思いに騒ぎ出す。胸倉を掴み合って乱闘する者、酔い潰れている者に芸妓の帯を解こうと吹っかける者、口論を繰り広げる者。


「ぎゃははは、いいぞーっ左之助ぇ! ハジメ、もっともっと!」

「斎藤じゃ相手にならねえ! 我こそはって奴は居ねえのか!」

「よし、俺が行こう」


 上裸で相撲を取る原田と永倉。上背のある筋肉達磨二人が取っ組み合えば、その振動で傍で笑い転げる爽葉の盃が水音を立てて揺れた。拮抗していた試合は、二人諸共爽葉の上に昏倒して勝敗つかずに終わる。すぐに飛び起きて爽葉の無事を確認する永倉とは違い、原田は苦しむ爽葉を笑うだけでまた酒を煽っている。


「あ、忠司さぁん。と?」

「お疲れ様です。山田やまだ春隆はるたかです」

「そう。春隆さん、飲みましょう」


 にっこりと笑った沖田が、松田と偽名を使う山崎を輪に迎え入れた。皆が気分良く飲み進める間にも人数は増えてゆき、あっという間に百有余名が集って座敷は密な状態となる。


「こりゃ久しぶりに一同会した宴会になりそうですね」


 座敷の上座で太夫*を侍らせ、一人酒を飲み続けていた芹沢は、ぼんやりと芸妓の姿をその瞳に映していた。隣の席は未だ空席だ。序盤とは言えど、面白いほどに苛烈に盛り上がる浪士組の酒宴は嫌いではなかった。近くでは、酒を浴びるように飲み、出来上がった新見が呂律の回らぬ口調で佐々木に絡んでいる。目の端に黄色の雅な着物が舞う。色彩豊かな髪飾りが揺れる。扇子が蝶のように行ったり来たり、白い指先が琴を奏でる。


「つまらん。もうお前の舞は見飽きた。もっと面白いもんはねえのか?」


 ちっ、と舌打ちして酒を嘗めた芹沢は、その水面越しに一人の男に目をつけた。


「もってこいの余興があるじゃねえか」


 ちょいちょい、と手で芹沢の傍で酒を注ぎ足していた太夫を呼んで耳打ちする。芹沢と彼女の寄せた顔の合間を埋める彼の掌から、三日月型に弛んだ目が覗いていた。赤ら顔が、よりにやけた面構えを引っ提げて愉快そうに鼻で笑う。


「爽葉はん」

「はい?」


 わいわい、と楽しく飲んでいた爽葉の傍に来た二人の天神*が、爽葉の両腕をしっかりと掴んだ。


「え? 何? なになに?」

「少うし、わちき達と置屋*に行きんしょうかぇ?」

「置屋? なにそれ」

「此処みたいな揚屋に、太夫や天神の人達を派遣する店だ。島原は送り込み制だからな」


 びっくりして動きを止めた爽葉に、山崎が盃から薄い唇を離して、答えてやる。春隆という名が偽名とは思えぬほどしっくりくる爽やかな嬌笑を向けてくるも、助ける素振りが微塵も見えない彼は今の爽葉にとって裏切り者だ。


「なんで僕がそこに行かなきゃならない」


 そう噛み付いてから直ぐに、爽葉は何かを察したように面相を変えた。そして主犯が鎮座しているであろう上座に、キッと睨みを利かせる。


「ちょっと待った、芹沢の差金だろ。僕は着ないからな。絶対に、絶対にだ!」

「なに?おチビ女装するの?似合いそうじゃない」

「お前、他人事だからって」

「面白いものが見れそうなのに、むざむざ見逃す訳ないじゃないですかあ。あ、どうぞ糸里さん、連れてっちゃってください」


 沖田に見放された爽葉は、助けを乞うように周りを見るが、味方は誰一人居ないようだ。


「いーやーだー!」

「お前がやらねば、儂は今すぐに太夫の商売道具を傷物にしてやろう」


 芹沢の手が、太夫の髪を乱暴に引っ張る。小さな悲鳴に爽葉の良心は痛む。本気か嘘か。彼の眼はどちらに揺れているのか見分けのつかない焦茶色。皆からの切実な視線が突き刺さり、爽葉はやむなく了承した。覚えてろよ、と捨て台詞を吐くも、あれよあれよという間に両腕を引っ張られて輪違屋という近くの置屋へと連行される。


「お戯れもほどほどにしてほしいわあ」

「すんません……」

「芹沢はんのことでありんすから、また何かやらかすとは思うとったけど、まあええわ。こな美男子の女装は正直わちきも興味唆られるわあ。糸里、吉栄、この子を着付けておくんなし」

「すんません」


 心にも思っていない平謝りを繰り返し、諦め半分の爽葉は自暴自棄。なされるが儘、部屋に押し込まれ、化粧を施される。


「わちきは糸里いいんす」

「わちきは吉栄でありんす。たいそう可愛いお顔していんすぇ。お化粧のし甲斐がありそうやわあ」


 着替えをさせられる前に、爽葉には超えなければならない関門があった。水口藩の息のかかった角屋と浪士組の接待をしてくれる置屋、輪違屋は全くの別物である。それに、糸里は平間の、吉栄は平山の馴染みの芸妓だと言う。刃物を突きつけ脅すよりも、説得でどうにかなるであろうと踏んだ爽葉は、重い口を開く。


「あのぉ、僕実は……」





 日没を迎えた妓楼は益々活気づき始めていた。張見世はりみせ*に並んだ遊女による三味線のお囃子はやしが調子良く鳴っている。清掻すががきがつまびかれ、賑わいも華やぎも増す。


「なんだこの人だかりは。酔いそうだ」

「やだわあ、爽葉殿はもうお酒に酔ってありんすのに」


 くすくすと袂で口許を覆い、上品に笑った糸里が、人だかりで店の外に出れない三人の目の前を過ぎる大きな傘が道を彩るのを惚けた表情で見つめた。上気した頬に馴染んだ香粉こうふんの香りが爽葉の鼻をくすぐる。糸里と吉栄から感じる羨望から成る純粋な感情は、あまり好ましく思えぬ遊郭の匂いも、なかなか奥ゆかしい佳芳かほうに染め上げた。


「これは、太夫道中でありんす」

「道中?」

「島原太夫が禿かむろや男衆を従えて、揚屋まで練り歩く行事のことでありんす。三枚歯の黒塗下駄で内八文字いう足捌きでゆっくり歩くんよ」


 明るく外交的な性格の吉栄は爽葉の手を引き、太夫道中に近づいた。否応無しに耳目集める華やかな香りがする。その優美な姿は太夫の名を散らすには申し分ない凛々しさを備えていた。太夫を一目見ようと集う人の熱が伝播してくる。道楽の甘美な誘惑に唆される男の想いが見て取れるようだ。


「さあ、行きんしょう。あんさんは太夫道中にあまり興味がなさそうでありんすから。皆さんに着飾った姿、早く褒めてもらいんしょう」

「ああ、気が重い……」






 椀が手から滑り落ち、膳の上でくるくると踊る音が部屋に響いていた。


「……誰?」

「しねっ」


 紅で色づいた可憐な唇が、悪態を吐いた。


「え? 爽葉か?」

「近藤さんまで。確認するなよ、酷いなぁ」


 膨れ面で文句を垂れるも、色鮮やかな装いに身を包み、艶のある藍の髪にはこうがい、鼈甲の大櫛、前びらに花簪。絹のような肌に紅を差した姿は黙っていれば牡丹の様な美しい見目形みめかたち。彼が歩けば百合の香りすら漂ってきそうな嬌姿きょうしは、この座敷の全員を固まらせるには十分な威力を持っていた。


「ふむ。いい出来じゃねえか」

「これっきりだからな」


 爽葉が着替えている間に、近藤や土方、山南も到着したようだ。どかっ、と元居た席に雑に腰を下ろした爽葉は、あろうことか胡座をかく。乱れた裾を、隣の沖田がすかさず直した。


「なんだよ別にいいだろ、女装なんだから」

「いや、まあそうなんですけどね?あまりにも女らしくて思わず」

「畜生、女にしか見えねえよ」


 原田が頭を抱えて悔しがる。衝撃で再起不能の藤堂や永倉などの役立たずを置いて、右隣から井上が「似合っているよ」と褒めてくれた。爽葉は井上に甘えたな飼い猫のように擦り寄る。


「源さぁーん」

「やめろって。源さんは女慣れしてないんだから。老体には鼻血ものだぜ。行くなら難攻不落の斎藤にしろ」

「こら左之助! 私はまだ老体ではないよ!」


 原田が、井上から爽葉を無理矢理引っ剥がして放れば、芸妓姿の彼が斎藤の元に雪崩れ込んだ。痛いと不平を零して上げた顔同士の距離は、影が重なりそうなほど。

 遅ればせながら宴会に参加した土方は、無意識に手元の盃を何度も呷っていた。何故だ、馬鹿騒ぎをしている姿が艶やかに映るのは。仕事の所為で疲れた目の錯覚か酒の仕業に違いないとばかりに目を細め、太夫に勧められるがまま酒を飲む。


「爽葉、離れろ」


 ほれみろ、と原田が自慢げに鼻を鳴らす。


「斎藤はなあ、どんな女が擦り寄って来ても表情すら変えず、つっけんどんな態度を貫ける、最後の砦だぜ。今まで幾多の太夫、天神が開城交渉でも強攻をしても攻め落とせなかったこの……あ、……え?」


 難攻不落の城が、落ちた。




 揚屋…料亭兼宴会場

 太夫… 京都島原の妓女の最高位

 天神…太夫の一つ下の位

 置屋…揚屋に太夫や天神を派遣する店

 張見世… 遊郭で、往来に面した店先に遊女が居並び、格子の内側から自分の姿を見せて客を待つ場所

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