往時

 芹沢が珍しく、口論を諦めたようにみえた。その気色ばんだ表情からは心中を推し量る事は誰もできないものの、喉につっかえた思いを仕舞い、酒で腹まで落とし込む位はできたようである。しかし、亀裂の入った関係がみしみしと音を立て、瓦解の予兆を諷喩ふうゆさせていたことは明白であった。


「帰る、飲み直しだ」


 大きな器で何もかもを受け止めてしまう近藤の袴を、酒の雨水で濡らしておきながら、彼は新見等を引き連れて帰ってゆく。嵐のようであった。





「チビ。仕事だ」

「んあ?」


 瓦屋根の上で寝そべる爽葉に声を掛けてきたのは、全身を濃紺の忍装束に包んだ男、山崎だ。彼は音もなく彼の傍まで近寄ると、その覆面をずり下げて囁いた。


「仕事って?烝と!?」


 きらきらと瞳を眩く煌かせて、爽葉は半身を跳ね上げるようにして飛び起きた。爽葉の裸足が、ぺち、ぺち、と冷たい瓦の上で踊る。言葉に出さずとも彼が嬉しさに身を焦がし、期待と興奮に疼いていることが見て取れた。


「そうやで」

「やったあ!え、てことは、僕が監察方の仕事をするってこと?」

「まあ、そういうことになるんかな?」


 わーいっ、と抱き着く爽葉を引き剥がして、彼と向き合うように胡座をかいた。思わず犬を愛でるようにくしゃくしゃと髪を混ぜてやりたくなるも、その手を伸ばしかけで引っ込めた。


「どうどう。お前はすぐはしゃぐなぁ」

「だって、烝と仕事なんて!初めてだし、やれると思ってなかったし、嬉しい。最近なんて此処で酒を酌み交わすぐらいしか会えてなかったし」

「わかったわかった」


 山崎は困ったように息を吐いた。彼の無邪気な姿は、心をくすぐるものがある。


「で、どんな仕事?」


 薄暗闇の中、にんまあ、と綺麗に並んだ歯が覗く。


「偽壬生浪士組の成敗や」


 二つの影が京の闇に溶ける。


「なぁにその楽しそうなお話」

「だろ?お前もこれ付けろ」


 韋駄天のように駆けながら、山崎は隣の爽葉の懐に覆面を突っ込んだ。手に渡そうとしたが、彼はほぼ四足歩行のような走り方をするので、渡しにくかったからだ。腰が痛くなりそうなほど重心は低く、時折手をついて傾きを修正する。頭から突っ込むような勢いだが、山崎に負けず劣らず音もなく素早い動きである。


「お前の走り方……なんか凄いな」

「普通っぽくも走れるが、やっぱりこっちの方が走りやすいんだ」

「人間も獣も同族だって、再認識させられるな」

「僕からしてみりゃ、こんな不安定な二足歩行している人間って、凄いと思う」

「遠目から見りゃ犬猫と勘違いしそうだ。まあいい、移動しながら説明するぞ」


 近頃壬生浪士組の名はますます功績も知名度も上がり、様々な所で、畏怖、厭忌えんき、称賛と共にその名を語られるようになった。そんな矢先、偽壬生浪士組を名乗り、京都市中で金策を行った者がいた。既に監察方の調査で名は割れている。植村うえむら長兵衛ちょうべえという者だ。彼を中心に幾人かがその不埒な行為を行なっているようだが、中心人物たる一人を片付け、見せしめにすれば、とりあえずは押し借りが止むであろうとの見立てだ。


「まあ本当は俺等監察方の仕事じゃなかったんだが、誰が行くかって話でやたらと揉めてな」


 恐らく、この斬殺が成功すれば、浪士組発の見回りや喧嘩以外で初の成敗となるであろう。その為、土方が斬殺の命を出した途端、芹沢等水戸派と試衛館派どちらが任を引き受けるかという話になった。此方からは永倉と原田を出すつもりだったのだが、最近水戸派の周りを彷徨くようになった、佐伯さえき又三郎またさぶろうがちょっと待った、とばかりに話を止めたのだ。


其方そちらの手を借りなくとも、この目に余る悪行、私が成敗致しましょう!」

「目に余る悪行って……お前等がいつもしていることと大差ねえのに」


 原田がこそっと呟いた。


「俺が原田と行って来るんじゃだめですかね」

「永倉てめえ、俺等に手柄を上げさせないつもりか」


 平間も食ってかかる。


「別にそういうわけではないが。皆で行くか?」

「いや、人数は必要ねえよ」

「監察方に任せてみてはどうですか?」


 山南が提案した。監察方は山崎、島田をはじめとして試衛館派が多いものの、浪士組共用の部門という認識が強いので、水戸派もそこまで警戒しないのだ。


「ほら、芹沢さん言っていたじゃありませんか、爽葉は監察方の仕事も向いているんじゃないかって。今回試してみましょうよ」

「爽葉か……。うむ、いいだろう」


 と、このようにして話し合いが収束した。


「なるほどねえ。まあなんでもいいや、僕にお仕事回ってきたんなら。しかもお前となんて、うふ。嬉しいぞ」

「そりゃあよかった。ま、手早く首取って、今日も屋根上で乾杯しようぜ」

「気持ち良く飲めそうだ」


 瓦の硬い感触を離れ、朧月に照らされた千本通りに降り立った。今日は一段と湿り気のある空気が身体に纏わり付く。爽葉は汗ばんだ襟元を少し引っ張った。


「爽葉は裏から、俺は表から行く。首を取ることに専念しろ。後は好きにしていい」

「了解」


 二手に分かれ、板壁に沿って裏に回り込む。板の骨組みに足を掛け、隣の家の塀を蹴って二階の格子戸にへばりつくように飛び移った。寝ているようだ。動くことのない人の気配と、寝息が聞こえる。ゆっくりと音を立てずに戸を開け、部屋に侵入。気配を察知したその瞬間。


「うっ、ぐ……」


 布団を剥ぎ取り、上から男を押さえつけた。鳩尾を膝で潰し、両腕を右手右脚で押さえつけながら、首を掴む。


「おじさん、名前は」


 爽葉が低い声で問う。少年の声音は、こんな状況でなければさも涼しげに美しく響いたことだろう。


「貴様……何者だ!気色悪い、面しやがって」


 首を絞める手に力が入り、男の目尻に涙が浮かんだ。ひゅっ、と隙間風のような音が喉から出る。


「俺は心がひろーいから根に持たないけど、今のはちょーっと傷ついちゃったなぁ」


 既に鬱血し始めた首に左手をかけたまま、背後から脚を雁字搦がんじがらめにする。山崎が既に背後にいる事は知っている。


「はい、捕まえた」

「相方が優秀で助かるぜ。さ、おっさん、お名前は」


 山崎が身動きの取れない男の前に、膝に両腕を置くようにしてしゃがみ込んだ。左手には長巻ながまきを携え、鋭い眼光が脅すように光っていた。爽葉は男の背後から、彼の洗練された殺気を感じ取る。山崎は優秀で、爽葉は彼を心底尊敬していた。彼は香取流棒術の遣い手で、優れた土地勘と情報網を武器に、忍の如く隠密行動や情報収集が可能なだけでなく、医術にも精通している。近藤や土方に一目置かれ、重宝されるのは納得だ。現に、監察方で唯一の副長助勤である。

 長巻の先端が男の喉に軽く触れる。肌を少し押し込めば、ぷつ、と赤い液体が丸く膨らんだ。そう思った時、総毛立つ黒々とした殺気が男に流し込まれた。爽葉諸共引き摺り込まれそうなほど強引なそれは、荒浪というより凪に近く、渦というよりも潮が引くような暗澹あんたんとしたものだ。紙面を墨汁が黒く塗り込んでゆくように忍び寄る恐怖が、男の口をこじ開ける。


「植村、……長兵衛」


 当たりだ。もう用はない。

 爽葉の体勢がぱっと翻り、山崎の前に植村の両膝をつかせ、背中を腕で押し出しながら、頭を掴んで斜め上を向かせた。脂汗滲む白い首が、暗闇の中浮かび上がる。ビュッ。血が吹いた音だけだった。


「すっげえええ。烝兄さん、怖ええ」

「あんがとさん」


 首は綺麗に切断され、床に転がった。殺生における美徳というものがあるならば、彼のわざはそれに近しいものではなかろうか。


「うん、これで良いだろう。さっさと首掛けて帰るぞ」

「おう」


 翌朝、植村長兵衛が千本通り三条上ル西側に立札と共に梟首きょうしゅされていた。一方、屯所前川邸の屋根上には、二つのお猪口と空になった徳利が幾つも転がっていた。




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