往時
「なんでも、興行師の娘? とかなんとか。どうやら最近出会ったらしいんだけど、可愛い子だって話」
「興行師ぃ? それってすごい最近のことじゃないか。興行師の弟の娘なら知ってるぞ。八百屋の娘あぐりだ」
藤堂に催促されて、爽葉はつい先日、松原通りの因幡薬師境内で見世物を見物したことを思い出す。芹沢が突然見世物を観に行くぞ、と新見達に加え、爽葉や佐々木を引き連れて外出した。佐々木も爽葉と並んで芹沢のお気に入りである。見世物の小屋では嗅いだことのない獣臭が漂い、鼻を刺激した。大虎や色鮮やかな鳥などの珍しい動物が沢山展示されていたのだという。匂いはきつい癖に爽葉は盲目なので、死ぬほど退屈だったのを覚えている。しかし、昼間から酒の入っている芹沢は、何処へ行っても事件を引き起こすのが
「こんな奇妙な鳥がいる筈がねぇじゃねえか! 儂を騙くらかしてるのだろう! 水をぶっかけてその染物を洗い流せ!」
やめくださいと泣いて縋る主人の前で、暴れる芹沢。この光景を何度見た事だろう、と爽葉は呆れながらも、主人を助け起こした。人情に厚い佐々木は、彼等の間に入って仲裁をしていた。爽葉は、面倒事を進んで引き受け、取りなす彼に改めて感心した。その後、彼がしっかりと上役の尻拭いをしていたところ、偶々叔父の手伝いに来ていた、あぐりと出会ったのである。
「だからあの日の夕餉の時の土方さん、あんな降魔の相だった訳か」
「愛次郎、俺達の事はいい。先に幸せになってくれ……」
未だ想い人どころか、出会って間もないにも関わらず、藤堂は袖で涙を拭う仕草で、彼を祝福する。
「頻繁に会う仲になったのか?」
「小綺麗な格好で、そそくさと出掛けて行ったことが何度かあるらしいぜ。中には、二人が逢引しているところに居合わせた奴もいるらしい」
きゃーっ、と爽葉は自分のことのように恥ずかしがって、両腕で自分の身体を抱き締めながら足をばたばたとさせた。こそばゆさに背中が痒い。
「いいねえ。若いねえ。熱いねえ」
「
「そうかー。愛次郎とあぐりかぁー。いい組み合わせじゃないか」
爽葉が交わしたのは
「爽葉は、見えなくてもその人がどんな人か分かるの?」
「勿論だ」
爽葉は手元の鞘を弄るのをやめた。顔を上げた、白い包帯を巻いた彼の口は、きちりと一文字を結んでいる。それを、波線にしたかと思えば、いつもの得意げな表情を浮かべていた。
「僕の優れた感覚を侮るでないぞー。並の人より、僕は人を知ることができる」
人は視覚から多くの情報を得る。五つもある感覚のうち一つに大きく偏るのだ、そりゃあ目に見える表層に騙されることもままあるだろう。人の繕えぬ真意を見抜き、土足で胸襟を覗き、暴く。それには視力など無くても足りている。それは今まで爽葉が培ってきた、人を知り、戦い、敵を倒す為の能力。
「戦いの時には、視力が欲しいと思ったことは何度もあるけどね。お陰で耳と鼻と皮膚は、よく働いてくれるようになったよ。二人も、もっと頼ってみたら?」
「確かに、見えるものにも惑わされるけどなぁ。そもそも見ないで戦う感覚が想像できないや」
「俺に関しては、俺が左利きだから、初手で相手が戸惑ってくれる」
「そっかあ。……また、二人に背中を預けて戦いたいものだな」
藤堂と斎藤は目配せをし合って、こっそり笑う。
「最近、斬った張ったが少なくて、こう、物足りない。僕の手が震えてる、戦闘不足だーって」
「中毒かよ。どうせ長州あたりとまた衝突が起きるよ。まずは目下の大坂までの将軍護衛と、相撲興行をやり遂げないと」
「桂は厄介そうだな。土佐と組んで怪しい動きをしないか心配だ。……爽葉は、魯漠を何故知っていた?」
「え、ああ……」
斎藤は言葉に詰まる爽葉を訝った。
「奴は、僕の意趣返しすべき相手、かな」
彼は、言い澱みを流し出すかのように苦々しく呟いた。眉根を寄せ、下唇が軽く噛まれた。嫌な話題に触れてしまったようだ。そう勘付いた斎藤は、それとなく話題を相撲興行についての話にすり替える。
「そうそう、これやんなきゃなんだよ」
そう言って、藤堂が懐から数枚の紙を取り出した。
「何これ」
「相撲興行の為の*
畳の上に広げられた紙には、簡潔な指示が幾つか綺麗に整列していた。紙から煙草の香りがする、爽葉は思う。
「二、三種類の引札、力士の手形、酒、食い物、力士の絵柄や名前を入れた売れそうなものならなんでも良い、用意しろ……。色々注文があるな」
「力士の手形! 売れそうだけど、面倒臭いなぁ。あ、カイカイの手形でいいじゃん」
「それはまずくないか?」
「ほんと、そういうところだけは似てるよな……」
名案とばかりに手を合わせ打つ爽葉に、土方が悪知恵を働かせている姿が重なる。この紙を彼から預かった時も、やめておこう歳、と
「ここで金儲けしないでどうする。稼げるときに稼がねえと」
こういう事に関して殊更頭の回転が早い彼は、手形は島田にでも取らせておけ、とまるで悪戯っ子のような顔で指示していた。奉公先で見事な手腕を発揮しただけのことはある、商売の上手さである。藤堂が、ぽんと膝頭を叩く。
「さ。やることは山積みだぜ」
「歳!」
「帰ったか。で、どうだった」
「許可が下りたぞ!」
「っしゃ。でかした!」
がっちり。大きな手が合わされた。
松平容保候から許可が下りた。将軍徳川が江戸へ戻っても、会津藩は今まで通り壬生浪士組を預かる、との約束を正式に取り付けたということだ。
「これまでの功績を誉めてくださり、これからも松平候の志の為、我々に手足となって働いて欲しいとおっしゃられていた。いやあ、筆舌に尽くし難いよ」
高揚感に浸る近藤は、恍惚とした表情でその時の様子を語る。似たような話が巡ってくる度に、副長二人は聞いている体裁を取り繕い始めた。山南は湯呑みに残る
その日は星月夜であった。
報告の為に土方が呼びつけ、三人が待つ部屋にやって来たのは、芹沢、新見、平間、そして入隊したばかりの
「ふざけるな」
報告をした途端、開口一番に芹沢が叩きつけたのはこの台詞だった。苛立ちを際立たせる芹沢の態度に、喜んでくれるだろうと考えていた近藤の考えは見事打ち砕かれる。
「いや、これからも居られるんですよ!京に!良いことじゃないですか!」
「そこについて言ってるんじゃねえ、のろま」
座る三人を冷たい目で見下ろして、太い眉の間に皺を寄せている。この形相と腰に刀を差した出立ちで、物を破壊しては金を出せと襟首を締めるのだ、商人が屈するのは訳ない話だ。
「何故儂に言わず松平候の元へ行った」
「まあ座れよ、芹沢さんよ。京に留まりてえって話は纏まっていたんだ。許可の取り方にそんな声を荒げる事もねえだろうが」
芹沢は拗ねているのだ。奴が引き起こす乱暴狼藉は勿論奴の責任であり、流石に松平候のところにお目通りするのは本人も些か気が引けていただろう。それを自分自身で処理できずに、近藤への弁駁や酒とそれによる乱暴にぶつけている。拗らせた捻くれ者だ。
「大体てめえはこの前素行を注意されたばかりだ。どっちにしろ行かなかっただろ?」
「儂を邪険にしよって。そもそも会津の野郎が
「へえ、まあそうなんですがね」
「なんべんも言っているが、方法の問題だ」
「市民から巻き上げるなんざ、武士たる者のやる事ではないです」
近藤の正論が芹沢の肌をチクチクと刺す。実直な彼の言動は、芹沢の成熟とは言い難い精神を攻める。彼の顎から不機嫌な歯軋りの音が洩れた。
「我々は力ある武士ですから、商人が言うことを聞くのです。それだけ、我々の功績は着実に広まっている」
「新見の言う通りだ。幕府の命で不逞浪士を捉えて民を守るのが浪士組の役目。つまり、俺等に守られているあ奴等は俺等に喜んで、金を差し出してきてるんだ」
「……あ?」
濁点の付いた低い声が、言い合いを暫し止めた。閉じていた切れ目を開き、立っている芹沢を下から腕組みをして睨む。見上げているとは思えぬ気迫が渦を巻いて芹沢を呑み込む。
「金がねえなら商家からふんだくりゃあいい、応じないならば脅せば良い。そんな安直なやり方がこれからもまかり通ると思うなよ。そこの勘定方もそうだ、ちったあ脇締めやがれ。河合。てめえを今すぐお役御免にしたっていいんだぜ?こっちには山南がいるんだ。お前よりよっぽど悪どく高尚な手段で金を巻き上げることなんぞ、容易い事なんだぜ」
浪士組の鬼から悪どいとの称号を貰った山南は、一瞬戸惑うものの、そんな事はおくびにも出さずに、何やら裏がありそうな笑みを河合に向ける。彼は、土方の渾名である鬼の副長と対して、仏の副長と呼ばれていた。しかし正に、仏の顔も三度まで。繰り返される狼藉に関して、彼の口からは慈悲なき対応ばかりが飛び出してくるようになっている。
「けっ」
やっと座った芹沢達の前にも酒が並び、早速傾けた盃が、芹沢の表情を隠す。芹沢さん、と近藤がわたわたとしながら場を取りなしている。いつも堂々としていながら、知り合いの輪の中では少し愛嬌や可愛らしさが出るところが、近藤の魅力である。
「今回私だけで許可を頂いた事、悪気があったわけじゃないんです、芹沢さん。晴れてこの浪士組をますます発展させる為の一歩を踏み出せた訳ですし。ここは気持ち良く飲もうじゃないですか」
「今てめえ等と気持ちよく酒が飲めるかよ」
新見が、芹沢の盃を満たしながら向かいの土方をジト目で覗く。影のある執拗な視線だ。
「京一の剣客集団の我々には誰も逆らえませんよ。言う事を聞く奴等には従わせときゃ良いんです。町を守ってるのは誰のお陰か、彼等もちゃんと弁えていますでしょうよ」
「京都一ィ?」
はっ、と土方が鼻で笑う。
「腑抜けた事言ってんじゃねえよ。浪士組は日本一になる組織だ。その為に今の仕事をちゃんとやらなきゃなんねえ。俺等が担ぐのは、国を動かす幕府様の御輿だ、金策問題の乱暴狼藉なんかで足元掬われるなんざ御免だな」
隣の近藤も、盃を置いて、目の前の芹沢と真剣に向き合った。
「芹沢さんは浪士組にとって、とても大切な人です。ずっといて欲しい人です。私にできない事ができる局長です。邪険になど、する筈がないでしょう」
どうかな、と芹沢の閉じかけの瞼に埋もれた目が、黒い着流しの男を一瞥した。真っ直ぐな性格の近藤は、こんな恥ずかしい台詞を本気で言っているが、左右を固める食えない参謀二人は怪しいものだ。
腹立たしい。
「芹沢さんを信じています」
どうしようもなく苛つく。盃を握る手に力が入った。衝動が突き動かす。
「おいっ!」
目を瞑った近藤の頭から、雫が垂れた。彼の引き締まった頬を、酒が伝う。ふくよかな香りが、部屋に充満した。片膝をついて芹沢と喧嘩を売ろうとする土方を片手で制し、近藤が、つ、と顔を上げた。朗らかさは消え、その眼光は眩しいほどに真摯で、芹沢は思わず目を逸らす。彼の局長たる所以が判る顔つきだ。
「芹沢さん」
一言が、静かな空間にそっと置かれた。静寂は今や只、彼が言の葉を発する為に訪れている。
「素直に受け取ってください。俺達は、目的がひとつの同じ組織にいるんです。この言葉をそのまま受けちゃあ、くれませんかね」
「お前は人を何故疑わない。いつも真っ直ぐで、……その何の曇りもない目で正論をかざされると虫唾が走るんだよ」
「俺だって、別に疑わない訳じゃないですよ。でも俺は、芹沢さんを信じていますよ」
「儂は歯止めが効かねえ。嫌なことは溜めておかねえし、結局喧嘩になっちまう。人は儂を信じねえ。誰も信じてくれやしねえんだよ」
近藤には、芹沢の表情が少し悲しそうに見えた。怒っているのに、その面相に走るはやるせない思い。彼はいつも拳を振り上げるのが早計なのだ。だからいつも落とし所に迷っている。
「それでも!それでも俺は、芹沢さんの中にある志ってもんが、俺等とともにある事を信じています。やってしまった事は今度から変えりゃあいいんです。信じてもらえないならば、信じることからまた始めてみれば良いんです。大丈夫です、俺が芹沢さんを信じていますから」
引札…チラシ
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