この恋は清らかでひめやかなはずだった
はじめて見た時からきっと、わたくしはあの方に心を奪われていたのだと思う。
まだ幼子だった頃のことだから確かではない。もしかしたらお父様から聞いた話を自身の記憶として混濁しているのかもしれない。
それでもわたくしは確かに安鎮様をお慕いしていたし、その美しいかんばせにも劣らない心根の優しさと穏やかさが何より好きだった。
「じゃあ姫はいつか私のお嫁さんになるのだね」
その言葉を信じ続け、この方とめおとになれたらどんなに良いかと何度も夢を見ていた。
けれど本当はわかっている。
わたくしは姫であり、いつかはどちらかの殿方と一緒にならなくてはいけないことを。
今は侍女が相手をしてくださっている求婚者の方々のどなたかを選ばなくてはいけないということを。
ぜんぶぜんぶわかっていたのだ。
それでもわたくしは安鎮様があきらめきれなくって、今夜こうしてはしたなくも寝所にお邪魔していたのだった。
「姫、このような時間にどうされたのですか?」
安鎮様は突然現れたわたくしに驚きを隠せないようだった。
ああ、迷惑だったかしら。
そう思えば急に体が震えてきて、声に憂いの色が浮かぶ。
「こんな、こんなはしたない真似をするはずではなかったのです。ですけれど、安鎮様に一言お伝えしたくて……」
もう来年にはどなたかの妻となっているかもしれない。
だからそうなる前にただもう一度、二人でゆっくりと話す機会が欲しかった。
些細なことでいい。これからの旅路の安全を祈っていますとか、そういう何気ないことでいいのだ。
そう思うのに体がこわばってしまって声も出ないわたくしの手を、安鎮様が優しく握ってくださる。驚いて顔を上げれば、そこには穏やかなまなざしでこちらを見つめる安鎮様のお姿があった。
その眼ににじんだ優しさがじわじわとわたくしの心をほどいてゆく。思いの丈を募らせてゆく。
「あなたが好きです」
だからわたくしの口からつい、言葉が零れ落ちたのだった。
ああ、こんなことを言うつもりじゃなかったのに。
安鎮様は何もおっしゃらずにわたくしを見ている。きっと、戸惑っていらっしゃる。弁明するようにわたくしはつらつらと言葉を重ねた。
「わかっております、安鎮様は僧侶でいらっしゃいますもの。嫁ぐことはできないと、ずっと前からわかっておりました」
ああ、だけど。それでも。
「それでも、それでも安鎮様が交わしてくださった約束が忘れられないのです」
わたくしは、安鎮様の口から言葉が効きたい。
はいでもいいえでも、わたくしの思いを受け止めてもらいたい。
「そうか、姫は……私を慕ってくれていたのですね」
「はい。わたくし、ずっと安鎮様と一緒になれる日をお待ち申しておりました」
少しの沈黙の後、安鎮様はゆっくりと口を開く。
「ありがとう、姫」
そうしてわたくしの頭を撫でる手は、わたくしを傷つけまいとする優しさに満ちていた。けれど、ああ、そういうことだろう。
思わず涙をこぼすわたくしに、安鎮様はと言えば少し困った顔をして見せる。そして眉を少し寄せた後、言葉を紡いだ。
「最後の熊野詣をしてまいります。そうしたらきっと、あなたを迎えに行きます」
それは、わたくしがずっと聞きたかった言葉だった。
ずっとずっと、去ってゆく安鎮様の背中を毎年寂しく見送っていた。
けれど、ああ、この方は今わたくしを迎えに来るとおっしゃった。
わたくしを連れて行ってくれると仰った!
そうすればまたあたたかな涙が頬を濡らして、慌てて袖で拭いながらわたくしは口を開く。
「安鎮様……わたくし、わたくし嬉しゅうございます。夢ならばこのまま覚めなければいいのに……」
本当に、夢のようだった。
そうして歓喜の涙を流すわたくしをそっと抱き留めると、安鎮様はなだめるように背中をゆっくりと撫でてくださる。
どれほどの時が経ったろう。わたくしが泣き止んだのを見計らって、そっと部屋に帰るように促した。
本当は一晩を共にしたかったけれど、まだ安鎮様は僧侶の身でいらっしゃるのだ。だからわたくしはうんと我慢して、笑いながら部屋を後にしたのだった。
その晩が、わたくしにとって一番幸せな夜だった。
そうして数日が経って、そろそろ安鎮様がお帰りになる頃を迎えた。
けれども安鎮様はわたくしをまだ迎えに来ない。
どうなさったのでしょう。
もしや安鎮様になにかあったのではないでしょうか。
そう思えば胸が締め付けられるようで、いてもたってもいられない。
そんなわたくしのもとに一通の文が届いた。かぐわしい香が薫っていて、見なくても分かる。あの人ではない殿方からの恋文だ。文を受け取った侍女の者が文使いを帰そうとするけれど、わたくしはふと気まぐれに彼に問うた。
「あの、ここに来る途中に安鎮様という僧侶の方をお見掛けしませんでしたか?」
すると文使いは驚いて目を丸くした後「その方にはお会いしました」というものだから、わたくしはほとんど半狂乱になりながら彼に追いすがって事の次第を問い詰める。
「あの方はどうなさったのですか。どこかで休んでいらっしゃるのですか。どこか怪我でもなさっているのですか?」
そうすればしばらくの逡巡の後、文使いはおそるおそる口を開いた。
「安鎮という方は、こちらとは反対の方向に去ってゆきました」
その言葉がザクリと音を立てて胸に刺さった、ような気がした。そうしてじわじわとわたくしの心を蝕んでゆく。
どうして?
だって、わたくしを迎えに来てくださるって安鎮様はおっしゃったじゃない。何か、何か仕方のない理由があるはずだ。
ああ、それを直接確かめなければ。
気づいた頃にはわたくしは周りの制止も振り切って、彼へと続く道を無我夢中で駆けていたのだった。
息が切れて苦しくって、それでもがむしゃらに足を進める。だって、足よりも肺よりもなにより心が痛い。死んでしまいそうなほど痛い。
これはきっと、あの方に会わなければ治らない。
大丈夫。きっと何か理由があるはず。
だってあの方はわたくしを迎えに来てくださるといった。だから大丈夫。
そんな風に自分自身を慰めながら道を進んでいけば、不意に視界が大きく開ける。広く大きな川の前に立っているのは他でもない、安鎮様だった。
「安鎮様!」
良かった、やっと会えた。
声を大にして叫べば安鎮様がゆっくりと振り返る。そんな彼に向かってわたくしは涙ながらに問いかけた。
「どうしてわたくしを置いてゆくのですか?」
その理由をどうかお聞かせください。
そう思って彼に詰め寄れば、少しの沈黙の後安鎮様はわたくしからふいと顔をそらす。そうして今まで聞いたことのないくらい冷たい声でこう言った。
「私はあなたのような娘は知りません。人違いではないですか?」
「……え?」
この方は今、なんとおっしゃった?
素知らぬふりをした安鎮様は、憐みの目を向けるとお経を口ずさみ始める。それはまるでわたくしが気狂いであると言われているかのようだった。
そのあまりの仕打ちに膝が震え、一歩も動けなくなってしまう。
そして動けないわたくしを置いて船に乗り込むと、渡し手にはっきりと言い切った。
「決してあの娘をこの船に乗せないでください」
どうして?
どうしてわたくしから逃げるのですか。
わたくしを連れ出してくれると仰ったのはうそだったのですか?
遠ざかる船を見送りながら、わたくしの中でめらめらと炎が燃え盛ってゆく。
「迎えに来るなどと、嘘をお吐きになったのですね」
自分が何か恐ろしいものに変わってゆくのを感じる。膨れ上がる感情が抑えきれなくって、次の瞬間弾けた。
それからはもう覚えていない。
必死に逃げるあの人の背中を追う、追う、追う。
涙で前がぐしゃぐしゃになって、憎しみで視界が真っ赤に染まって、それでも必死に背中を追い続ける。
そうしてたどり着いたのは、一つの寺だった。
降ろされた釣鐘からあの人の声が聞こえる。
ああ、ここにおいでなのですね。そこまでしてわたくしから姿を隠したいのですね。
そう思えばいっそ鐘さえ憎かった。
その行動の一つ一つがわたくしを傷つけて、はぁ、とついたため息はやけに熱を帯びていた。
「安鎮様、どうして嘘をお吐きになったのですか。どうしてわたくしから逃げるのですか?」
安鎮様がわたくしの言葉に答えることはない。
ただただわたくしを汚らわしいバケモノとして調伏するべくお経を唱え続けている。
それがあまりにも悲しくて苦しくって憎くって、それでもあなたがただ恋しくて。
恋なんてしなければ良かった。
いっそすべてを終わらせてしまおうと思った。
あんちんさま、と唇だけで囁けば言葉と共に炎が舌先に灯る。深いため息と共に鐘に炎が巻きつく。
そうしてゴウゴウと鐘ごと安鎮様を燃やし始めた。
「わたくしは、こんなにも貴方様を愛しておりますのに……」
届かないとわかっていながらも舌は勝手に回って想いの丈を募らせてゆく。
どうしてこんなことになってしまったのでしょう。
なにがいけなかったのでしょう。
だって、だってわたくしは……
「わたくしはただあなた様に正直になってほしかった。ただ一言、嫌ならそう仰ってほしかった。それなのに、どうして…………!」
たとえ受け入れられなくても、わたくしの愛に対して素直な言葉が欲しかった。
嘘なんて吐いて欲しくなかった。
この炎の猛々しさと同じくらい愛していると、どうして伝わらないのだろう。
けれどもう何もかもが遅い。
わたくしはそっと釣鐘に口づけを落とす。そうすれば大きな炎が釣鐘を包み込んで、あたり一面に肉の焦げる香りが漂った。
ああ、終わった。
夢を見ているかのようにぼうっとしたまま、わたくしは元来た道をたどる。
元に戻れば、家に帰れば、もしかしたら全て元通りになっているかもしれない
本当は安鎮様はもうわたくしの家に着いていて、わたくしの帰りを待っているかもしれない。
きっとそうだわ。
そう思って川を渡ろうとして、気づく。
水面に映っているのは、まごうことなき大蛇の化け物だった。その姿に悲鳴を上げれば、喉の奥から焔が漏れ出る。
それは、わたくしだった。
安鎮様を殺した化け物だった。
こんなにも醜い姿、もう誰にも見せられない。
もうだれも愛してくれない。
そう思えば喉が震えて涙が一人でに目からこぼれ落ちる。水面に落ちたそれは血の色をしていた。
けれどもうそれを拭ってくれるあの方はいないのだ。
その事実が胸に重くのしかかって、そうすれば身体も鉛のように重くなっていって、逆らうことなくわたくしは川底に身を沈める。
水の中は冷たくって暗くって、とても寂しかった。
その冷たい優しさに身を委ねれば、少しずつ頭が朦朧としてゆく。
そうしてわたくしはそっと意識を手放した。
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