α【2】

 ■ ■ ■



「確かにゆっくりしておいでとは言ったけど、逆上せるまで天春さんを付き合わせちゃ駄目でしょ、もう!」


 ぐわんぐわんと回る視界の中、熱の引かない身体を抱え、ぐったりとソファーの上に身体を横たえていると、視界の外から「ごめん……」としおらしい男の声が聞こえてきた。


「矢作くん、あまり天春さんに無理させちゃ駄目だよ」

「うん」


 夫を叱る妻の刺のある声音に、少しだけ、遠い過去のほの暗い記憶が首をもたげてくる。

 身体だけではなく心も弱っているのだろうか。歳を取ってからというもの、殆ど思い出すこともなくなっていたというのに。


「諏訪さん、大丈夫だから。あんまし浩太を叱んないであげて」

「天春さんがそう言うなら……」


 控えめになっていく彼女の声に、天井を見つめながら内心ほっと胸を撫で下ろす。

 諏訪さんが額に置いてくれた濡れタオルに手を伸ばし、触れた指先に冷たさを感じながら、ぐいと目元にそれをずらす。

 塞がれた視界の遠く、瞼の暗幕の向こう側で、二人の男女の姿が霞んだ。今、タオルの向こう側に居る夫婦と、俺が見ているそれを重ね合わせるのは、俺の中では言語道断だ。

 けれど、記憶の再上演は俺の意に反し、刻み込まれたフィルムの内容を壊れたように垂れ流し続けていた。


「まどか、ごめんね」


 ふと、頭上から耳慣れた声が降りてきて、闇の中の上演がさっと掻き消える。

 んあ、と間の抜けた声で返事をしながらタオルを退けると、部屋の明かりの眩しさと共に心配そうな面差しで俺を見下ろしてくる、スウェット姿の矢作浩太と目が合った。


「いや、俺ももう、若くないんだろうな」

「まだ31でしょ」

「もう31だよ」


 彼は俺のすぐ傍らの床に腰を下ろし、明るく賑やかな笑い声を垂れ流すテレビ画面に向けて、バツが悪そうに視線を反らした。

 響くように回る視界で彼の端正な顔立ちを眺めていると、瞬きが普段より若干頻繁で、伏せられた睫毛が彼の感情を反映するように揺れており、未だ反省の色が拭えていないのであろうことを窺い知れた。

 と、眩む思考の中でもう一つ、年頃の彼女からの宿題を思い出す。


「浩太」

「ん?」


 声を掛けると、即座に彼は俺に振り向く。名前を呼ばれ、きょとんとする彼の顔を視界に映した後、台所で明日の仕込みに勤しむもう一人に向けて、再び名を口にする。


「と、諏訪さん」

「あ、はい?」


 こちらもきょとんとした調子の声をあげている。蛇口から流れ出る水の音が止み、ぽんぽんとタオルを叩く音が聞こえた後、ゆっくりとした足取りで俺のいるソファーへと軽い足音が近づいてきた。


「うちの学校の、今年の文化祭なんだけどさ」

「ああ」


 生返事をしたのは旦那だ。


「もし来れそうだったら、来ないか?」

「文化祭って、11月でしたっけ」

「まだ5月だよ、随分気が早いじゃん」


 視界の中にやってきた矢作夫妻は互いに顔を見合わせ、寝そべる俺を同時に見下ろした。流石夫婦、息はぴったりなようだ。


「今日カウンセリング来た子が、二人に会いたがってて」

「俺? なんで」

「私もですか?」


 不思議そうに目を丸くする二人を見て、放課後の少女の姿が思い起こされる。と、帰り際の彼女との口付けを思い出してしまい、んぐ、と唇を引き結んだ。


「何その反応」

「なんでもない」


 俺の妙な様子を見て、浩太は目敏く突っ込みを入れてくる。こういう変なところに気がつくところも、彼と彼女は似ているな、と思った。


「今から有休入れておけば、まあなんとかなるかな。直前でどうなるかはわかんないけど」

「仕事あったら大丈夫だから、無理しないでな」

「一応空けとくつもりで会社には言っとくよ」


 会社勤めの嫌なところは、日程をある程度拘束されているところだ。社会人として律儀に通勤しているのであれば、避けられないことではあるのだが。


「私はパソコンさえあればどこでも仕事が出来るので、行けますよ」

「ノマドワーカー、いいなぁ」


 素直な感想を口にすると、諏訪さんはふふ、と控えめながら得意気にはにかんだ。横から旦那も「うらやまー」と口を挟む。


「じゃあ、一応来るつもりってことで、話しとくわ」

「はい。どんな子かわからないですけど、よろしくお願いします」


 それ以上特に詮索することなく、台所に戻っていく諏訪さんの後ろ姿を見送る。若干の不安はあるものの、特に警戒されることなく受け入れて貰えるのは有り難い。

 さて、そろそろ熱も引いてきたことだし、矢作家のお相伴に預かろうかと身体を起こそうとした、その時。横に残っていた浩太が、音もなくぬっと俺に顔を近づけてきた。

 突然の距離感に驚き、わっと声をあげてしまう。それでも引かない彼の態度に、急にどうしたのかと至近距離で目を合わせると、心なしか彼は若干不貞腐れたような顔つきになっていることに気が付いた。


「どしたの」

「……その子、まどかと普段、どういうことしてるの?」


 む、と唇を尖らせている。まさか自分より十個も年下の高校生相手に嫉妬しているとでもいうのだろうか、この男は。


「お話してるくらいだけど……」

「ほんとに?」


 何が引っ掛かるのか、諏訪さんとは逆にしつこく詰問口調を続ける男に、実のところ後ろめたい出来事がないわけではないので、思わずすーっと視線を反らしてしまった。

 彼は当然、俺のその態度を見逃さない。


「どんなお話?」

「家庭のこと……とか、学校……」

「ねえ、なんでこっち見ないの?」

「え、いやあ……」


 先生、と俺を呼ぶ少女の声が、遠く記憶の彼方から聞こえてくる。その後に続く言葉も、その後の彼女の行動も、密着した布越しの体温も。


「……天春先生?」

「なん、で、お前がそれ言うんだよ」

「先生、生徒と変なことしてないよね?」

「するわけないだろ」

「まどか、嘘つくの下手だよね」


 お前が目敏いんだろ、と思わず口をついて出そうになった抗議の言葉を、咄嗟に呑み込む。もうバレているとはいえ、それを言ってしまったら、彼の中の疑惑を俺自らが肯定してしまうことになるからだ。


「まあいいや」

「え」


 途端、あっさりと引き下がる彼に拍子抜けしてしまう。何なんだ、一体……と急な手の平返しを食らって逆に不気味さすら覚えていると、彼はすっと目を細め、熱を感じさせない冷徹な目つきで何処とも知れない方向を見やり、俺から視線を外した。


「直接会って、本人に聞くから」

「は?」


 何を言い出すんだ、この面倒な男は。完全に変なスイッチが入っているじゃないか。

 駄目だろうお前。俺が絡むとなればお前は、多分相手が子供だとしても遠慮などしない。そういったことを理解できる精神年齢だと判れば、絶対に野郎同士の関係性を匂わせておくに違いない。

 自分がよく会って話しているカウンセラーの先生が、陰でとあれやこれやしてるなんて知れたら、年頃の娘はどんな方向に豊かな想像力を発揮させるかわかったものではない。

 それでなくとも永浦さんは少し、いやかなり普通と比べれば特殊な子なのに。

 さらに同じ極を近づけたら反発するというのは、常識的に誰でも知っていることであろう。つまりは、だ。

 矢作浩太と永浦桐乃は、恐らく、俺を挟むことによって頗る相性が悪くなる。


「待って、それは駄目」

「なんで」

「なんでも!」


 奥さんが晩御飯を準備しているテーブルに移動しようとする不穏な男の腰に纏わりつき、話は終わっていないとばかりに引き留める。我ながら無様極まりない体勢だが、こうなるとこの眉目秀麗な男は昔から面倒なのだ、形振り構っていられない。


「天春さん、落ち着いたのならご飯にしましょう?」


 男が二人、年甲斐もなくじゃれあっていると思ったのか、お茶碗を出しながら諏訪さんが優しく声を掛けてくれた。


「まーどか、ご飯食べよ?」


 妻の調子に合わせてか、旦那は先程の表情が嘘のようにぱっと明朗な顔つきになる。甘ったれた声音で言いながら、楽しそうにわしゃわしゃと俺の髪を撫でてくる美人に、ああもうこれは駄目だなと彼から手を離した。

 もうこうなっては、俺が何を言おうと彼は止まらない。せめて浩太と永浦さんが顔を合わせるときは、浩太が変なことをしないように見張っていることしかできないだろう。

 ……永浦さんの方も、大人しくしてくれていると有り難いのだが……無理かなあ……。


「まどかー、唐揚げあーんしてあげようかー?」

「いい、自分で食えるよ」

「まぁまぁ、遠慮しないで、ねっねっ」


 一変して上機嫌すぎる浩太の態度にデジャヴを覚えつつ、馴れ馴れしいくらいに俺にすり寄り、ぎゅっと俺を抱擁する美人に観念する他なかった。まるで暗に逃がさないとでも言われているかのようで、思わず乾いた笑いが零れてしまう。

 見ていた諏訪さんは「また始まった~」と呆れた様子で止めることも特にせず、そのまま炊飯器を開けて、それぞれの茶碗にご飯をよそい始めた。

 もう十年前から、俺達はこんな感じだ。じゃれる浩太と、それを相手にする俺と、見守ってくれる諏訪さん。三人がバランス良く関係を保ち、適度な距離感で、互いの強すぎる癖を受け入れて、尊重し合って、そうして今の時間がある。

 何だかんだ言いつつ、俺はこの面子で集まる空間が好きだ。春の陽気のような、気持ちの良い暖かさを常に内包している場所。帰れば必ず居場所があり、それまでどんなに気を張っていても、不思議と気が緩んでしまう、そんな居心地の良い場所。



 ここがきっと、俺の居場所。

 俺が居ても、許される場所。



「なんかさ」

「んー?」


 俺の身体に腕を回し、マーキングをするようにぐりぐりと頬擦りをする大きな猫に向けて、ぽつりと物思いに耽るように、呟いた。


「……好きだなぁ」

「俺も好きだよ、まどか」


 ぐ、とソファーの上に押し倒される。ソファーの背に隠れ、諏訪さんの視界に入らなくなった場所。浩太はちらと諏訪さんの方を一瞥し、間を置かずして即座にまた顔を近づけてきた。

 今度は、直前では止まらない。

 互いの柔い部分が、触れ合う。

 次があるかと身構えてみるが、風呂場でのものとは打って変わり、意に反して今度はただ触れるだけの軽いものだった。ご飯を前にしているせいか、浩太は触れるだけ触れるとあっさり身を引き、代わりににや、と歯を見せて妖艶に笑んで見せる。

 あぁ、あの子もそのうち、こういう表情を作れるようになるのかな。


「やっぱ似てんなぁ、お前もあの子も」

「ふうん、やっぱりね」


 せーんせ、とやや拗ねたような表情で俺の頬をやんわりと抓る美人を前に「こういうところもな」とどこまでも似ている二人に対して、微笑んだ。

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