おまけ

α【1】

「まどか、この間会社でさ」

「うん」


 ぴちょん、と水滴が落ちる。湯煙に包まれる浴室の中、いい年をした男が二人、狭い浴槽の中で身を寄せ合ってお湯に浸かっている。

 何が悲しくてこんな状況になっているのかと問われれば、現状ではちょっと説明に困るので、どうか諸々察していただきたい。


「上司に子供作らないの? って訊かれた」

「まあ……そうな、お前の歳ならそろそろ訊かれるわな」


 セクハラで訴えることができそうな質問内容だが、俺の横で湯につかる矢作浩太は、見た目こそ女性のなりをしているが、れっきとした男性である。最近の若い子であれば男であろうと不快なら即訴えの声をあげそうなものではあるが、浩太はそういう性格ではない。


「籍入れてから……六年経ったっけ?」

「ん」

「じゃあ、訊かれてもおかしくない頃か」


 浩太は目を伏せ、口元まで湯に沈み、ぶくぶくと空気を吐き出している。

 俺の方はといえば、子供のような美人を横目にひいふうみいと指を折り、もうそんなに経ったのかと月日の過ぎる早さを感じ、若干ながら気を落としていた。

 そのうちに横の美人は吐き出す息が無くなったのか、ぷかりと浮上してくる。昔であれば、髪をお湯に浸けて貞子ごっこなる遊びもできたが、今ではそんな遊びをすることもなくなってしまったし、しようと思っても今の彼の髪型ではできない。

 彼は昔、腰より下まで髪が伸びきっており、風呂に入る際は毎回俺が束ねるか本人に結わいてもらってから入浴していた。だが就職を機にショートにしてしまってからは特に束ねる必要もなくなり、手がかからなくなったことに俺は少しだけ、寂しさを感じていた。


「まさかそういうこと一切ないわけじゃないでしょ? って」

「だいぶ突っ込んでくるじゃん、その上司」

「ね」

「嫌なら嫌って言った方がいいぞ、そういう奴は放っておくとどんどん調子に乗るから」

「別に嫌ってわけじゃないよ、そういう人には慣れてる」


 気にしていない素振りで淡々と語る浩太は、昔からの手癖なのか、殆ど無意識のように湯の中で俺の身体に手を伸ばしてきた。ぺたり、と彼のやや筋肉質な身体が密着してくる。

 浩太が身じろぎしたことにより、湯船の中の湯が僅かに浴槽の縁を伝って排水溝に流れていった。


「今は二人で居るのが楽しいから、作る気はないです、って返したんだけどね」

「いいじゃん」

「でもさ、子供云々っていうか、そういう方面に話がいくことあるんだよね、飲み会とかで」

「あー……まあ、どうしてもなぁ」


 湯の中で素肌と素肌が擦れ、彼の細い指先が俺の薄い腹をなぞる。堪えてはみるものの、こそばゆさに小さく身を捩ってしまう。捩るだけで、別段文句などは口にしない。

 彼はそんな俺の様子など意に介すこともなく、話を続けた。


「興味ないわけじゃないよ」

「そうなの?」

「うん。でも、それを諏訪さんで考えるのは、無理」

「んー……多分だけど、諏訪さんもお前に対して同じこと思ってるんだろうな」


 俺にとってはただの予想である返しだったが、浩太はそれでも幾らか安心したようにふっと息を漏らした。その吐息が耳元に当たるものだから、反射的にひくりと肩が跳ねてしまう。

 別に、彼の恋愛対象が女ではないとか、そういう話ではない。この夫婦は、互いが互いを大事にするあまり、男女間に起こり得るそういうことが、全くと言っていい程できないのだ。その理由は二人の悲惨な生い立ちが関係しており、彼が彼女を守ってきた理由も、互いの過去に起因していた。

 たった今行われている、彼と俺の妙な物理的距離感も、恐らくそれが関係しているのだろうと思う。


「ないわけじゃないでしょって、訊いてくるけどさ」

「うん」

「ないんだよね、なんにも」

「……お前と諏訪さんの今までを考えれば、すこぶる健全な関係だと思うよ」

「そっか」


 体勢を変えられ、後ろから腕を回される。こいつと風呂に入る際、為すがままに身を任せていると、いつも背後から抱きつかれる形になっている。男が二人全裸でこれというのは、見た目的にかなりあれだが、彼にとってはぬいぐるみを抱くのとあまり意味合いは変わらない。


「浩太さ」

「うん?」

「諏訪さんにこうやって抱きついたりとか、する?」

「え、なに急に。するけど」


 当然といったふうに語る浩太の態度に、そりゃそうだ、と内心自分で自分に突っ込みを入れた。

 そりゃあな、夫婦であればある程度は当たり前だろう。ちょっとだけ、安心した。


「でもそんだけだよ。抱きつくだけなら高校んときからやってたし、今更じゃない?」

「え、俺お前が諏訪さんにくっついてるとこ、あんま見たことないんだけど」

「? ……あーそっか。俺まどかがいるときは諏訪さんじゃなくて、まどかんとこばっか行くから」

「ああ、そういうことか」


 つまり、浩太の中の物理的接触をしたい相手の優先順位は、諏訪さんより俺の方が上だということだ。それはそれでどうなんだと思うが、彼の心は通常の心理では計り知れない複雑さを抱えている。彼なりの妻の愛し方、友の愛し方、接し方のルールがあるのだ。

 それは、彼の生い立ちが彼の心に残していった傷跡に、彼自身が触れない為の、巧妙に敷かれた予防線でもある。彼なりに平和に人を愛せるよう、抜け道を敷いた結果がこれなのだ。


「奥さん、大事にしてやれよ」

「してるよ、してるからそれ以上はしない」


 浩太の言っていることは間違っていない。二人の間には確かに愛情が存在し、確実に互いを尊重しあっている。しあっているからこそ、この二人は互いの身体に触れないし、触れてはならないことを知っている。

 何故なら、彼と彼女にとって『触れる』という行為は、相手を傷つける意味合いを持つ行為だからだ。


「俺が守るって言って一緒になってもらったんだから、そういうことするのは本末転倒でしょ」

「確かに」

「まぁ、まどかには、するけど」


 不意に俺を抱きしめる彼の腕に力が籠る。ぎゅ、と締め付けられる己の肢体を見下ろし、ああ、と思いながら力を抜いた。

 例えるなら、これは彼なりの反抗期だろうか。わざと反抗的な行いをして、駄目な行いの裏側を知る。子供が親だけを対象にした、小さな反抗期。だが彼の抱える闇は深く、そこから生じる葛藤も凄まじい。彼は抱える葛藤の一切合切を心の底に沈み込ませて、自分でもわからないように秘匿して、あたかも何も考えていないかのように振る舞う。その秘匿した感情をさらけ出せるのは、奥さん相手ではなく、未だに俺のままなのだ。


「まどか、ちゃんと食べてね」

「……そうな、こういう場面でお前を不安にさせるもんな」


 これだけくっついていれば、細かな体型の変化など嫌でもわかる。俺の方は肉やら筋肉やらが削げたようだが、浩太の身体は昔に比べてきちんと引き締まった体つきになっていた。安定した食事と、安定したコミュニケーションをとれる環境が整っているお陰だろう。彼には悪いが、俺は一人で安心させてもらっている。

 思い起こすと、出会ったばかりの矢作浩太という人間は、どうしようもなく傷だらけで、痩せこけていた。彼を取り巻く環境は、彼の身体を見れば一目瞭然で、初めて一緒に風呂に入ったときは横っ面を殴られたような衝撃を覚えたものだ。


「ちゅーしていい?」

「いいよ。俺が居るうちに、出すもん出しとけ」

「うん」


 彼なりの反抗期———八つ当たりが始まる合図。

 ぶつける矛先のない怒りは、静かに歪んで心を蝕む。ならば、心が自分を傷つけだす前に、どんな形であれ表に出して発散させてやった方がいい。

 端から見れば、俺は自分を犠牲にしているということになるのだろうか。まぁ、カウンセラーという道を選んだ時点で、自分を犠牲にするのを仕事に選んだようなものなのだが。

 ぱちゃ、とお湯が音を立て、波打つ。

 身を捩り、顔を後ろに向けて、口と口が触れ合う。啄むように唇を食まれ、やはり生きてきた年数と経験の差なのか、永浦さんのそれとは全く違うな、と密かに思った。

 うら若い少女と接吻しておいて何を贅沢な、と言われるかもしれないが、受け身の感想としては、やはり彼と彼女では行為の質が全く別物なのだ。

 彼女のはただ口を付けただけのシンプルなもので、まだ、浅い。勢いだけは彼と負けず劣らずだが、相手をその気にさせる蠱惑的な甘さはそこにない。


「ふ」


 ぞわ、と湯で温まった全身に鳥肌が立つ。

 女と見紛うきめ細かい肌が視界に映り、紅潮した肌色が湯のそれなのか、彼の抱える劣情のそれなのか、どちらが今は優勢なのだろうとぼんやり考えていた。


「まどか」

「ん……」

「したかったら、してもいいよ」

「しないよ、俺だってお前相手には出来ないさ」

「そんなこと言って、いい人もいないんでしょ?」

「……そういうのは、一人でするので充分なの」

「まあね、俺もいつもは、そう」



 細く美しい見た目に反して、貪るような荒い手つきに、そうか彼も男だったな、と何度目かわからない感想を、抱いた。

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