春の居場所【3】
■ ■ ■
「あ、おかえりなさーい、天春さん」
小綺麗なマンションのエントランスホールは、夜の帳の下で、人工的な光で以て一日の疲れを抱えた人間を優しく迎えてくれる。
閉ざされた自動ドアのすぐ横の壁に備え付けられたオートロックに、ぽちぽちと指定の番号を入力してやると、聞き慣れたインターホンの呼び出し音の後、すぐに耳に優しい声が静かな空間に響いた。
「急に連絡入れてごめんね、諏訪さん」
「いえいえ、いつでも好きなときに遊びに来てください」
インターホンの向こう側からの操作により、自動ドアが開かれる。慣れた足取りで穏和な声の主に開けてもらった廊下を進み、真っ直ぐエレベーターに乗り込んだ。
向かう先は五階。狭い箱の中で『5』の数字が書かれたボタンを押し込むと、淡い光がボタンの数字に点り、エレベーターは一人の疲れた男を乗せて、上昇を開始した。
最寄り駅から徒歩10分圏内にある、この出来たばかりのマンションは、簡潔に表すのであれば唯一つ、清潔の一言に尽きる。
俺が大学時代から細々と住み続けている、ここから最寄りの坂の頂上まで何十分と歩いた場所に建つ築うん十年という歴史を誇る、隙間風が身に滲みる六畳一間のボロアパートとは天と地ほどの差もあるマンションだ。
何故このような場所に、寂れた単身者が場違いにも仕事疲れの身体を引き摺ってまでやって来ているのかというと、大変誤解を招く言い方をするのであれば、顔馴染みの優しい人妻に疲れた心身を癒してもらいにやって来た、といえばわかりやすいだろうか。
ポーンと控えめな音を奏で、エレベーターの自動ドアが開く。開いたすぐ先には、一見すると小柄な少女と見紛う純朴そうな女性が一人、柔和な笑みを向けて佇んでいた。
「あ、お疲れ様です~」
「わざわざ出てきてくれたの?」
「はい、駄目でしたか?」
「駄目じゃないけど……なんか恐縮しちゃうな」
「えへへ、私が来たくて来ただけですよ。お気になさらず!」
小さな背丈の可愛らしい女性———
歩き出してすぐ、然程進むことなく辿り着いた一つの扉の前で、諏訪さんは華奢な手でドアノブを捻り、玄関扉を開いた。
ふと視線を向けた扉の横のネームプレートは未だに空欄のままで、防犯上の事だろうが、今時らしいなと思った。
「どうぞ」
「ありがとう。お邪魔します」
諏訪さんが先に玄関の中へと進み、俺は彼女の後から扉の向こう側へと進んだ。閉めた扉を振り返り、しっかりとサムターンを回して鍵を掛ける。あまりこの辺で物騒な話は聞かなくなったが、不幸体質である俺達にとっては用心に用心を重ねるに越したことはない。
玄関で靴を脱ぎ、真っ直ぐに伸びた廊下を進んでいくと、そこには心穏やかになる空間が広がっていた。
素朴な色合いで統一されたファブリック、所々にあしらわれた優しい木の色合いが目を和ませ、窓辺には花瓶に活けられた木の枝がちんまりと季節ものの実を付け、青葉を伸ばしている。
カウンターキッチンと、ダイニングテーブル。相談室に据えられたものとは違い、見るからに座り心地の良さを予感させる二人がけのソファーと、薄型のテレビ。
住む人の落ち着いた人となりを感じさせる、今時らしい品のある部屋の内観だった。
この部屋に置かれた家具等は殆ど全て諏訪さんが選んでいるというのを聞いたときは、素直に「彼女らしいな」と思ったものだ。住まいを同じくする彼女の旦那も昔から派手なものを好まない綺麗好きであった為、彼女の趣味を殆どの面で反映させているのを見るに、彼女の慎ましい趣味は彼の性格に合っていたのだろう。わざわざ茶化すような真似はしないが、全く似合いの夫婦だと思う。
邪魔にならない適当な場所に仕事鞄を置き、とりあえず着ていた上着を脱いでいると、すかさず諏訪さんが「上着、ハンガーに掛けておきますよ」と声を掛けてくれた。諏訪さんは今も昔もよく気がつく性格で、こうやってしょっちゅう世話を焼いてくれる。俺のような寂しい奴の相手をさせるのは、全く以て勿体無いくらい出来た女性だ。
「いつも悪いな」
「いえいえ、好きでやってますから」
にこりと屈託のない笑顔を見せる彼女に、脱いだばかりの上着を預ける。諏訪さんは俺の手からそれを受け取ると、壁際にあるコートハンガーに手際よく上着を掛けてくれた。
「天春さん、今日は何かありました?」
「え?」
「いつもうちに遊びに来るの、翌日がお休みの日が多いでしょう? 明日に響くからって」
「ああ、うん……えと、体重計を」
「?」
心配そうに俺の顔を覗き込んでいた彼女は、妙な単語を口走る俺の様子をきょとんと目を丸くして見つめた。
「うちに体重計無いから、ちょっと借りたくて」
「体重、ですか?」
事情を呑み込めない様子で、諏訪さんはただびたすらにぽかんとした表情を浮かべるばかりだった。
無理もない。いつもは金曜か土曜にしかやって来ない来訪者が、今日に限っては何を思ったか一週間のほぼ始まりに当たる火曜日にやってきているのだ。その上どんな大それた事情でやって来たのかと思えば、その目的は体重計を借りたいなどという、少し疲れているのではないかとしか思えない珍妙な理由で人様の家の敷居を潜って来ている。これではますます、心配されてしまうことだろう。
「今日さ、カウンセリング受けに来た子がね」
「はい」
「先生痩せたって訊いてきて、明後日までに体重量るの宿題、って」
「ああ、成る程です。納得できました」
やっと事情を理解できた彼女はほっとしたように微笑み、困ったように眉を下げて俺の傍に歩み寄った。俺の肩ぐらいまでしか届かない彼女の身長は、近くに並ぶと余計にその小柄さを実感し、愛らしい小動物を前にしているかのような優しい気持ちになる。思わず頭を撫でてやりたくなるが、思うだけにしておいた。
「天春さん、ちゃんとご飯食べてます?」
「食べてないことはないけど」
「じゃあ、ここ三日間ぐらいで食べたもの、教えてください」
「珈琲と、」
「それ飲み物ですよ」
「ツナマヨのおにぎり」
「ツナマヨ美味しいですよね」
「鮭おにぎり」
「矢作くんの好きな具材だ~」
「……」
「あとは?」
「……」
黙りこくってしまった俺の顔を、じい、と下から覗き込む諏訪さん。母親が子供を問い詰めるようなむっとした目つきをしており、こんなに可愛らしい見た目なのに不思議と威圧感たっぷりに感じてしまうことに少し驚いた。
お母さんのような諏訪さんに対して俺の方はどうかというと、これまた叱られた子供のような表情を浮かべ、猫背気味に背を丸めて黙ったまま俯く。が、俯くと諏訪さんと目が合ってしまうため、気まずさの為に徐々に顔を明後日の方向に少しずつずらしていき、まるでアハ体験のようにゆっくり、ゆっくりと諏訪さんから顔を反らしていった。
「天春さん」
徐々に外側を向いていく顔目掛けて、彼女は目敏く手を伸ばす。飛ぶ蚊を捕まえるようにぺちりと俺の頬に手の平を当て、そのまま添えた手の力で外を向いていく頭の動きを静止させてきた。
アハ体験、バレるのが少し早すぎやしないか。
一瞬にして気まずさが倍増し、最早彼女に合わせる顔が無い。
「それ、つまり食べてないってことですよ」
「……お米は主食だもん……」
「天春さん、私が天春さんのお家に初めて行った時も、お米だけ用意して後は何もない食生活を送っていましたよね?」
「……そっすね」
懐かしい話を持ち出すものだ。諏訪さんが語っているのは、今から約十年前の話だ。俺は一人暮らしの冴えない大学生で、浩太と諏訪さんはまだ高校生だった。
狭い我が家に浩太と共に転がり込んできたまだあどけない彼女は、俺と浩太の食生活の杜撰さを見かねて、食事係を買って出たのだ。彼女のお陰で我が家の食事環境はすこぶる良好になり、俺自身、彼女の人柄が滲み出る優しい味付けの手料理の虜になっていて、すっかり胃袋を掴まれてしまっていたのだった。
「さては、また同じ生活を送っていますね?」
「……お米食べておけば、なんとかなるかなって」
「なりません、食事はバランスですよ」
ごにょごにょと言い訳をする俺に、諏訪さんは手厳しく正論で返す。全く以て、その通りだ。
諏訪さんは「もう」と唇を尖らせながら呆れたように肩を竦め、叱られた猫のような態度でどんどん背を丸めていく俺を見やり、頬にやっていた手をさらに上の方へと伸ばした。
ぽん、と頭に彼女の小さな手が乗る。
「お仕事も大事ですけど、自分も大事にしてくださいね。身体は資本ですよ」
そっと優しく、幼子を相手にするように彼女は俺の頭を撫でる。
この歳になって人に頭を撫でられるというのは、流石に少し気恥ずかしい。けれど、彼女からされるのは、嫌ではない。彼女の圧倒的な包容力に甘えてしまいたくなる心をぐっと抑え「ありがとう」と小さく口にするだけに留めた。
「今夜はご飯、食べていってください。それから、明日はお弁当を作りますから、持っていってください」
「それは悪いよ」
「だーめです! 矢作くん、普段私になに話してるか知ってますか?」
「何話してるの」
「まどか、ちゃんと食べてるかなぁ、ですよ」
最愛の妻を前にしてそれか、もっと別に話すことがあるだろう。気にしてもらえるのはありがたいが、仮にも二人の愛の巣で通っている場所で部外者の心配ばかりしていては、彼女も気分が良くないのではないか。夫としての立場を考慮するなら、それは彼の反省点な気がする。
「折角二人きりなんだから、もっと二人の話をした方がいいんじゃないかなあ」
「二人の共通のお話が、天春さんなんですよ」
「それじゃあちょっと、花がないんじゃない?」
「天春さん。天春さんはもっと、私と矢作くんにとって天春さんがどんな存在になっているか、わかった方がいいと思います」
そう言って貰えるのは有り難いと思う反面、そんな大した事はしていないという過小評価が、己の足を引っ張る。
思い返してみても、本当に大した事はしていないのだ。一人暮らしという立場を丁度良く使い、未成年だった男女二人を部屋の中に匿ってやっていたくらいで、それ以外は世話をして貰うことはあれど、世話をしてやった覚えはこれといってない。
今思うと六畳一間の狭い空間で三人の人間が共同生活を送るのは流石に無理があったし、古い建物の壁は薄く、風呂やトイレの音も当たり前のように丸聞こえで、年頃の子からすれば気の毒なことをしたなと思っている。部屋数も一つしかないが故にプライベートは無く、常に顔を突き合わせている状態で四年もの大切な思春期の時間を気苦労に費やさせてしまったのだ。
それだけではなく、生活能力の欠けていた俺の落ち度により、彼女は家の中の家事全般を請け負ってくれるようになっていたのだ。家長であり、年長者でありながら生活のいろはを四つ年下の少女に教わることになり、我ながらこんな駄目な大人の相手をさせるのは本当に忍びなく、何故彼女は優しい母親の手を振り払ってまで俺達との時間に固執したのか、正直理解に苦しむ面があった。
俺個人の感想を述べるなら、彼女には俺達が健康的で文化的な生活を送れるように、自分の青春を犠牲にしてまで献身的に努めて貰い、ひたすらに申し訳無いという気持ちと共に、かけがえのない時間と経験を共有してくれたという意味で感謝してもしきれない。
「天春さんが居なかったら、私達、今頃どうなってたのかわからないです」
「そんな、大袈裟な」
「大袈裟じゃないです。私と矢作くんの中心にあるのは、天春さんなんですよ」
「……」
「だから、天春さんにはいつまでも元気でいて貰わないと、私と矢作くんが困ります」
「……すみません」
「今夜はうちで休んでいってください、ね?」
「……はい」
心の底から俺を心配する彼女の心からの言葉に、言い訳も出てこなかった。
二人にとって、きっと俺という存在は、人生の大半を占めている存在なのだろう。自分がそこまで人の心に大きく影響を及ぼせるような存在になれるとは思っていなかったものだから、何度似たようなことを二人から聞かされても、全く実感が湧くことはない。
けれど、俺の考えが及ばないところで、二人の中には確かに『天春円』という存在が刻み込まれており、それはきっと二人の中に未来永劫、俺が居なくなった後にも、二人の中に俺という存在は残り続けるのだろうと思う。
それは人としてとても喜ばしい反面、俺にとっては恐ろしいことでもある。誰かの中に俺が居る。俺という存在が認知される。俺はそれが、とてもおぞましく、怖いのだ。
と、ガチャリ、と不意に小さな音を鼓膜が拾った。
音のした方を俺が見やるのと、諏訪さんが「あ」と声を出したのはほぼ同時だった。
真っ直ぐに伸びた廊下の末端、玄関扉がすっと開かれる。先程の音は、扉の鍵が開いた音だった。
「おかえりなさーい、矢作くん」
明るい声音で玄関に声を掛ける諏訪さんに、俺は少しだけ身構える。ああ、旦那が帰ってきたのか、と思ったからだ。
冷静に今の状況を考えると、旦那の留守中に妻が一人でいる部屋の中に、赤の他人である男が入り込み、二人きりの時間を過ごしていたところに旦那が帰宅した、ということになる。まるでお昼の泥沼と化したドラマの状況そのもののようで、何だか変な苦笑いが浮かんでしまった。
「ご苦労さん、お邪魔してるよ」
開かれた扉の向こうに立つ人物に向けて、軽い言葉を投げかける。俺たちの関係に、最早緊張感は不要だというのに、立場や環境が変わっただけで、俺は何を今更遠慮しているのだろうか。これも難儀な性分ゆえか。
扉の先には、艶のある美しいショートヘアを無造作に流し、ジャケットの前のボタンを外したラフなスーツ姿のこれまた端正な顔立ちをした女性……ではなく、容姿端麗な男性の姿があった。
彼こそが、かつて俺の部屋で諏訪さんと共に共同生活を送っていた、面子の中では最年少に当たるもう片方の高校生———
「まどか! まどか来てる! どうしたの大丈夫!?」
見た目からは想像もつかない勢いと幼稚な物の言い方に「変わんねえなぁ」と無意識に独り言ちた。
ばたばたと慌ただしく革靴を脱ぎ捨て、急いで部屋の中にあがったところで、はたと振り返り、いそいそと自分が脱いだ靴を律儀に揃えている。こういう変なところでマメなところも、彼は今も昔も変わらない。
「矢作くん、ただいまは?」
「ただいま!!」
靴を正す旦那の背中に声を掛ける妻と、それに元気よく答える旦那。夫婦というよりまるで小学生の子供とお母さんのような関係性に、思わず小さく噴き出してしまった。
「どうしたんですか? 天春さん」
「いや、垢ぬけねえなぁと思って」
「会社ではちゃんとしてるみたいですけど、うちに帰ってくると駄目なんですよね」
駄目とは身も蓋もない。直球な言い方に、諏訪さんもすっかりあの頃と比べて遠慮しなくなったなぁ、と感慨深くなる。
茫と幼稚な旦那の背中を眺めていると、靴を揃え終えた見目だけは麗しい男がくるりとこちらに振り返り、仕事疲れなど一切感じさせないやたらと輝きに満ちたエネルギッシュ極まりない瞳で俺のことを一点に見つめ、成人男性とは思えない落ち着きのなさでバタバタと足音を立てながら、俺目掛けて忙しなく駆けだしてきた。
まじか、と思いながら衝撃に備えて一応足に踏ん張りを利かせられるように構えておく。
案の定、浩太は遠慮を知らない小さな子供宜しく俺に向けて腕を伸ばし、獲物を捉える肉食獣のような動きで俺の身体を押さえ込むようにして抱きつき、締め上げるような勢いで少々過剰な抱擁をかましてきた。
俺よりも背丈のある高身長で容姿端麗な男からの愛情過多な挨拶に、死んだ魚のような目でされるがままに応える。両腕も含めて抱きつかれていて身動きが取れなかったので、辛うじて動く肘から下だけを使い、浩太の太もも辺りをぺたぺたしておいた。
「まどか来るって諏訪さんから連絡あったから、急いで帰ってきた!」
「仕事は大丈夫なのかよ」
「終わらせた!」
「相変わらずやることはきっちりやるなあ」
自分の妻と二人きりだったことについて一切触れてこない旦那も寂しいもんだなあと思いつつ、男同士のむさくるしい現場を目の前で繰り広げられる妻の方も一体どんな気持ちなのだろうと心配になる。
全身を使って存分に俺を堪能するケダモノの首筋に顔が当たり、ふっと男のそれではない甘い匂いと、柔軟剤のにおいが鼻腔を掠めた。柔軟剤はここに越してきてから香るようになったが、この、人を変な気にさせる匂いは未だに香るのかと思い、見目も手伝って普段の生活に不要な苦労を背負いこんでいないかと老婆心ながらさらに心配になった。
「二人とも、お風呂沸いてるので先に入ってきちゃってください。その間に晩御飯、用意しておきますから」
「おっけー」
ぱっと俺から身体を離し、軽い返事をしながらジャケットを脱ぎ、ネクタイを外す浩太と、それを受け取る諏訪さんの阿吽の呼吸を見つめる。流石に二人で暮らしているだけあり、この脱いで渡すという流れはルーティーンになっているのだろう。ふと、そういえば浩太の仕事鞄はどこにあるのかと辺りを見回してみると、玄関に置き去りにされていたのを諏訪さんが立った今拾いに行っているところだった。「ごめーん」と謝るだらしのない夫に、出来た妻は特に気にする素振りもなく「いいよ~」と和やかに返事を返している。
果たしてこの夫婦はこの部屋に住み始めてからというもの、喧嘩をしたことがあるのだろうか。多分無いことは無いだろうが、ごく些細な言い合い程度で、しかし一瞬で終わるんだろうなと想像した。
「浩太、先に風呂行きなよ」
「え、まどか一緒は嫌?」
「えっ、嫌ではないけど……一人でのんびりしたいんじゃない?」
「逆に俺はまどかと風呂入りたいんだけど」
まじか、と胸中で二度目の嘆息を溢す。
三人で暮らしているときは、幼児とほぼ変わらない浩太と二人で風呂に入るのが日課だったが、大人になってからは流石に浩太の方から断ると思っていた。だがこの男ときたら、齢二十六を過ぎても未だに俺と風呂に入りたがる。諏訪さんの方もそれを承知しているので、今更何も言ってこない。
全く、どうしたもんかな。
「あ、俺着替えねえや」
「俺のがあるから着なよ。今日泊まる?」
「んー……そうだな、風呂まで借りちゃったら、今夜帰るの面倒くさくなるだろうな……」
「車でしょ? 朝帰ればいいじゃん」
「そうするか。いいかな、諏訪さん」
一応奥さんに同意を求めると「明日お弁当持たせるつもりだったので、その方が助かります」と快諾してくれた。妻の許しに喜んだのは旦那の方で、ぱたぱたとはしゃぎながら「やったやった!」と満面の笑みを浮かべていた。横で見るに、そのはしゃぎようは完全に小学生のそれである。
「なんか、逆になっちまったな」
「何が?」
「昔は俺が浩太に服貸してて、風呂もうちのを使ってたのに、今は俺が貰いっぱなしだ」
「貰った分は返したいじゃん、いいよそんなに気にしなくて」
けろりと口にする浩太に、諏訪さんも並び立って「そうですよ」と続ける。
「ここまでちゃんとした生活を送れているのは、天春さんに助けていただいたからです。恩返しさせてくださいな」
「助けてもらったことはあるけど、そんなに助けた覚えはないけどなあ」
「私たちに当たり前を学ぶ機会を与えてくれたのは、天春さんですよ」
それは、こっちの台詞だ。俺だって当たり前なんて知らなかった。知らなかった上で、出来る事をしたいと、そう思っただけだ。
けれど、その結果がこの温かな家族の形なのだと思えば、俺の向こう見ずなお節介も悪くなかったのかなと思える。
本当に俺自身、この二人からは学ぶことは多く、与えてもらうものも昔から大きい。大きすぎて、申し訳なくて、不安になるくらいに。
「さて、早いとこ二人でゆっくりしておいで、今夜は唐揚げだよ」
「唐揚げ好き!!」
「多めに作って、明日のお弁当にも入れてあげるから」
「よっしゃ!」
棘の欠片もない夫婦のやり取りを目の前にして、凝り固まった心がそっと解れていく感覚を覚える。
ああ、これだな。帰ってきた、そういう感じがする。
物理的な距離を空けたところで、俺たちの距離感は変わらない。いつでも心の真ん中に彼や彼女が居て、心が帰る場所として、辛いときに自分を支える折れない一本柱として、この関係は死ぬまで潰えることはないのだろう。
いや、きっと死んでも、潰えない。
「あ、ねえまどか」
「ん?」
思い出したように口を開く浩太に目を向ける。
浩太は眉目好い顔立ちで考え事をするような表情を作り、てくてくと幾分落ち着いた足取りで俺の傍へと歩み寄り、静かに目の前に立つ。きょとんとしながら見上げると、同じような顔をした彼と目が合った。
諏訪さんが見守る横で、浩太は勢いのない優しい手つきでさわさわと二の腕を触ってくる。触れられるがままに棒立ちしていると、今度は俺の背に腕を回し、何かを確認するように再び俺の身体を抱きしめた。
「どしたの」
「……、……痩せた?」
思わずぶは、と抱きしめられながら噴き出してしまった。
「え、え?」と困惑した様子を見せる浩太を他所に、くっくと堪えるような笑いを溢す。束の間の末、諏訪さんも思い当たる節に至ったらしく、くすりと小さく笑みを溢していた。
「何なに、なんで笑うの?」
「ほんと似てんなぁ、お前もあの子も」
この独り言は、今日で言うのは二回目だ。
今も昔も、俺が相手にしている人というのは、あまり変わりがないのかもしれない。俺は心底、こういう人間が好きなんだと思う。
多分、今までもこれからも、俺は俺の出来る事をする為に、いろんな人と関わっていくのだろう。力が及ばない事だってあるかもしれない。けれど、それも一つの結果であり、収束した可能性の一つに過ぎない。
俺は、俺が居るこの場所を、この世界を、伸ばした腕が届く範囲で、大事にしていきたい。
辿り着いたこの未来でしか出会えない全ての人と、人生を彩って生きていきたい。
幸と不幸、二つに寄り添って、俺はこの世界の俺として、明日も自分を探していく。
この辿り着いた幸せと、共に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます