春の居場所【2】

  ■ ■ ■



「先生、それ私も飲みたい」


 先程まで天春先生が腰を落ち着けていた、大層座り心地の悪いソファーに寝転がり、スカートが捲れ上がるのも気にせずぷらぷらと足を投げ出す。うら若い乙女にあるまじき素行に「こら、見えるよ」と軽い調子で叱る先生の言葉を無視して、私は横向きの視界の中で先生が片手に持つマグカップを指差しながら口を開いた。


「インスタントコーヒーだけど」

「いいよ、頂戴」

「砂糖とクリープは」

「あるの?」

「あるよ」

「じゃあ頂戴、たっぷり」

「はいよ」


 やれやれといった具合で先生は肩を竦めながら、古びた棚に手を伸ばし、一目で安物だとわかる作りのマグカップを一つ手に取った。その柄、その形、この間百均で見かけたなぁ、と呆けたように口を開きながらぼんやりと頭の片隅で思った。

 次いで、カップが置かれている周辺にあった黒っぽい粉が入った瓶を手に取り、マグカップの中にさっとティースプーンで掬ったものを入れていく。入れ終わると瓶の蓋を閉め、さらに白い粉、生成り色の粉をそれぞれの瓶の中に入っていたスプーンで掬っていき、全て同じマグカップに入れていった。

 保温になっているポットのボタンを押し、カップの中にお湯を注いでいく。濛々と浮かぶ湯気が、流れ落ちるお湯の熱さを物語っていた。

 ぼんやりと、只々ぼんやりと、天春先生が私の為に珈琲を淹れてくれている過程を観察している。じいっと見つめていると、先生はちらりと私の方を一瞥し「足」と一言、さも興味なさげに忠告し、視線を手元に戻した。私は特に体勢を変えることもなく、先生の手元を見つめ続けた。

 先生の少し骨張った手が短いティースプーンの柄を持ち、カチャカチャと音を立ててカップの中を掻き混ぜる。私の為の手つきだと思うと尚愛おしく、陶器に当たる金属の音が心地良く鼓膜を擽り、いつまでも聴いていられるような気がした。


「はい、おまちどおさま」


 コト、とソファーの目の前にある横長のローテーブルの上にカップが置かれる。天春先生の手がカップから離れていく光景がなんだか寂しくて、先生の指先をじっと観察していた。

 私の目の前に置かれたカップからは、白っぽい湯気が立っている。寝転がった私の視界、湯気の向こう側に、天春先生がさっきまで口を付けていたもう一つのカップを手に、教員用の椅子に腰掛けているのが見えた。


「先生、私の分まだ熱いから、そっち頂戴」

「冷ませば飲めるよ、ちょっと待ちな」

「やだ」


 駄々っ子のように唇を尖らせ、むすっとした顔つきで先生に向けて手を伸ばす。

 先生は幼児返りした私を何の感情も感じさせない淡白な表情で見下ろしながら、悠々とカップの中のものをずずずと啜った。あーあーあー、と赤子のようにさらに幼児返りしてみても、先生は表情一つ変えることはなかった。


「先生は私のこと嫌いかー」

「なんで」

「嫌いかー」

「嫌いじゃないよ」

「じゃあ好き?」

「……」


 この質問をすると、先生はいつも押し黙る。嫌いじゃないとは答えられるくせに、好きだとは答えられないのだ。カウンセラーが一生徒に「好き」という単語で贔屓目をしてはならないという、先生なりの線引きなのかもしれない。先生は皆に等しく平等だ、私はそれがいつも、酷くつまらない。

 思春期だもの、花の女子高生だもの、先生みたいな色男に好きだなんて言われたら、単純な私は簡単に勘違いしちゃうわ。だってまだ子供だもの、夢を見ていたい年頃だもの。禁断の、だとか、軽い代物じゃなくて、もっと燃えるような、背徳的で甘美な恋に焦がれる、そんな年頃なのよ。普通の恋すら知識も経験も無いくせに、欲張りセットな妄想なら大得意だ。これぞ若さの為せる妙技である。


「先生は、好きな人いる?」

「……うーん」


 先生はカップを両手で包むように持ち、悩ましげに思案し始める。

 なんでそこは悩むのさ。さっさと否定しなよ、馬鹿。


「いる、けど、あれは違うかな……」

「は? いるの」

「先生にも、よくわかんない」

「何それ」


 ひょこりと身体を起き上がらせ、きちんとソファーに腰を落ち着けて座る。やっと整った視界の景色、そこに映る正方向の先生は、難しいような、でも少し寂しそうな、複雑な表情を作っていた。

 先生の癖の付いた髪の毛先が、先生が身じろぎするたびにふわふわと揺れている。柔らかそうな髪に触れたくなって、けれど少し距離があるから止めておいた。わざわざ立ち上がってまで先生の髪に触れに行ったら、引かれるのは勿論のこと、逃げられそう。先生に引かれるのは良いけど、逃げられるのはちょっと淋しい。


「恋の相談、乗ってあげようか?」

「恋と呼べるようなものじゃないし、多分違うものだよ」


 野次馬根性で天春先生の赤裸々体験レポに挑めると思ったのに、当てが外れてしまった。舌打ちは寸でのところで押し殺した。

 しかし、先生も伊達に年を取っているわけではないようだ。なんだか大人は私が思うより複雑な世界に生きてるなぁと思いながら、天春先生が淹れてくれた目の前の珈琲に手を伸ばす。ふーふーと息を吹きかけ、先生の真似をするようにずずずと啜る。うん、甘い。すごく甘い。これだけ通い詰めていれば先生も私の舌とお友達になれるわけだ。味蕾ちゃんと以心伝心ね、自分の舌に嫉妬しちゃう、切り落としてやろうかこの野郎。私より先に先生と心を通い合わせてるんじゃねえ。


「距離感に困ったら、交尾すればとりあえず何とかなるよ」

永浦ながうらさんはその、いろんな段階を端からすっ飛ばして答えの先の先まで一瞬で及ぶ直接的思考を何とかした方がいいと思うよ」

「先生は早漏? 遅漏?」

「話聞いてる?」


 スン、とした表情で私の方を見る先生の目付きは、ここまで言っても大きく変動しない。

 悔しいなぁ、もっとこう、先生の表情筋を大きく豊かに動かしてやりたい。泣いて笑って怒って恥じらって、いろんな先生の妄想をするだけで心が幸せ一杯になる。詰まる所、わりと妄想だけでも天春先生を堪能できてしまうという事でもある。何だ、私って案外軽い女だな。


「好きって、さ」

「え、うん」

「俺から言ったのね」

「え? はい」


 どうしよう、自分から相談に乗ると言ったにも関わらず、早くも耳を塞ぎたくなっている。まさか本当に話してくれると思っていなかった。というか、先生の中に語ることの出来る甘酸っぱい思い出があると思っていなかった。

 先生は、私が生まれたときから先生で居てほしかった。先生は、先生という生き物で在ってほしかった。子供なりの、短い過去しか持たない生き物の、視野の狭い我が儘だ。


「でも、俺が言ったの、そういう好きじゃなくて」

「……どういう、好き?」

「わかんない」


 やばい、これ私が助言出来る話のレベルの範疇を超えている。直感でわかる、先生の語る経験談は、私からは想像もつかないような高度な世界の出来事の話だ。つまり経験の浅い今の私にとっては、想像して思いを馳せることも出来なければ、先ずそもそもどういった状況なのか想像することすら出来ないのだ。戦争を知らないのっぺりした世界で生きている人間に、突然手榴弾を投げつけられたようなものだ。私、今すごく肉やらモツやらぶちまけて赤色に粉砕しそう。


「向こうはそういう好きだと思ってたみたいで、でも俺自身、どういう意図で好きって言ったのかわからなくて。……だから、向こうの気持ちに対して否定もしきれなくて」

「なんで好きって言っちゃったの?」

「言わないと、離れていっちゃう気がしたんだよ。今言わないと、二度と会えなくなると思った。だから、好きって言葉で繋ごうとした。例え、それが勢いだけのその場凌ぎだったとしても」

「……あぁ」


 なんか、良かった、それなら私にもわかるかもしれない。


「それは恋ではないですな」

「そう思う?」

「うん。でも、愛にちょっと近いと思う」

「近いってことは、愛ですらないってこと?」

「そこは私もまだよくわかんない。でも、先生の好きは恋じゃなくて愛だよ」


 ぽかんと目を瞬かせる先生の揺れる睫毛を、適温になった珈琲を啜りながらじっと観察する。真っ直ぐに私を見つめる先生の色素の少し薄い茶色の瞳が、西日が入り始めた窓の光と一緒に揺らめく。

 ん、と先生は不意に顔を顰めて立ち上がりのそのそと窓際へ移動すると、ブラインドカーテンの紐を繰り、羽を僅かに斜めに傾けた。光が細く、顔に当たらない程度に部屋の中を照らす。


「先生、光に弱いよね」

「眩しいのが苦手なんだ。目がちかちかするし、光を浴びるのもそんなに好きじゃない」

「インドア?」

「うん、根っからの」

「夜な夜な生き血を吸いに来る?」

「残念だけど蝙蝠になって人を襲う類の人種ではないよ」


 ほぼほぼ謎かけに近い私のおちょくりにも、適当な解答をこれまた適当に回答してくれるので、会うたびにますます惚れっ気が加速してしまう。こんなひねくれた考えと口先ばかりだから先生に異性として相手にされないのは百も承知だが、だからといってしおらしくあえかに振る舞う趣味もない。別に私のこの捻じれに捻じれた思考回路が原因の百パーセントを占めているとも思っていないけど。どちらかというと、それは全体の四十パーセントぐらいなんじゃないかしら。ではあとの六十パーセントは? 十中八九、私の年齢と、あとは立場の違いだろうな。


「今、その、先生が好きって言った人、どうしてる?」

「別の人と結婚してるよ」

「ありゃー」

「別に、ありゃってわけでもないけどな」

「そうなの?」

「うん。だって、普通に嬉しかったし」

「ふうん、自分から離れていっちゃったのに、嬉しいんだ」

「うん。幸せになれたんだなぁ、前に進めたんだなぁって」


 教員椅子に座り直した先生は、静かに目を伏せる。その目の先には床ではなく、きっと在りし日の青く淡い記憶の断片が先生の心をスクリーンに見立て、スライドショーのように上映を続けているに違いない。

 今、先生の心は、きっとこの相談室の中には無い。


「恋でよければ私が教えてあげよっか」

「遠慮するよ」

「早いよ。もっとこう、うんうん首捻って考えて」

「もう恋なんてできる年じゃないんだよ、先生は」

「天春先生、今いくつよ」

「とっくに三十路は超えたさ」

「えっ……へえ」


 びっくりした。私の予想では天春先生は二十代半ばぐらいだと思ってたのに、私より一回り上だと。そんな馬鹿な。


「先生、昔から変わんないねとか、言われるタイプの人?」

「なんでわかるの」

「やっぱり」


 やっぱり、先生は昔からこの見た目なんだ。それってなんだか私からすれば、ちょっと得したような気分。だって、普通の年の取り方をしていれば、昔の天春先生は写真でしか見れないってことだ。でも、天春先生は今も昔も、たった今私が目の前にしている先生の見た目、そのものなのだ。なんだか説明しづらいけど、うふふ、私は天春先生の全てにおいては出遅れてはいないということだ。まだ、まだ追いつけるさ。ね、ね?


「ねえ、先生は、どうして先生になろうと思ったの?」

「え……うーん、どうしてだろう」

「気が付いたらなってたの?」

「考えてみたら、そうかも」

「親の言うことを素直に聞いて、親の敷いたレールをそのまま進んだらこうなってた?」

「いや、親は何も口出ししてない。むしろ親の言うことを全く聞かないで、その時々の自分が気になってる事だけを選んで生きてきたら、こうなった」


 淡々と話す先生は、回想を呼び起こす為にカップを口に付けながら、しげしげと天井に目を向けて思案している。

 まだ高校一年生である私からすれば、なんだか途方もない話だ。私もあまり先生と変わらない生き方考え方でここまで来て、なんとなくこの学校に入学して、なんとなく女子高生をやらせてもらっているわけだけど。先生を見ていると、その「なんとなく」の集大成を目の前にしている気がして、感慨深い。私も先生のように「なんとなく」を積み重ねていったら、先生みたいにふわふわの根無し草みたいな顔をしていても、なんとなくモノになっているような、そんな蒲公英みたいな花に成れるのかしら。


「じゃあ、昔から人の話聞くの好きだったとか、そういうの?」

「別に、好きで聞いてたってわけでもなかったよ。ただなんとなく、来てくれる人全てを受け入れて、一人一人と馬鹿みたいに真剣に向き合って、……何かを、そこで知ろうと必死になってた気がする」

「何を知りたかったんだろうね」

「多分、人の、感情かな」


 そう言う先生はカップを口に付けて傾けるが、はた、とカップの中を覗き込み、いそいそとインスタントコーヒーが入っている瓶に手を伸ばす。どうやらカラになっていたらしい。

 私も手元にある自分のカップを見下ろす。中身は半分ほど残っていた。


「先生、感情薄いもんね」

「仕事だから、あえて抑えてるのもあるよ」

「じゃあ、プライベートはもっと熱いの?」

「スポコンやるほど熱血でもないけど、それなりに熱くなることはあるよ」

「意外。先生、家でも能面かぶってるみたいに過ごしてると思ってた」

「そこまで感情死んでたら、一周回ってさぞ生きやすいだろうな。息してるだけで満足できそう」

「そうでもあるし、意外とそうでもなかったりするよ。身体は素直だから」

「……ごめんね」


 コポポ、とポットからお湯が注がれていた。先生の手に持つカップから、熱々の湯気が立ち上る。

 私にちらと目配せしながらも手元に注視しつつ、短い謝罪を口にする先生。眉を下げ、失言だったとばかりに反省しているような顔つきをしている。

 別にいい。普段なら、私は気にしていないのに勝手に過度に心を痛めて、相手の中の空想の傷ついた私の心に寄り添おうとする人間どものその心根に付き合わされる方が、私は心底気分が悪い。私はそこに居ないのに、抜け殻として相手の「可哀想」の対象になるのは、寄り添おうとしてくれる人の数だけ自分が沢山居るみたいで、気持ち悪い。

 けど、先生の表情筋を私の心の為に動かせられたと思えば、なかなかに僥倖。先生の中の私だったら、私が愛してあげられるかも。私が私を先生ごと可愛がってあげられると思う。好きは盲目で、偏愛的なのだ。


「先生、もっとしょんぼりして、可愛い」

「妙なこと言って大人をからかうな」

「からかってない」

「はいはい」


 いつものことだとばかりにさらりと受け流してしまう先生に、ちょっとだけむくれてみる。本当に、しょんぼりする先生をもっと見たかっただけだもん。それだけだもん。他の人が同じ顔をするとすぐさま顔面を摺木ですり潰してやりたくなるのに、先生だけにはもっともっとと思ってしまう。浅ましいだろうか、けどまあ、欲があるのは人間らしくていいと思う。私は私の気持ちを大事にするぞ、私偉いえらい。んふふー。


「先生のプライベート見たいから、今夜家連れてってよ」

「あ? 駄目だよ」

「何で。いいでしょ、うち今日親居ないから」


 今日に限らず、明日も明後日も、きっと居ないけどね。


「そういう問題じゃないの」

「先生の車乗りたい」

「帰り遅くなることがあれば送ってくけど」

「送ってくじゃなくて、そのままお持ち帰りでしょ!」

「先生をお巡りさんにしょっぴかせるつもりか」


 ぶー、と子供っぽく唇を尖らせ、抗議の意を示す。

 先生は淡々とティースプーンをカップの中でカチャカチャと回し、中のものを掻き混ぜ終えると、そっとカップに口を付けた。慎重に熱い液体を口の中に流し込んでいく様が、なんとも気だるげで、様になっていて、雑多な相談室の背景と相まって、不意に胸を打たれる。何度見たのかわからないこの光景が、私は堪らなく好きなのだ。


「先生、珈琲めっちゃ飲むよね」

「口が寂しくて、ついね。大学んときからそうだった」

「口寂しいなら、煙草とか吸う?」

「いや、吸ったことない」

「吸えば。きっとかっこいいよ」

「……煙草は、いいや、身体に悪いし」

「じゃあ私とちゅーしよ」

「なんでそうなる」

「だって口寂しいんでしょ?」

「駄目だよ、もっと自分を大事にしなさい」

「先生にしか言わないし」


 大事にした結果がこれだし。私は先生のことが好きなのだ。私の感性をこれ以上ないくらいに優先し、大事にした結果がこれだ。私は私に素直に生きている。こうやって生きられるようになったのも、先生のお陰なのだから。身も心も先生に捧げて何が悪いの。


「さては先生、ちゅーもしたことないな?」

「…………、……」

「え、何、なんで黙るの。図星でもそこまで傷つくことないじゃん」

「……あるよ」


 明後日の方向に目を向け、ぼそぼそと含むように口を開く先生に、一瞬呆気にとられてしまった。

 先生がキスをしたことがある、という事実より、三十路を過ぎた大人の男がまるで初恋を語る思春期のような甘い顔をして視線を反らすものだから、不意打ちに心の中がざわめき立った。


「は? 誰と? いつ? どこで」

「教えない」

「やだ教えて、今すぐ教えて」

「駄目」

「え、なんでなんで、お願い」


 懇願も虚しく、先生は完全にぷいと顔を反らしてしまい、その表情は窺い知れなくなる。それには我慢ならなくなって、私は即座にソファーから立ち上がり、椅子に座る先生のもとに詰め寄った。


「ちょっと、待」


 そっぽを向く先生の顔を無理やり両手で挟みこみ、力づくでこちらを向かせる。

 微かに紅潮した耳は熱く、こちらを向かせた先生の表情は、今まで見たことがないくらい、綺麗だった。

 言葉を失い、困ったように視線を泳がせる先生が、私の目と鼻の先にいる。か弱い小動物を嬲っているような気分になり、乙女にあるまじき俗な感情が胸を渦巻いた。加虐心を刺激する先生という目の前の生き物に、理性を飛ばすほどの意地悪をしてやりたくなる。

 きっと、あったのかもしれないな、私以外にこんなことを思う人が居て、それに先生が応えてしまったこと。

 だって、先生と生徒の関係がなかったら、今の私、きっとやってるもの。きっと煩雑な事情の一切をかなぐり捨てて、先生に手を出してしまっていたに違いない。


「ちゅーした人にも、そんな顔見せたんだ?」

「……止めなさい」


 手のひらに触れる先生の頬がみるみる熱くなっていく。狼狽した様子で視線を泳がせ、瞬きを頻繁に繰り返す先生に、ただでさえ近い顔をさらに近づけたい衝動に駆られる。

 ああ全く、天春先生は悪い大人だ。

 いい年をして子供の心をこうも容易く、掻き乱すのだから。


「ねえ、先生」

「手、離して」


 ぱっと手を離す。

 先生の前でだらりと両手を下ろして直立して見せると、先生は必死に己の痴態を隠すように、自身の前髪を頻りに撫でつけ、茜に変わりつつある窓の外に目線を向けていた。

 歯痒く空を握る私の手が、先生の心を掴みたがって、戦慄く。


「先生は、どうしてここのカウンセラーになったの?」

「……ん」


 一呼吸を置いて、気を取り直すように先生は目を閉じ、肩を竦めた。すっと一つ息を吸い、前髪と一緒に撫でつけた己の心の手を引くように、澄んだ面立ちで目蓋を開ける。

 膜を一枚隔てた向こう側から世界を覗いているような、いつもの泡沫に浮かぶ先生が、そこにいた。


「……、丁度募集かけてたから」


 夢がない先生の返答に、頬をぷっくりと膨らませる。仏頂面で目を細めると、先生も無言で同じように目を細め、膨らませた私の頬を骨張った指先で顎を摘まむようにして押し込んだ。ぷひゅう、と溜めた息を口から吐き出しながら、とんでもなく愉快でハイな気分になり、興奮を隠しもせず「もう一回」と強請ってみたが、先生は「んー」と適当に生返事をするだけだった。


「ここに来たの、それだけ?」

「あと、住んでるところからそんなに離れてなかったから」

「あとは?」

「あと……ねぇ……」


 真剣に悩み始めてくれた先生に、不貞腐れて曲がっていた私の臍はみるみる素直になっていく。嘘だけど。

 先生の困った顔は好きだ。私のいい加減な話の繋ぎ方に対して、そんなふうに真剣になってくれる、馬鹿まじめな先生が、好きだ。


「……昔馴染みの、母校だったから」


 尻すぼみになっていく先生の口元を見つめる。言い淀み、歯切れの悪くなった先生の物言いに、これは何かあるな、と察した。察したからには突っ込んでいかなければ、ね。


「昔馴染みって誰、どんな人?」

「近所の子。今でも関係が続いてる友達だよ」

「何年くらい続いてるの」

「んー……十年ちょっとくらい」


 十年、十年だって。十年前なんて私、馬鹿みたいな顔して鼻水ばっか垂らした小便臭い童女だったよ。

 そんな前から先生の人生はあるんだ、当たり前だけど。

 私がよちよち蝶々を追いかけ回して泥に足を取られてすっ転んで号泣していた頃、天春先生は私の知らない場所で、私の知らない人と、子供の思考では及びもつかない程の尊い時間を謳歌し、今に至る天春円という人間を作り上げていたのだ。

 なんだかそれって、とても不思議で、とても嫌だ。連綿と続く歴史の一端が、どうしても越えられない壁として、私の前に立ち塞がっているように感じられた。

 私の知らない天春先生。先生が先生じゃない時間が天春先生の本質なのだとしたら、私は先生のことをまるで何も知らないみたいで、そんなの、嫌だ。


「母校ってことは、卒業生なんだよね?」

「そうだよ」

「じゃあ今年の文化祭、先生の友達呼んでよ」

「うーん……いいけど、向こうも仕事あるから、空いてるかどうかわからないよ」

「それでもいいから、声かけるだけかけてみて」

「わかったよ」


 心なしか、先生の口角が僅かに上がっているのを見て、きっと相当仲の良い友人なんだろうなと想像を膨らませる。

 先生は出会いの全てと真剣に向き合う、とても生真面目な人だ。だからきっと、人の痛みを必要以上に背負ってしまうし、不必要な程に共感もしてしまう。それでも、内に感じ取った相手の感情については、何にも気がついていないふりをして、いつも通りの素っ気ない態度で、いつの間にか相手のとても深いところに居て、ただ黙って寄り添っている。

 だからこそ、先生を取り巻く巡り逢いの歴史は、きっと普通のそれとは比べ物にならないぐらいに深いし、先生にとってもまるで人生を賭けた宝物みたいな、そんな扱いなんだろうなと、浅知恵の片隅に思った。

 私も出来る事なら、その宝物の一つに成りたい。成れるかしら。天春先生は、私を天春先生が持つ数多の宝物の一つとして、心に仕舞ってくれるかしら。隅っこより少しだけ中央寄りがいい、視界の中にちらちらと触れる位置がいい。ああ、なんて厚かましいのかしら、私。


「……あ」

「え」

「いや、あるかもなと思って」

「何が」

「アルバム」


 きょとんと目を丸くする私を他所に、先生はゆっくりと椅子から立ち上がり、何を思ったか部屋の隅に雑多に積まれたハードカバーの本をちまちまと退かし始めた。暫くの間手を加えられていないのか、積まれた本を動かす度に埃が舞い、けほけほと先生は噎せ返る。


「ちょっと先生、大丈夫?」

「んー、平気」


 訊きながら私は窓際に移動して、錆びて動きの悪くなった鍵をえいやと捻って回し、すっかり立て付けの悪くなった窓をガッガッと叩くようにして無理矢理抉じ開けた。

 何だって先生の使うこの部屋は何もかもが古いんだ。入り口に掲げられた部屋の用途を示すプレートだって『応接室』と掘られた字の上に『相談室』と手書きで書かれた薄い紙が貼り付けられているだけだ。きっとあの紙の字は天春先生のものだろう。こんな寂れた陸の孤島みたいな場所に追いやられて、先生どう考えても苛められてるよ。

 空気の通り道を作るために出入り口の引き戸も開けてやると、途端に日没を感じさせる涼しい風が通り抜けた。古ぼけた空気を一掃するかのように吹き込んだ風は、部屋の埃を連れて廊下へと排出されていく。


「ああ、もしかしてと思ったけど、あった」

「何見つけたの?」

「歴代の卒業アルバムだよ。ここ、倉庫みたいな扱いの部屋だからさ、こういうお宝がたまに眠ってるんだよね」


 ここ、紛いなりにも相談室じゃなかったのか。天春先生は自分の仕事場を倉庫扱いされていていいのか。なんで何も言わないんだろう、全く、先生ってば優しいんだから。もっと声高に職員室で抗議したっていいと思う。

 結局、何も言わずに黙って現状を享受し、自分なりの安定を見つけ出せてしまう人というのは、諦観の凪に埋もれて、いつの間にか損な立場に堕ちてしまうものなのだろうか。

 自分の内面を変えるか、外側の環境を変えようとするか。その違いだけで人の置かれている状況というのは、かなり違ってくるんだろう。先生はバリバリの前者だろうけど、不平不満なんて言わないんだろうし、胸に抱くこともないんだろうな。


「天春先生」

「んー?」


 床に足を揃えてちょこんとしゃがみ、パラパラと厚紙の用紙を捲りながら、夢中になって紙面に視線を這わせる先生を見下ろす。声を掛けてみたが、先生の返事はどこか上の空だ。


「ソファー、座りません?」

「あ、うん、そっか、ごめんごめん」


 手元のアルバムから顔を上げ、先生は見下ろす私の顔を見上げて、照れくさそうにはにかむ。

 何だ何だ、随分と上機嫌じゃないか。そんな子供みたいに無防備な笑顔を浮かべて、おいちゃん知らないぞ、悪い大人に食べられても。悪い子供なら目の前に居ますけどね。

 先生はアルバムを二冊懐に抱き、さっきまで私が座っていたソファーに腰を下ろす。私もすかさず天春先生の横に勢いをつけて座り、猫のように先生の身体に頬擦りした。馴れ馴れしい私の態度に一切気を払うこともなく、終始淡々と先生は手元のアルバムにのみ意識を注いでいた。ここまで一貫して無視されると逆に清々しい気持ちになり、先生の腋の下に頭をねじ込み「こら」と流石に無視できなくなった先生の言葉を今度は私が無視して、先生の太ももに顔面を埋めて、渾身の力で先生の腰に腕を回し、絞るようにして抱きついた。


「何してんの、永浦さん」

「ハグ」

「もっと普通の体勢でやりなって」

「え、普通の体勢だったら普通にハグしてくれるんですか」

「いや、普通の体勢でもハグはしません」

「先生の噓つき」

「大人はすぐ嘘を吐く生き物です。諦めて」


 最早面倒くさくなっているのが態度の全てから感じ取れる雑な返しに胸をときめかせながら、ごろにゃんと先生の膝枕に甘える。ふと、腰に回した腕の感触に違和感を覚え、先生の洋服越しの鳩尾に顔を埋めてみた。

「こらー」

 頭上で棒読みな先生の声が聞こえる。先生の腹に耳を当てると、コポポ、とお腹が動く音が聞こえて、あぁ先生の中にも内臓が詰まってるんだなぁ、と感じた。


「先生、また瘦せたでしょ」

「そんなことないと思うけど」

「じゃあ、体重いくつ?」

「覚えてない」

「じゃあ宿題。今日帰ったら体重はかってくること!そんで、私に報告すること!」

「家に体重計無いよ」


 きぃー! と先生の膝の上でガラスの仮面も真っ青な奇声を上げていると、私が奇行を重ねている間に先生はいつの間にかアルバムをローテーブルの上に置いていたようで、頁を繰って目当てのものをゆっくりと目で追って探していた。陸に打ち上げられた魚のように先生の膝の上でのたうっていると、不意に頭上から「居た」と一言が零れ落ちてきた。


「誰が」

「友達」


 がば、と先生の膝の上で顔をあげる。もぞもぞと腋の下から頭を抜き、居住まいを正して、目の前に開かれたこの学校の歴史の一ページに目を落とした。

 日に焼けた頁の内側は、白い紙面が広がっていた。今開かれているのは、一クラス分の人数であろう集合写真だ。何故かアルバムは二冊広げられており、そのどちらも集合写真が載っている頁が開かれている。場所は全く同じ、今と何も変わらないこの学校の校門前だった。


「なんで二冊?」

「二人いるから」

「え、学年違うんだ」

「そう」


 天春先生の指先が紙面を滑る。複数の顔が並ぶ写真の中で、先生の横着しているのかやたらと爪の長い指先は、片方のアルバムの在る一点を指差した。

 指の先には、異様に綺麗な顔立ちで仏頂面を決め、これまた綺麗に伸びた長い髪を緩く一つに束ねた、男だか女だか判然としない浮いた生徒の姿があった。


「なん、じゃ、こりゃ」

「友達だよ」

「明らかに他の生徒と一線を画してるんですが」

「そうだな、教室でも浮いてるって本人がよく言ってた」

「そりゃそうだよ、こんな見た目の人他にいないもん」

「だよなぁ」


 クラスメイトの顔ぶれと見比べ、先生はくすりと小さく微笑む。その表情の優しいことといったら。本当に、先生はこの友達のことが心底大切で、心底人となりに惚れているんだろう。


「綺麗な女の人」

「男だよ」

「あれ、え?」

「スカート履いてないだろ?」

「そういうご趣味かと思った」

「残念。指定でした」


 どこのクラスにも、スカートを履きたくないからと言ってジャージのズボンを常に履いているような女子がいる。この人も制服のズボンでそれを実践する類の人だと思ったんだけど、どうやら天春先生の口ぶりでは、普通に男だから指定通りのズボンを履いているだけらしい。

 にしたってこの顔はないわ、これで男は無理がある。


「今この人何してるの、おかまバー?」

「普通に事務職してる」

「え、普通」

「そう、普通」


 この見た目でそれはちょっと想像できない。学校だけじゃなくて、今度は職場でも浮きまくっているんだろうか。天春先生のご友人は、苦労が多そうだと思った。


「名前はなんていうの?」

「内緒」


 パタン、とアルバムが一つ閉じられた。さっさと私がいるのと反対側の脇にアルバムを下げてしまった先生に「ちょ、ちょ、なんで」と抗議すらも動揺で間に合わない。


「来るかどうかはわからないけど、名前は会ったときに聞きな」

「なんで今教えてよ」

「やーだ」

「何で」


 未だもう一冊、頁が開きっぱなしになっているアルバムがある。先生は私のことを無視して残りのアルバムを手前に引き寄せ、写真に目を落とし始めた。


「こっちは誰」

「ん」


 先生の指先は、迷いなく一人の生徒を再び指差す。

 身長の低い、ゆるい癖毛を肩の下までふわりと伸ばした、見るからに温和そうな可愛らしい女の子が、こちらに向けて力の抜けた笑顔を浮かべていた。人畜無害そうなその立ち姿は、先程の男子とは比べ物にならないくらいに他の顔ぶれとよく馴染んでいる。悪く言えば地味、よく言えば普通の子、といった印象だった。


「女の子じゃないっすか」

「女の子だよ」

「嫉妬しちゃう」

「十年近く昔の子に嫉妬してどうすんだよ」

「でもこの子、当時から先生と付き合いあったんだよね?」

「まあ……あったけど」


 ぐ、と先生の頬っぺたを摘まんだ。「やえあひゃい」と淡々と叱る先生にむすっとした目を無言で向けながら渋々手を離した。


「はい、終わり」


 パタン、とまたしてもアルバムは無慈悲に閉じられ、あ、と声に出そうとしたが、それすら間に合わなかった。ムスリム文化の風俗店もびっくりなチラ見せに、もうちょっと教えるところは教えてほしい強烈なもどかしさに苛まれる。


「サービス悪いよ、せんせー」

「先生のサービスはお高いの」

「んぇー」


 二冊のアルバムを手に持ち、先生はのっそりと立ち上がる。元あった場所まで歩いていくと、ばさりとそれらを無造作に積み直した。

 と、冷たい風が窓から吹き込み、先生の癖毛をふわりと揺らした。頭頂からぴょんと一束起き上がった毛が、ゆらゆらと手招きするように揺れていて、なんだかそれが、面白かった。寝癖なのだろうか、先生の頭にはいつもアンテナのような癖毛がひとつ、直立してゆらゆらと揺れている。

 引っ張ったら、何か良いことあるかしらん。


「ああ、そろそろ時間か」


 先生は室内に備え付けられた壁掛け時計に目をやり、ぽつりと呟く。

 いつの間にか窓の外は夕暮れの朱色に染め上げられており、空は夜の帳を引く準備に取り掛かっているようだった。烏は鳴いていないけど、子供はそろそろ帰る時間だ。部活上がりの賑やかな生徒達の談笑が、木霊のように遠く聞こえてくる。


「永浦さん、今日はおひらきにしよっか」

「やだ」

「次の予約、明後日なら空いてるよ」

「お願いします」

「ん」


 私の我が儘など耳に入っていないかのように、事務的に己の仕事を遂行する天春先生の生真面目っぷりに惚れ惚れしてしまう。ほんと、先生は私をあしらうのがお上手になりましたこと。

 先生は教員机の引き出しを開け、渋い色合いの手帳を取り出し、胸ポケットに差してあったボールペンの芯を出して、何かを書き込み始める。大方、次の予約の予定を書き込んでいるのだろう。

 少し気になり、悪いと思いつつも視力だけ無駄に良い目で、ちらりと遠目に先生の手帳を覗き込む。詳細は読まなかったが、わりとびっしり一ヶ月を通して何かが書き込まれていた。

 先生、明日は私以外の子とこの部屋で過ごすのかしら。その子はどんなことを話すのかな、先生はどんなふうにその子と接するのかな。間違っても私みたいな奇人変人痴愚魯鈍の類いはやって来ないとは思うけど、それなりに楽しい時間を送るのかと思うと、妄想だけで胃が痛くなった。

 まぁ今日は仕方ない、ここで往生際を悪くしたところで、今度は先生の仕事の邪魔になるだけだ。ソファーのすぐ横の床に直置きしていた黒いリュックを拾い、パスケースに入ったICカード等の持ち物をざっと確認して、座り心地の悪かったソファーから「よっこいせ」と腰を上げる。おもむろにリュックの肩紐の内側に腕を通し、置き勉ゆえにやたらと軽いリュックを背負った。


「あ、そうだ」

「なあに、先生」


 思い出したように先生はこちらに顔を向け、帰り支度をする私を酷く優しい相貌で見つめてきた。夕日の朱が先生の面差しを染めて、世界と一緒に終わりを予感させる色に染まっている。

 その色は、どうしようもなく寂しい色だから、私は嫌いだった。


「腕、良くなった?」


 とんとん、と先生は己の左手首を右手の指先で叩き、具体的な箇所を示す。あっけらかんとした物言いに「ああ」と思い出したように心の籠らない声を漏らして、思い出したように自分の左手首を見下ろした。


「良くなった」

「そりゃ良かった」


 私の棒読みな言い方にも先生は何も突っ込まず、壁面通りの言葉を返す。

 先生はいつだって、人の大事な部分を掴んでいるのに、触れてこない。上辺だけの今の会話の裏側にどれだけの情報が詰まっているか、私も先生もよくわかっている。わかった上でお互いに流すのだ、さっぱり、さっくりと。

 ただ、上辺だけでもきちんと言葉にして、気にしていない訳ではない、忘れている訳ではないことを、先生は今日の締め括りに示したに過ぎない。先生はちゃんとスクールカウンセラーで、ここは学校の相談室で、今迄行われていたのはカウンセリングなのだと。


「予約無いときは、いつでもおいで。誰でも来られるようにしてあるから」

「言うて、ここの相談室の存在、致命的なくらいに知名度無いよね」

「はは、だよなぁ。誰も来ないよな、こんなとこ」


 まあね、と簡単に続けて、飲みかけだった珈琲をぐいっと一気飲みして、ステップを踏むように部屋の入り口のドアの前に向かった。

 くるりと振り返ると、先生はお見送りに私の傍までゆっくりと歩いてきてくれていた。先生の履いている室内履きのスニーカーが薄汚れた床を踏みしめ、一歩を進む度にタンタンと音を鳴らしている。当然だけれど、男性である先生の体格に見合った、私よりも少し重たい足音だった。


「明日はまあ、私以外の女の子と宜しくやってくださいな」

「はいはい、人聞きの悪いこと言わないの」

「文化祭の話、忘れないでよ」

「わかったよ」


 先生はふっと優しく微笑んで、私の目の前に立ち、ひらりと右手を振る。

 私も左手を上げて、手を振る先生の手を取って「え」と目を丸くする先生の手に指を絡め、一瞬の隙を見計らって先生の懐にさっと詰め寄った。

 焦がれ、けれどやめた衝動を、帰り際に発散する。

 先生に顔を近づけ、そのまま止まることなく、先生の柔らかい部分に自身の柔らかい部分をあてがう。


「ん」


 不意打ちのマウストゥーマウスに、先生の目が見開かれた。ロマンチックな行為のとき、普通は目を閉じるものだと聞く。けど、私も先生もしっかりと目を開いたままで、浪漫も何もあったものではなかった。

 怒られる前に素早く先生から距離を取り、踊るようにして今の気分を体で表す。呆然とした面持ちで時間を止める先生ににかっと歯を見せ、悪戯な笑みを向けた。


「先生、さようなら」


 は、と何かを言いたげに口を開いた先生を無視して、私はさっさと薄暗い廊下を歩き出した。

 悠々とした足取りで、酷く心持ちは軽やかに。今の私を鏡で見たのなら、我ながら憑き物が落ちたように晴れやかな顔つきでいるに違いない。

 ふと、背後で先生の独り言が小さく聞こえた気がした。何を言ったのかまではわからないが、私のことであることは、間違いないように思われた。



 階段を上がって、すっかり人気の無くなった寂しい校舎の廊下を進む。足音は私一人だけ。昼間の学校の雰囲気とは大違いな雰囲気に、まるで別世界に迷い混んでしまったかのような錯覚を起こす。

 本当に、このまま別世界に行ければ、どんなに良いだろう。

 下駄箱に向かい、スニーカーに履き替えて、上履きを仕舞う。トントンと爪先で地面を叩き、日が暮れていく世界を、歩き出した。


「……」


 左腕の制服の袖をちらと捲り、抜け落ちた表情で露になった肌を見る。

 バーコードのようになった古い傷跡の上から、真新しい横一線の傷が、汚ならしく瘡蓋を作りながら私に向けて目のような口を開けている。

 さらに袖を捲っていけば、無数の目が私を見詰めてくる。まるで私の罪を責め立てるように、私の存在を非難するような視線を徒党を組んで送ってきていた。

 罵詈雑言の赤い言葉は、昨日風呂場とトイレで流した。腕の怒りに水場は真っ赤に染まり、私は貧血で暫く動けなくなったが、気分はそれなりに良かった。

 掃除はしていないから、今から帰れば昨日見た通りの景色が家の中に広がっていることだろう。

 別に良い。文句を言う誰かもいないし、帰ってくることもないのだろうから。


「先生」


 袖を下ろして、夜に向けて歩き出す。

 子供の心に不釣り合いな漆黒が、私を呑み込んでいく。


「さよーなら」


 ふらふらと風に吹かれる綿毛のように頼りの無い私は、今日もふわふわと、明かりの無い夜を迎えることだろう。


 天春先生、ただ一人の淡い光を、マッチの灯火に、例えながら。

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