春の居場所

花房

本編

春の居場所【1】

 放課後のチャイムが鳴る。

 私は、机の横に引っ掛けてある黒いリュックを手に持って、すぐさま椅子から立ち上がった。

 周囲では他の生徒たちが、友達同士で談笑に耽りながらのんびりと帰り支度をしており、皆思い思いの放課後の時間を青春という時間の一瞬に捧げている。

 そんな光景を一瞥し、私は私の時間を過ごす為に、お決まりの場所へ向けて歩を進めた。



 つかつかと速足で廊下を歩く。リノリウムのつやつやした床を薄汚れた上履きで踏みしめ、最初は私と同じ年頃の子たちの喧噪で聞こえなかった足音も、教室から遠ざかるに連れて徐々に廊下に響くようになり、いつしか私の周囲に人は居なくなり、私が立てる大袈裟な足音のみが、この場に聞こえる唯一の大きな音となった。

 階段を下って行く途中、踊り場の窓から外を覗く。グラウンドでは運動部の男の子たちが威勢の良い声を上げ、土埃が舞う中を集団でぐるぐると走り回っていた。

 遠目から見るには、小さな虫が群れになって、規律に従って泥臭く生かされているように見える。まるで私を取り巻く人生の縮図を一歩引いた場所から眺めているような気持ちになり、反吐が出るような不快感に胸が悪くなり、顔を顰めてその場を後にした。

 階段を降りきると、そこは生徒たちは普段は立ち寄らない寂れた校舎内の一角だった。向かって正面には職員用玄関があり、その右横には事務室がある。時折卒業生と思しきスーツ姿の若い男女が受付窓口で何やら難しそうな書類の受け渡しをしていたり、はたまた親御さんらしい見た目をした人たちが、困った様子でこれまた小難しい話をしているのを見かける、そんな場所だ。

 かくいう私もこの学校の願書受付の際にあの受付窓口に他の中学生の子たちに混じって並んでいたことがある。ストーブの熱も届きづらい、寒い寒い曇天の日の記憶だ。もう暫くあそこにお世話になることはないだろうけど、またいつか、あの受付にお世話になる日が来るのだろうか。まぁ、そうだとしてもまだ先の話だ。高校一年、この学校に入ったばかりの新入生である私にとって、あの場所は少なくともあと数年は縁のない場所だろう。

 私の用がある場所は、右手にある事務室の前を伸びる廊下をさらに突き当たりに進んだ場所にある。校舎内の最果てのような場所をさらに果てへと進んだ先は、自ずと人気も無く、生徒達の賑やかな喧騒も届かない、同じ学校内とは思えない程の別世界が広がっている。廊下の隅に積み上がった、中に何が入っているのかもわからない段ボール。かつて校舎内の何処かで使われていたのであろうが、今ではその用途も察することが出来ないような、かつての役目を終えた備品達。

 遂には窓も消え日の光も届かない、まだ放課後だというのに鬱蒼とした雰囲気すら醸し出す廊下を突き進んだその最奥に、その扉はあった。

 固く閉じられた引き戸の窓は、内側から雑に張られた黄ばんだ画用紙のせいで、向こう側の景色は窺い知れない。

 そんな不気味で薄暗い空間の中、通常の生徒であれば絶対に寄り付かないような得体の知れない扉の前で、私はとんと上履きの爪先を揃え、そっと姿勢と前髪を正した。

 右手を緩く拳の形に握り、甲を外側に向けて、中央に出っ張った中指の関節を扉にあてがう。

 トントン、と軽い音が大袈裟な程、薄暗い廊下に響き渡った。


天春あまはる先生、入っていいですか?」


 扉越しに向けた声は、これまた恥ずかしいほどに大きく響き渡る。暫くしんと静まり返る廊下に、世界でたった一人、取り残されたような心細さを覚えた。

 実際は数秒程度の時間が一分二分と感じる緊張感。その末に、扉の向こう側から微かに衣擦れのような音と、耳慣れた待望の声が聞こえてきた。


「どうぞ」


 短い承諾の返答にぱっと胸を躍らせ、ガラリと引き戸を横に引いた。明朗な胸中とは裏腹に重苦しく引きずるような音が響き、廊下の雰囲気に合わせて扉まで陰気な調子を奏でてくる。

 しょうがない、しょうがない。ここは最果て、普通の人達からは忘れられた場所。ここは普通じゃない人達が集まる吹き溜まり。そう、学校で行く宛を失った者が、流れ着く最後の場所なのだ。

 重苦しく開けた扉の向こうから、温い空気が流れ出てくる。生温い温度がスカートから剥き出しの私の素足を撫でては通り過ぎ、惰性に任せて廊下の冷たい空気に溶けていった。

 しかし扉の向こう側に在るのは、冬の只中のように侘しい廊下の延長ではない。一人の男性が守る最果ての砦は、私のような流刑人の荒んだ心の全てを受け入れ、暑くもなく寒くもない温度で、そっと居場所を提供する、例えるならオアシスのような場所。


「いらっしゃい、今日はどうしたの」


 穴の開いた古めかしい皮張りのソファーに腰掛けた、どう見ても二十代前半……いや、下手をすれば高校生にも見える童顔で柔和に微笑む男性が一人、そこに居た。

 私の好きな人、私の大事な居場所。

 ここはスクールカウンセラーの天春円あまはるまどか先生が居る、公立高等学校の相談室だった。

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