第二話― 落ちこぼれたちの主張(1)
両親の一身上の都合により、ここ矢釜市の私立高校「派茶目茶高等学校」へ転校してきた、このストーリーの悲劇のヒロインである夢野由美。
彼女は引っ越してきて早々、不運にもこの街に巣食う不逞の輩に絡まれてしまう。だがその時、ピンチを救ってくれたヒーロー、“ケンゴ”という名前の一人の青年と運命的に出会った。
不良ばかりに埋め尽くされた学校で恐怖と絶望に苛まれていた彼女。学園生活に頭を悩ませていた矢先、前話の繰り返しになってしまうが、この物語の主人公二人は今ここに偶然の再会を果たした。
「あ、あなたは、あの時の――!」
「え?」
二年七組の遅刻組の一人である勇希拳悟は、廊下の片隅で怯えている由美の姿を見つめていた。彼にしてみても、この再会は想像もできなかったはずだ。
「キミは昨日の、あの女の子?」
運命の出会いを果たした二人を引き離すように、生徒たちが廊下で巻き起こったドタバタ劇を見学しようと野次馬のごとくゾロゾロと湧き出てくる。
その群集の中には、由美と拳悟のクラスメイトであるクラス委員長の任対勝や、その仲間の関全拓郎の姿もあった。
人ごみに紛れて埋もれていた由美を発見し、クラス委員長は気兼ねして声を掛けてくる。
「ユミちゃん、どうかしたのか? 変な騒動に巻き込まれてないかい?」
由美は頭を横に振って大丈夫という意思表示をする。動揺が続いているのか、彼女のうつろな目線が再び拳悟へと注がれていった。
いったい何事かと彼女の視線を追ってみた勝。すると、この騒動の発端であり囚われの身となった哀れな男子生徒を目撃した。
「おいおい、ケンゴ。無様な姿だな。遅刻ばかりじゃ、しょうがねーよな。いい気味だぜ」
勝はクラス委員長でありながら、クラスメイトの惨めな姿を見て高笑いをしていた。その失礼極まりない態度に腹が立ったのだろう、拳悟は顔を紅潮させながら怒鳴り声を響かせる。
「テメェ、スグル、いつまで笑ってやがる! クラスメイトの危機を救うのがテメェの仕事だろうが。何とかしろよ!」
「ハハハ、それは無理な注文だぜ。オメエは今、生活指導の反之宮氏の腕の中。つまり、クラス委員長の俺の出る幕じゃないってことさ」
クラス委員長からあっさりと見捨てられてしまった。自分が悪いとわかっていても、釈然としない拳悟はひらすら薄情者と文句を吐き続けるしかなかった。
そんな騒がしさが続く中、校舎のスピーカーから二時限目の授業開始を告げるチャイムが鳴り響く。
反之宮教員のドスの利いた尖り声がこだますると、廊下に群がっていた生徒たちは蜘蛛の子を散らすようにそこから離れていく。その中には、勝と拓郎に背中を押される困惑の表情を浮かべた由美の姿もあった。
「あ、あの……。いいんでしょうか?」
「構うことはない。ヤツは遅刻したんだ。当然の報いさ」
勝は冷たく言い放ち、由美を従えて二年七組の教室へと消えていった。拳悟のことをこれ見よがしに嘲笑いながら。
「あのー、タンノミヤさん? 俺も授業を受ける資格のある生徒なんですが……?」
「キサマは帰れると思うなよ。これから、俺様の鉄拳千発の刑だから覚悟しやがれ!」
「ちょっと待ってよ。さっきより五百増えてるじゃないの!」
こんな暴力教師、PTAに訴えてやると叫びながらも、拳悟は反之宮に首根っこを掴まれたまま生徒指導室という地獄の沙汰へと連行されてしまうのだった。
* ◇ *
二時限目の授業がもうすぐ終わりという頃。二年七組の遅刻組二人は、生活指導の名の下にこっぴどくお叱りを受けた後だった。
「ははは。それにしても、随分やられちゃったわね」
「ちくしょ~、タンノミヤのヤツめ。絶対に生徒いじめを楽しんでやがる。いつか見てろよ、ギャフンと言わせてやるから」
クラスメイトの和泉麻未と一緒に、拳悟は鉄拳制裁で腫らした顔をさすりながら理不尽な生活指導を激しく糾弾していた。とはいえ、遅刻した者が得意げに言える立場ではないと思うのだが。
「あー、そういえば」
何かを思いついたように、両手をパチンと叩き合せる麻未。
「さっき、ちらっと耳にしたんだけど、ウチのクラスに転校生の女の子が来たんだってね」
「ああ、あの女の子か……」
拳悟の頭の中に、ついさっき再会した由美の顔を浮かび上がった。
女の子の扱いに長けている彼にしてみたら、彼女のことなどすれ違ってきた女の子の一人に過ぎないはず。しかし不思議なことに、彼女のおどおどした顔が彼の網膜にくっきりと焼き付いていたようだ。
「あらら、ケンちゃん、どしたの? もしかして、その女の子のこと気に入っちゃったのかな?」
「バーカ、そんなんじゃねーよ」
拳悟は柄にもなく、そっぽを向いて恥じらいをはぐらかした。彼は無意識のうちに、由美という女の子に何かしらの関心を抱いていたのかも知れない。
二時限目の授業を終えるチャイムが校舎内のスピーカーから甲高く鳴り響く。それとほぼ同じくして、拳悟たち二人はようやく二年七組の教室へと辿り着くのだった。
「おーす、おはよう皆の衆」
教室のドアを開けた遅刻組に向かって、クラスメイトたちは今更ながらもきちんとした朝の挨拶を交わした。まるで英雄を迎え入れるかのように、彼らに対して尊敬の眼差しを向けている。
敬いの視線を浴びる中、拳悟と麻未の二人は自らの座席へと向かう。それを怪訝そうな表情で待ち構えるクラス委員長の勝。
「おい、ケンゴ。勘違いするなよ。おまえは偉くも何でもない単なる落ちこぼれだ。それを忘れんじゃねぇぞ」
勝のひがむような言い草に、拳悟は勝ち誇ったようにクスッとほくそ笑む。
「スグル、おまえこそ勘違いするなよ。クラス委員長って肩書きがなきゃ、おまえなんて外道でただのスケベ野郎なんだからな」
拳悟から悪口とも言える反論をされた途端、クラス委員長は青筋を立てて怒りの表情を露する。
まるで猛獣のようにいきり立つ勝。それをおもしろがってさらなる挑発を繰り返す拳悟。そして、そんな二人の仲介に入らざるを得ない拓郎。この三人組のドタバタ劇は誰にも止めようがない。
由美は席に座ったまま、その騒動を不安な面持ちで見つめるしかなかった。ビクビクと怯える彼女のもとに、麻未が微笑みながらふらっと近づいてくる。
「まったく、このハチャメチャトリオは本当にバカ丸出しよね」
唖然としている由美に、麻未は魅惑のウインク一つして自己紹介を始める。
「あたしは和泉麻未よ。あなたとはお隣同士みたいだから、これからもよろしくね」
お化粧をした色っぽい麻未を前にして、由美は呆気に取られながら絶句していた。同級生と思えない色気に戸惑いつつも、彼女は失礼のないよう礼儀正しく挨拶を返していた。
終わりの見えない騒動を鎮静化しようと、麻未は拡声器のように両手を口元に宛ててバカ三人組に間延びした声を張り上げる。
「おーい、いい加減にしないと、このかわいい転校生が先生に言いつけちゃうぞぉー。それでもいいのかー?」
これはたまらんとばかりに、すぐさま口喧嘩を止めてしまったハチャメチャトリオたち。その慌てぶりときたらまるで小学生のようである。
拳悟はコソコソと由美の真ん前の席に着こうとする。そのすれ違いざま、呆けている彼女の耳元にそっと囁いた。
「まさか、クラスメイトとして出会うなんてびっくりだよ。俺の名前は勇希拳悟。今後ともよろしくね」
「は、はい。わたしの名前は夢野由美です。あの、その。昨日はその……」
言い淀んでいる由美を尻目に、三時限目の授業開始のチャイムが高らかに鳴り響く。それと同時に入ってきた教師の声に、彼女の小さな感謝の言葉はかき消されてしまうのだった。
* ◇ *
三時限目終了のチャイムが鳴り響くと、派茶目茶高校にお楽しみのお昼時間がやってくる。
机の上に弁当箱を広げる女子、出張販売のお弁当を買いに走る男子。さらには、学校付近にある大衆食堂へ外食に出掛ける者。正午十二時三十分からの短い一時間、生徒たちはそれぞれのお昼休みを有意義に楽しむのであった。
それはもちろん、ここ二年七組の生徒たちも例外ではない。
これから大衆食堂へ向かおうと、クラス委員長である勝のことを取り囲む男子たち。今日はラーメンだ、チャーハンだ、カレーライスだと口にしながら、勝たち一行は賑々しく教室から出ていった。
教室を後にした彼らと同じく外食がメインである拳悟は、財布の中身をチェックしながら本日のランチをどうするか決めあぐんでいた。
「よー、タクロウ。おまえ、メシどーすんの? 一緒に行かねーか?」
まだ教室に残っていた仲間を誘ってみた拳悟。しかし、その気の合う親友からは空しくも断りの答えが返ってくるのだった。
「悪いな、ケンゴ。俺、先約があるからよ。またな」
拓郎は時計を見ながら、逸るように教室から出ていこうとする。そのにやけ具合からしてランチのお相手は女だろうと、拳悟は羨ましさからかムッとした表情で拓郎の背中を睨んでいた。
拳悟は溜息を一つ零して、またまたどうしようかと頭を悩ませる。そんな彼の目に、すぐ後ろの席に腰掛ける転校生の姿が映った。
「そうだ、ユミちゃん。お昼はどーする……」
拳悟が問いかけた瞬間、由美の机の上にかわいらしいナフキンで包まれた弁当箱がお披露目されてしまった。右も左もわからない転校生の彼女なら、弁当箱持参なのは当然のことであろう。
「……ははは、やっぱり弁当だよな。しょーがない、一人でメシ食ってくるかー」
独りぼっちで寂しさを片手に席を離れていく拳悟。由美はそんな彼の後ろ姿をじっと見つめていた。
(あ……)
まだ昨日のお礼をちゃんと言えていなかった由美。
命の恩人まではさすがに大げさかも知れないが、窮地を救ってくれた人であることに違いはなく、このままこの恩義をないがしろにするわけにはいかない。
じっとしてはいられない衝動に駆られた彼女は、拳悟の背中に向かって精一杯の大声をぶつけた。
「勇希さん! 待ってください。わ、わたしも、一緒に連れていってください」
拳悟は呼び掛けられて唖然とする。持参した弁当はどうするの?と尋ねると、由美は照れ笑いしながら手にした弁当箱をゆらゆらと揺すっていた。
「お弁当持っていくから、大丈夫です」
控え目に微笑する由美を見て、拳悟もそれにつられるように苦笑する。
それじゃあ行こうかと、彼は弁当箱を抱える彼女と一緒に校舎外にある食堂を目指して歩き出していった。
* ◇ *
派茶目茶高校から離れること十分ほど。拳悟と由美の二人は矢釜中央駅と繋がる矢釜中央商店街までやってきた。
この商店街は学生服や普段服を取り揃えるショップや、学生の興味をそそる雑貨やアイテムを揃えるお店が軒を連ねており、派茶目茶高校の学生たちにとってそれはもう寄り道の定番とも言えるエリアだった。
もちろん、学生を対象とした学割の食堂も点在しており、彼ら二人はそんな学生贔屓の食堂に向かって歩を進めていた。
「あのさ、ユミちゃん。弁当なのにどうして付いてきたんだい?」
「それはその、あの……。どうしても、昨日のお礼を言いたかったんです」
昨日のお礼という一言を聞いて、拳悟は昨日巻き起こった出来事を思い起こしていた。
派茶目茶高校の番長である碇屋弾に襲われてしまった由美。たまたま近くを通りかかった拳悟は、偶然のままに鉢合わせて彼女のピンチを救う格好となった。
「ああ、ダン先輩のことだね。まぁ、あの人はドジでスケベで救いようがないように見えるけど、あー見えても根性も据わっていて性根まで腐っている柔な人じゃないんだよ」
「そうなんですか……。わたしには、とてもそんな風には見えませんでした」
目上の先輩を擁護する拳悟であるが、襲われた当の本人にしてみたら彼の言葉を素直に信用することなどできるはずもない。
不良と決め付ける碇屋弾に限らず、隣のいるクラスメイトでさえも怯えながら接してしまう由美。そんな緊張でカチンコチンの彼女に、拳悟は不思議と疑問を抱いていた。
「あのさ、ユミちゃん。どうしてそんなにびくびくしてるの? もしかして、病気か何か?」
「病気とか、そういうわけじゃないんです……」
由美はこの時、拳悟に気を許していたのか過去にあった忌々しい過去について押し出されるように話し始めてしまう。
「わたし……。中学生の時、他の学校の不良たちに囲まれて、ひどいことをされかけたことがあるんです」
「えっ! それマジな話なの?」
驚愕の表情を浮かべる拳悟に、由美は言葉なく小さく頷いた。
彼女は中学生時代、下校途中に人気のない路地裏で、他校のガラの悪い男たちに取り囲まれてイタズラされそうになる危機に直面したことがあった。
おとなしい性格なので大声で助けを呼ぶことができなかった彼女は、男たちにされるがままになりそうになったが、間一髪、付近に住んでいる人がそれに気付いて声を掛けてくれたおかげで事なきを得たとのことだった。
「わたし、その時のことがトラウマになって、今でも男性と接するのが苦手なんです」
男性恐怖症のせいでそのおとなしい性格にますます拍車がかかり、由美は恋愛経験どころか、男性の友人も作ることができなくなってしまったという。
彼女は伏目がちに、苦痛に苛まれる過去を赤裸々に語った。心に深い傷を負った彼女に拳悟は同情するも、男性という立場だけに複雑な心境だった。
気まずい雰囲気に包まれたせいで、由美と拳悟は会話が途切れてしまい次の言葉が見つからずただ押し黙っていた。
その数秒後、口を閉ざしたまま歩いていた拳悟が何かを思いついたように立ち止まり、ハッとした顔で声を張り上げた。
「ど、どうかしたんですか?」
「ごめん……。食堂、通り過ぎちゃった」
苦笑いを浮かべる二人はきびすを返して、商店街で長らく営業している昔ながらの趣のある大衆食堂の暖簾を潜るのだった。
「おお、ケンちゃん、いらっしゃい!」
揚げ油の匂いが鼻につく店内で、活気ある店主の威勢のいい声が鳴り響く。鼻ヒゲを生やした彼の口振りから、どうやら拳悟はこのお店の常連客のようだ。
駅周辺でありかつお昼時だからか、食堂店内はさまざまな人種で賑わっていた。お客と店員が慌しく行き交う中、拳悟と由美の二人は空席の二人掛けのテーブルへと腰掛ける。
座席に着くなり、店主にエビチャーハンを注文する拳悟。彼の向かい側に座った由美も、小さなお弁当箱を揺らして注文不要を申し訳なさそうに意思表示した。
「それにしても、ケンちゃん、今日もまたかわいい彼女連れてきたねー。羨ましいな」
「ちょっとマスター。そういう言い方止めてよ。俺がいつも引っ切りなしに女の子連れてきてるみたいじゃん」
うやむやに否定してはいたが、拳悟が引っ切りなしに女の子を同伴していることなど、知り合ったばかりの由美は当然知る由もなかった。
その辺りについて詮索されても困ると思い、拳悟は話題を変えようと彼女にさりげなく話し掛ける。
「それにしても驚いたんじゃない? ウチの学校、ちょっと一風変わってるから」
そうですねと重たい溜息を漏らし、由美は苦笑を通り越して戸惑いの表情を浮かべている。優等生の彼女にしてみたら、乱れた校風の派茶目茶高校など悪の巣窟のように感じていたであろう。
そんな虎穴に住まう生徒の一人である拳悟。彼の素性を知らない由美は、もちろん彼の前では失礼に値する言葉を口外することはなかった。
とは言うものの、彼女は溜まりに溜まった感情を抑えられず、呆れるような口調でつい声に出してしまう。
「……どうしてみんな、すぐに喧嘩するんでしょうか。怒鳴り合ったり、いがみ合ったり、しまいには殴り合ったりするなんて。どうしてみんな、そんなに暴力的で野蛮なんでしょうか」
「え? ……えーと、うーん、それはだねー」
由美の投げ掛ける疑問に即答できず、拳悟は顔をポリポリと掻きながら困惑の表情で口ごもる。
誰しもが、痛い思いをしてまで殴り合いたくはない。そして誰しもが、わだかまりを生むほど口喧嘩したくはないはず。
これはいわゆるコミュニケーションの一つなのだと、拳悟が自分なりな解釈で答えを述べてみても、争うことそのものが理解できない由美には到底納得し得ないことであった。
少しばかり険悪なムードが漂う中、注文したエビチャーハンが届き、拳悟と由美の二人は昼食のひと時を迎える。しかし二人はそれほど会話が弾まないままに、わずか一時間足らずのお昼時間を終えるのだった。
* ◇ *
時は瞬く間に流れていき、時計の針が午後四時を指し示した頃。ここ派茶目茶高校に放課後という自由時間がやってきた。
二年七組の教室内では、この放課後を楽しむべく生徒たちの賑々しい声が所狭しと飛び交っている。真っ直ぐに帰宅する者、のんびり寄り道していく者、それぞれの楽しみ方は多種多様である。
それはもちろん、クラス委員長である勝やその仲間たちにとっても同様であり、彼らは輪を作ってわいわいと雑談をしていた。
「スグルさん、タクさん。これからゲーセン行きませんか? 他校の後輩からくすねたメダルが千枚ぐらいあるんですよ」
勝と拓郎の二人に声を掛けていたのは、髪型からモヒカンと呼ばれる勘造であった。そのすぐ隣には、ボウズというあだ名を持つ志奈竹もいる。
「おお、悪ぃな、モヒカン。俺と拓郎はさ、三年の連中に誘われてこれからマージャン大会なんだ」
前回誘われた時は大負けしたらしく、今回はせめて晩メシ分だけでも稼ぎたいと、勝と拓郎は鼻息を荒くしてこれからの勝負に向けて気持ちを奮い立たせていた。
そんな会話のやり取りの中、寄り道などするわけもなく真っ直ぐに帰宅しようと席を立つ由美。近所のクラスメイトに挨拶を済ませた彼女は、そそくさと教室から逃げるように出ていってしまう。
彼女は口を閉ざしたまま、生徒たちが群がる廊下を歩き続ける。男子生徒のニヤニヤしながら見つめる視線、女子生徒の蔑んだ冷ややかな視線を振り払いつつ、彼女はただ無我夢中で生き地獄の出口である玄関へと向かった。
とにかく早く家に帰りたい。そして、信頼のおける姉にこの事実をすべて打ち明けたい。彼女はそう心に思い、一心不乱に安住の家路へと急ぐ。
彼女はその時、脇目も触れず先を急ぐあまり、正面に立ちはだかる黒い影の存在に気付くことができなかった。
「キャッ!?」
玄関先の前庭で、由美は得体の知れない何かにぶつかってしまった。
彼女は慌てふためき頭上を見上げると、そこには彼女よりもはるかに大きく、身長百八十センチを越えるぐらいの男子生徒が佇んでいた。
「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
まるで応援団のような襟の高い学生服を着て、角刈りの頭に丸型のサングラスを掛けた大柄の男子生徒。
柔らかい物腰で接する彼だったが、由美にとってはそれが山林で出会った直立不動の熊のように見えてしまい、すっかり萎縮して身動きが取れなくなってしまうのだった。
見つめ合ったままの一人の男子生徒と一人の女子生徒。恋愛ものではよくあるこのシチュエーションだが、この廃れた派茶目茶高校だとロマンスも青春もへったくれもないから不思議である。
しばらくの沈黙の後、そんな二人のもとに駆け寄ってくる男子生徒がいた。彼は手を振りながら大柄の男子生徒に大声で呼び掛ける。
「おー、タンザブロー。悪い、悪い。ちょっと先生に捕まっちまった」
その声に聞き覚えがあったのか、由美はすぐさま背後から近づいてくる男子生徒に視線を移した。
「勇希さん――!」
「あれ? ユミちゃん」
由美のことに気付いた男子の正体は、彼女のクラスメイトであり何かと縁のある勇希拳悟だった。予想もしなかった二人組を目の当たりにして、彼は訝るように首を捻っている。
もしかして、ちょっかいを出されて困っているのでは?拳悟は美少女のピンチを救おうと、血気盛んに彼女たちの間に割って入っていった。
「おい、タンザブロー。俺のクラスメイトに気軽に声掛けやがったな? 事と次第によってはただじゃ済まさねぇーぞ、テメェ」
拳悟は鋭い睨みを利かして、背伸びしながら男子生徒の胸倉に掴み掛かった。
百八十センチはあろう大男にも物怖じすることなく凄んでみせる彼の恫喝に、由美の動揺はさらに激しくなってしまう。しかし誤解を解かなければならないと、彼女は勇気を振り絞って震える声を張り上げた。
「勇希さん、違うんです! わ、わたしの不注意で、その人にぶつかってしまって……。その人は、わたしに怪我がないかどうか尋ねてくれただけなんです!」
由美の悲痛な訴えが鼓膜に届いて一瞬呆気に取られる拳悟。そして、その通りと言わんばかりにコクンコクンと頭を振り下ろす大柄の男子生徒。
「な、何だよ、タン! そういうことなら早く言えよ。いらん体力使っちまったじゃねーか」
「……言う前に、思いきり胸倉を締め上げられましたからね。それは無理というヤツですよ、ケンゴさん」
あらぬ誤解も解けて、男子二人は頭に手を宛てて笑い合っている。事なきを得て、由美もホッと胸を撫で下ろしていたようだ。
由美の前に姿を現したこの大柄の男子は、拳悟とは遊び仲間で名前は丹三郎(タンザブロウ)、高校一年生の後輩だという。ちなみに苗字だが、拳悟は友人でありながら覚えていないようで、脇役の悲しき定めだろうかこの場で紹介されることは最後までなかった。
「あ、いけね。タンザブロー、急がないとヤバイぞ。新装開店に間に合わなくなっちまう」
校舎のコンクリート壁に飾られた時計が、午後四時三十分を告げようとしている。拳悟はその時計を見やり、丹三郎を連れ立って“パチンコ”という名の課外活動へと勤しもうとしていた。
呆然としている由美に別れを告げて、拳悟たち二人はパタパタとローファーのかかとを地面に響かせていく。その途中、拳悟はいきなり立ち止まったかと思いきや彼女の方へ顔を振り向かせた。
「ユミちゃん」
「……えっ?」
唐突に名前を呼ばれて、ハッと我に返ったような仕草をする由美。
「あのさ、俺のこと、苗字じゃなくて名前で呼んじゃって構わないよ。だって、スグルもタクロウも名前で呼んでるんでしょ? 俺だけ他人行儀はちょっと寂しいからさ」
「……は、はい」
由美は苦笑いを浮かべながら、最善を尽くしますと遠慮気味にそう呟いた。
彼女の小さな声が届いたかまではわからないが、拳悟と丹三郎の二人は手を掲げて雑踏ひしめく市街地方面へと足を速めていった。
落日を示すように、黄昏色に染まりつつある派茶目茶高校。
彼女は複雑な気持ちに胸を締め付けられながら、一歩一歩重たい足取りでざわつきと夕日の影が落ちる校舎を後にするのだった。
* ◇ *
その日の夜。由美が暮らすアパートの窓から、ぼんやりとした明かりが漏れている。
「ちょっと、ユミ。それ本当なの?」
四角いテーブルを囲み、由美と、そして彼女の姉である理恵は慎ましくもささやかな夕食の時間を過ごしていた。
本来なら、新しい学校の登校初日の話題といったら、校舎や授業の雰囲気とか気の合う友達ができたことなど、楽しい話題で盛り上がっているはずだろう。ところが現実はその期待を大きく裏切っていた。
「……うん。学校そのものが不良の巣窟。言い争いや喧嘩は当たり前、授業が終わったら、ゲームセンターやマージャン、さらにはパチンコに行く始末なの」
由美の切実な告白を耳にして、理恵は戸惑いと不安を隠し切れない。ただでさえ、不良に嫌悪感を抱く妹を危惧する彼女にしたら気が気ではない心境であろう。
まさかといった事実に、理恵はショックのあまり箸を持つ手を休めてしまう。彼女と同じく食事がすんなり喉を通らない由美も、持っていた箸とお茶碗をテーブルに置いていた。
「そんな話、静加先輩からは一言も聞いてなかったわ」
理恵の高校時代の先輩であり、由美の担任でもある斎条寺静加。
由美が転校するに当たり、お世話になった先輩というより一人の教師である彼女から、学校の雰囲気も明るくて生徒たちも前向きで朗らかだと派茶目茶高校への入学を推薦されていたのだ。
「あのね。先生の言うことも嘘じゃないと思うの。……クラスの雰囲気は、そんなにひどくないの。ただ、今までの学校とあまりにもかけ離れていて」
由美にしてみたら、転校生のことを快く迎え入れてくれたクラスメイトたちのことを頭ごなしに気嫌いすることはできなかった。
クラス委員長である勝や彼の仲間である拓郎や勘造に志奈竹。そして、何かと気遣ってくれた拳悟のこと。親切に接してくれた彼らの優しさと、それに対極する粗暴で暴力的な一面に彼女の繊細な心は大きく揺れ動いていたのだ。
「とにかく、わたしからも先輩に聞いてみるわ」
「うん……。わたしも、できるだけがんばってみるね」
姉妹二人は箸を持ち、冷め始めていた食事を続ける。おいしいはずのおかずから味気がなくなり、落胆という苦味ばかりが彼女たちの口いっぱいに広がっていた。
それから数時間後、由美は夜更かしすることなく薄っぺらの煎餅布団の中で就寝の時を迎える。
目を閉じても、どんどん湧き上がってくる嫌悪感。眠りたくても、悪夢を見ることに怯えてなかなか寝付けない。彼女はうずくまりながら、眠れない長い夜とひらすら格闘するのだった。
* ◇ *
翌日の朝も雲一つない快晴であった。
そんな心地良い陽気の中でも、通学路を歩く一人の少女の心は晴れることはなかった。
足かせのような重りを引きずって、抵抗感という荷物を背負った少女はたった一人、派茶目茶高校の最寄駅の矢釜中央駅へと辿り着く。
プラットホームから改札口を抜けると、その少女はおもむろに晴れやかな青空を見上げていた。
(いっそ、大雨にでもなって、びしょ濡れになって、風邪でも引いて寝込んでしまいたい……)
悲観するあまり、自暴自棄なことを心に思ってしまう少女。その少女こと夢野由美は、深い溜息を漏らしつつ監獄とも言うべき学校への道のりを進んでいた。
「あ……」
通学の途中、ピシッと学生服を着こなした高校生たちが楽しげに語らいながら由美の傍をすれ違っていく。乱れのない背格好、親しき中にも礼儀のある言動。そのすべてが彼女の通う学校の生徒でないことを物語っていた。
由美は羨ましげに、その高校生たちの方へ振り返る。
(いいなぁ。青春真っ盛りって感じで……)
あれこそが求めていた本来のあるべき姿なのだと、彼女は望むべき理想を思い描いていた。
由美が羨望の眼差しを送っていると、それを遮るように割り込んでくる黒い影。その怪しい影が彼女を望まない現実へと引き戻してしまう。
ズボンのポケットに手を突っ込みながら、ヨタヨタとだらしなく歩いている男子学生は紛れもなく由美の通う派茶目茶高校の学生だ。彼は脅迫めいた目つきで、通り過ぎていく優等生たちを睨み付けている。
ここで思いもしない事故が起きてしまった。
何と、さっき由美とすれ違った高校生の一人が、その派茶目茶高校の不良とすれ違いざまに接触してしまったのだ。
高校生は失礼を慌てて謝るも、時すでに遅し。不良はこれ見よがしに、高校生たちに近寄るなり因縁を付けていた。
「た、大変なことになっちゃった! ど、どうしよう――」
動揺するあまり声を震わせている由美。
きっと通りすがりの人が救ってくれるだろうと、彼女はキョロキョロと周囲を見渡してみたが、現実はそう甘くはなく思い通りにはいかなかった。
大人も老人も、そして派茶目茶高校の学生すらも、腫れ物に触るように、我知らずとばかりにこの場から過ぎ去ってしまう。
彼女はどうすることもできず、竦んだ足を動かせないままただ呆然とその場に立ち尽くす。さらに助けるという正義感と、見過ごすという罪悪感に挟まれて彼女の精神は崩壊しそうなほど迷走していた。
(わ、わたしはどうしたらいいの――?)
由美の心の奥から天使と悪魔がふわっと姿を現し、彼女にどう行動すべきか助言してきた。
「わたしは天使よ! ユミ、何をしているの? 早くあの人たちを助けなさい。あの人たちを救えるのは心優しいあなたしかいないのですよ」
「あたいは悪魔よ! ユミ、助ける必要はない。あいつらなど所詮は他人だろう。丁度いいから、おまえも一緒になっていじめてやれ!」
いくら助言されても、由美の気持ちはまだ揺れ惑っていた。助けたい気持ちはあっても、怖さが邪魔をして勇気を出すことができない。か弱い女の子なのだから、それも当然といえば当然なのだが。
いつまで経っても行動できない彼女。心の中の天使と悪魔はそれに痺れを切らしたのか、ついに対立を激化させて怒涛の罵り合いを始めてしまった。
「悪魔の分際で余計なこと言わないで! 純真な心を持つユミに邪悪な根を埋め込まないでちょうだい!」
「キサマこそ天使のくせに生意気だぞ! ユミはもう人の心など気にも留めない邪心を持つ人間となるのだ!」
もうやめて~~! 由美はそう叫んで両手で抱えた頭を激しく振り乱す。
心の中で続いた正義感と罪悪感の長期戦。その結末は、正義感を押し通そうとする天使の方に軍配が上がった。
心の中の天使に促されるように、由美の竦んだ足は一歩、また一歩と動き出して不良と高校生たちのところまで突き進んでいく。そして、彼女は精一杯の勇気を振り絞り不良目掛けて義の誠心を言い放った。
「やめなさぁーいぃ!!」
由美の甲高い大声に一瞬何が起こったのかわからず、不良も高校生たちもピタリと動きを止める。
ここまで来て後には引けず、青ざめた表情で小刻みに震えている由美。しばし呆けていた不良は、そんな彼女のもとに憎たらしい笑みを浮かべてヨタヨタと近づいてきた。
「よぉ、ねーちゃん。さっきの怒鳴り声、俺に言ったんか? もしかして、こいつらの代わりに慰謝料を払ってくれるんか?」
ゆすりたかりに誰が従うものですかと、由美は鼓動をバクバクさせながらも毅然とした態度でそう言い返した。
ここで彼女は機転を利かして、不良が自分の方に集中しているこの機会を見計らい、ここからすぐ逃げるよう高校生たちに合図を送った。
高校生たちは揃って、お礼というよりは謝罪に近いお辞儀をすると彼女と不良の傍から一目散に逃げ出していった。
「ほぉ、ねーちゃん、やってくれるじゃねぇか。よっぽど痛い目に遭いたいみたいだな、おい」
不良はこめかみに青筋を立てて苛立ちをより一層鮮明にする。手を挙げると示さんばかりに、彼は両手の拳で骨をポキポキと鳴らしていた。
由美はこの時、蛇に睨まれた蛙のようにまったく身動きすることができなかった。だが後悔してももう遅い。彼女は覚悟を決めて、瞳を思い切り閉じて歯を食いしばる。
「二度といい子ぶれないようにしてやらぁ!」
不良の振りかぶった拳が、今まさに、由美の頬目掛けて振り下ろされる瞬間だった――。
『パリーン』
ガラスが割れるような音が由美の耳元を掠めていった。いったい何があったの?と、彼女はそっとつむった瞳を開けてみる。
彼女の視界に映ったもの、それはジュースのビンの破片と頭から血を噴き出して喚きながら悶絶している不良の姿だった。そのショッキングな光景に、彼女は両手を口に宛がいおののいていた。
そこへやってくるのは、かかとを高らかに鳴らして、スタジアムジャンパーを羽織り、ミラーグラスで目を隠している男子が一人。
「女の子相手にグーで殴るなんざ、男の風上にもおけねーな。いっそ、手術して女々しいオカマにでもなっちまえよ」
「スグル、くん!」
ヒーローのごとく颯爽と現れたのは、由美のクラスメイトでありかつ有能な委員長でもある任対勝であった。
「よう、ユミちゃん、おはよう。間一髪、無事で良かったね~」
あと一秒でも遅く家を出ていたらそれこそ取り返しの付かない一大事だったと、勝はそう言いながらも事態の深刻さとは裏腹にさわやかに笑っていた。
頼れる知人の登場に安堵したのか、由美は緊張の糸が切れてしまい気が抜けたようにその場にひざまづいてしまった。
「おいおい、大丈夫かユミちゃん。ほら、手を貸してやるよ」
「……す、すみません。ありがとうございます」
差し伸べられた手を握ろうとした刹那、由美の視界にどす黒い影が飛び込んだ。その正体とは、完全にぶち切れモードに突入した不良の立ち上がった姿だった。怒りに満ちた拳が今まさに振り下ろされる――!
「スグルくん、危ない!」
迫り来る攻撃を瞬時に感知した勝は、素早く身を翻して振り下ろされた右手をガッチリとキャッチした。
「ゲッ! 俺のパンチを受け止めやがったっ!」
受け止めた不良の拳を握り潰すかのようにギリギリと締め上げていく勝。口角を吊り上げて彼は凄んだ声で不良に囁き掛ける。
「テメェ、一年坊主だろう? 俺は二年七組の委員長、任対勝だ。もし、タイマン張りたかったら俺の教室まで来な。……その代わり、命の保証はしねぇけどな」
ミラーグラスから放つ殺気と、握り潰されそうな右手の苦痛に不良は恐れをなしてみるみる表情を歪めていく。彼は一言、申し訳ありませんでした!と謝罪し、死ぬ物狂いで許しを請うのだった。
予期もせぬ受難も去って、ようやく勝の手を借りて起き上がることができた由美。
「ウチの学校の通学路じゃ、こんな騒ぎはよくあることさ。悪いことは言わない、あまり無茶しないようにな」
「……はい」
勝に諫言を零されてしまい、由美は反省しながら小さく俯く。それでも彼女は、こういう騒動が起こることそのものに疑念を抱いていた。
「暴力には……。暴力には、やっぱり暴力で対抗するしかないんですね」
由美の嘆くようなその言葉に、勝は意外だったのか呆気に取られていた。
「どうして、話し合いで解決しようとしないんですか? わたしには、どうしても理解することができません」
「そう言われてもさ。ビンで殴られて、血だらけになっても襲ってくるようなヤツじゃ、話し合いで解決なんてできやしないよ」
どう納得してもらおうかと、勝は困り果てた様子でショートウルフの頭を掻きむしっている。拳でしかわかり合えないこともあるのだと、彼は言い訳がましい返答をするのが精一杯だ。
「スグルくんも、勇希さんと同じこと言うんですね」
「え? ユウキってケンゴのことかい? ……まぁ、あのアホも俺と同じような考え方してるからなぁ」
そこにいる人物がクラス委員長だからか、それとも自らの危機を救ってくれた勇者だからか、由美は込み上げてくる感情を抑え切れず言えなかった本音をぶちまけてしまう。
「もう耐えられないんです……。わたしみたいな純情で純粋な女子が、こんな乱暴で粗暴で暴力的で、何を考えて生きているのかわからない邪悪な人たちと一緒に学園生活を過ごすこと、もう我慢できないんです」
「うわー。そこまでハッキリ言われると、ちょっとショックだなぁ」
勝は気持ち穏やかではなくとも、クラス委員長らしく転校生の由美のことを守る責務を負うことを決意する。その姿勢は、もともと責任感のある彼らしい振る舞いと言えなくもなかった。
「とりあえず俺が何とかするからさ。まあ、泥舟に乗ったつもりでこの俺に任せてくれよ」
「……スグルくん。それを言うなら、泥舟じゃなくて大船じゃないですか?」
由美に揚げ足を取られても、勝は臆することなくガハハとバカ笑いしていた。これもプライドの高さなのか、学のない恥ずかしさなどお構いなく泥舟をコンクリート舟と言い直す余裕すら見せていた。
そんな二人は横に並んで、騒動の尽きない学び舎である派茶目茶高校へと足を向けるのだった。
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